今思えばあの一言は、きっと言ってはいけないものだったのだろう。

「たかだか補助監督の君に、僕の何が分かるって言うの?」

長期任務から帰ってきたら、なまえは忽然と姿を消していた。
記憶の限りで最後に恋人に放った言葉がこんな台詞なんて、僕は本当に碌でもない。











「……は?」

最初に自分の口から出た言葉は、間抜けなそのたった一音だった。

家に入ると、違和感にはすぐに気付いた。なまえの荷物が、すべて無くなっていたのだ。出張に行く前まで本当にこの家に一緒に住んでいたのかと疑いたくなるほど、何もなくなっていた。部屋にあった私物はもちろん、洗面所の歯ブラシなんかも見当たらなくて、そのくせお揃いのマグカップはそのまま残されているものだから、なまえが今までここに住んでいて、だけど出て行ったということが現実なのだと、余計に知らしめてくるようだった。

テーブルの上には「しばらく戻らない」の置き手紙。嫌な予感がしてポストを見れば、なまえが持っている筈のこの家の鍵が入っていた。ひゅ、と肺から喉にかけて、無様な呼吸が一筋、細く浅く、嫌な音をたてて通り抜けた。そういえば手のひらに汗をかくというのも、確かこんな感覚だっただろうか。

鍵を置いていったのだ。文面のままに受け取るべきではないことぐらい、さすがに分かる。あわよくば戻らないつもりで出て行ったのだという推測はやけに現実味があって、さらに僕を動揺させた。



なまえのシフトを確認するため、すぐに知りうる限りの補助監督に連絡した。言い淀む伊地知にどうにか食い下がって聞き出したのは、「なまえは一ヶ月ほど休暇届けを出した」という内容だった。

この界隈は常に人手不足で、呪術師なんていう頭がイカれていないとできないこの職業は、少しの休暇や出戻りなどはある程度認められているのが現状だ。それは補助監督も同じで、一ヶ月程度の休みでまた戻ってきてくれるならと上は考えているし、受け持ちのエリアをほかの補助監督に引き継ぎさえできれば、休暇の許可くらい普通に下りる。

そして通常、仮に一ヶ月の休暇を出したといっても、一ヶ月後に担当通りのエリアに帰ってくるかどうか分からない。そもそも戻ってくる保証なんてどこにもない。凄惨な現場を見ることも珍しくないこの業界特有の数々の苦悩に耐えられなくて、少し休むといって休暇を取って、結局戻ってこられなかった術師や補助監督をたくさん見てきた。つまり何が言いたいかというと、引き金は間違いなく僕だけど、なまえがもうこの呪術界に関わることを辞める可能性は十分すぎるほどにある。

そうなると、自分とは関わることもない。なまえは始めから一ヶ月などと言わず、もう二度と自分にも会わないつもりで出て行った可能性が、足元により絡みついてくるようだった。

「……馬鹿かよ、ホント」

自分自身の馬鹿さに嫌気がさす。なまえは、任務だの何だのでよく家を空ける僕を、とても理解してくれていた。何も言わずに長期の出張へ行っても、帰ってきたら変わらずに「おかえり」「お疲れ様」と言ってくれていた。逆に自分が出張のときは、僕のために日持ちの作り置きのおかずまで用意してくれていた。

常に笑顔で尽くしてくれた記憶しかないからこそ僕は、思い上がっていた。なまえは自分のことが大好きで、何があっても隣に居てくれるのだと、そんな傲慢で根拠のないことを信じていたのだ。だからあの日、自分を心配する言葉を素直に受け入れられず、苛立ちに巻き込む形であんな言葉を口にした。






なまえがいなくなっても、僕に回ってくる任務や受け持ちの生徒の指導、上や京都校との会議なんかがなくなるわけじゃない。

時間がある時に出来る限り探したが、なまえは見つからなかった。電話は何度かけても繋がらず、メッセージは既読も付かない。電話に関しては、僕の番号がブロックされている可能性もあると思って、ほかの知り合いからもかけてもらったが、電源が入っていないという機械的なアナウンスは変わらなかった。

もしかしてなまえの身に何かあったのではないかと、そう思ってまた心臓がひやりとした。背中に嫌な汗をかく。こんな感覚はいつぶりかも分からないくらい久しぶりで、ただただ胃などのあらゆる内臓が気持ち悪かった。
しかしそう思ったところでできることが限られていることに変わりはなくて、ただただ思いつく場所を探しては空振りし、時間だけが過ぎていく。




家のドアを開けてただいまと言うと「おかえり」の一言が帰ってきやしないかと、ひょっこりリビングから顔を出して微笑んではくれないかと、毎日懲りずに期待する自分を、返事のないただの静寂が嘲笑う。その度にため息が出そうになるのを、喉元で堪えた。自分にはそんな風に残念がる資格すらない。

食事を抜くことが増え、少し痩せたことを硝子に見抜かれて注意され、それでも食べる気になれず、少しのカロリーとビタミンが摂取できるようなお菓子やゼリー飲料を、コンビニで買って済ませる。なまえの料理が食べたくて、冷蔵庫の中の作り置きが恋しくて、当たり前ではなかったあの日々を、当たり前だと思っていた自分にまた嫌気がさす。

一人で街に出ると時々女性に声をかけられるのは別に珍しくないことなのに、いつものように適当にあしらえない。こちらのことなど御構い無しに話しかけてくる女への苛立ちを抑えることにとても疲れる。聞きたいのはそんな甘ったるい声じゃないし、そんな香水で塗りたくられた香りを隣に置きたくない。ましてや触れるなど、抱くなどありえない。すべて、なまえじゃないと駄目なんだ。








なまえがいなくなってから、およそ一ヶ月。今日は貴重なオフだけどさして遊びに出かける気も起きず、なまえの居場所の検討もつかなくて探しにすら行けない。部屋の掃除だけを軽くして、あとは特に何もしないまま、時刻は午後7時。ああ今日もだめだったといつものように思った頃、電話が着信を知らせた。どうせ任務の連絡だろう。面倒に思いながらスマートフォンを手にして画面を見た。『みょうじ なまえ』というその名前を認識したと同時に、通話ボタンを押していた。

「なまえ……?」
『悟。久しぶり』
「なまえ……っ、なまえ、あの、僕、」
『うん』
「ひどいこと、言った。本当にごめん」
『うん』
「あんなこと、本当は思ってない。ほんとに、ごめん」
『……うん』
「会いたい。なまえに会って、ちゃんと謝りたいから、戻ってきて、ほしい」
『本当に反省してる?』
「してる、本当に、……あの日言ったこと、後悔してた、ずっと」
『もう言わない?』
「いわない、絶対言わないから、」
『わかった。……鍵、開けてくれる?』
「…………え」

がばりと玄関の方向を振り返った。どうして気付かなかったのだろうか。大好きな恋人の気配が、すぐそこにあるのに。

馬鹿みたいに慌てて走って玄関へ行き、鍵を回してドアを開ける。ずっとずっと待ち焦がれていたなまえが、キャリーケースを傍らに置いて立っていた。

「ただいま、悟」

気付いたらその体を力一杯抱き締めてしまっていて、痛いと笑いながら、子どもをあやすように背中をトントンとたたかれる。

「ごめん、ごめんなまえ、僕が馬鹿で、餓鬼だった」
「うん」
「あの日、家に入った瞬間におかしいって思って、置き手紙見つけて、そのあと鍵がポストに入ってて、本当に心臓が止まるかと、思って」
「うん」
「電話も繋がらないしメッセージも既読にならないし、何かあったのかもって、心配、した」
「……怖かった?」
「こわ、かった。本当に」

怖かった。そうか、恐怖というのは、こんな感情だった。自分の知らないところで、大切な人の身に危険が迫っているかもしれないという、何もできないのに勝手に膨らんでいく恐怖心。二度と会えないかもしれないと、失うかもしれないというその可能性が、自分が死ぬより何より怖かった。

「俺もいつも、いくら悟が最強でも、怖いんだよ」
「……うん」
「だから心配するし、身体も大切にしてほしい」
「うん、ごめん。ほんとに、ごめん」
「わかってくれたならいいよ。俺も心配かけてごめんな」

ケーキ買ってきたから一緒に食べよう、と笑うなまえを早く家に入れてあげたいのに、一ヶ月ぶりに触れるその感触と匂いを離したくなくて、おざなりな返事だけを零して、しばらく玄関で抱きしめていた。





数分後、渋々解放して二人でリビングに入って、駅前のケーキ屋のパッケージの箱をなまえが手にして、冷蔵庫を開けた。開けたが、暫く動かないなまえ。あ、まずい、と思ったがもう遅い。

「……悟、冷蔵庫の中、何もないんだけど」
「あー、えっと、食欲なくて」
「いつから」
「……なまえがいなくなった日くらいから……」 
「……今日の晩ご飯は?」
「………」
「悟。怒んないから」
「……食べてない、し、買ってないです」
「はぁ……」

スカスカの冷蔵庫にケーキを入れたなまえはため息をついて、財布とエコバッグを鞄から取り出して、一度脱いだダウンジャケットに袖を通した。

「とりあえず先に買い物行ってくる」
「僕も行く」
「いや、いいよ。そこのスーパー行ってくるだけだから」
「行く」

なまえの上着の裾を摘んで絶対について行くという意思を伝えると、「迷子の子どもみたいな顔すんのやめなよ」と困ったように笑うなまえが眩しくて、目がチカチカする。また抱きしめたくなったのを、どうにか堪えた。

「……なまえ、怒った?」
「怒ってない。呆れはしたけど」
「ごめんね」
「ていうか、ただでさえ忙しいのに、食べないと体もたないだろ」
「……だってなまえいないと自炊する気も起きないし、そもそもなまえの作ったものか、なまえと食べるものだから美味しいだけだし」
「はぁ……」

自分を心配する言葉が嬉しくて、ため息すらも愛おしい。ついでに、なまえの上着の裾を摘んでいた左手の指先はなまえの右手によって離され、代わりに恋人繋ぎになって、なまえの上着のポケットに招かれた。久しぶりに手を繋ぐその感覚と、格好よすぎる一連の動作にキュンとした。前々から思っていたけど、なまえは絶対に女にモテる。だからこそ今回みたいなことがないようにしなければいけない。他の女や男に取られたくないから。

「もっと呆れた?」
「まあ。あと、一ヶ月はちょっと長過ぎたなって反省した」
「僕が悪いからあれだけど、本当に心配したから、それだけは本当に反省してほしい」
「次は一週間くらいにしようかな」
「やめて、ほんとにやめて。何かあったらぶん殴ってもいいから、出ていくのだけはやめて」

はは、と笑うその笑顔はたしかに焦がれ求めたものだけれど、自分にとっては全然笑えないことなので、「笑い事じゃない」と言えば、なまえはまた笑った。吐き出される白い息すらもなんだかかわいく感じてしまって、敵わないと分かったので、お邪魔しているポケットの中で、ぎゅっと強く手を握る。

「ていうかこの一ヶ月、どこで寝泊まりしてたの?」
「あー、友達の家を転々としてた」
「……男? 女?」
「さすがに女の子の家に転がり込んだりはしないな」
「…………何もされてないよね?」
「当たり前だろ。ただの友達だって」
「なまえにとってはそうでも、向こうは違うかもしれないから」
「俺をどうこうする物好きなんか悟くらいだよ」
「そんなことない。なまえはかわいいから、そういう目で見てる男がいるかもしれない」
「……男にかわいいは褒め言葉じゃないからな」

スーパーに着いてすぐ、ポケットから追い出され離された左手。代わりに渡されたカゴを持って、なまえの後をついて行く。その耳が少しだけ赤い気がするのを、冬の寒さのせいにしてなんかやらない。


思い通りにならない人よ

このさき一生、敵わない




title by BACCA
2021.01.13