すれ違い様に指を一瞬だけ絡められる。

 これは、高専の自室に来るように、の合図。

『なまえ、お疲れ。今任務終わったところ。──明日は朝から移動だから、車で迎えに来てもらえる?』

 W明日の朝迎えに来てWは、今夜自分の家に来るように、の合図。

 他にも、二人きりの時に目隠しを外したらキスの合図。最中に手を取られ、彼自身のそれに触れさせられたら、口でしての合図。朝起きて、ベッドから出ようとする俺を引き止め、抱きしめて背中にキスをされたら、ギリギリまで寝ようの合図。

 五条さんと俺の間には、他の人は知らないたくさんの合図が存在し、俺はそれをひとつの間違いもなく汲み取れるけれど、五条さんの考えていることは少しも理解できていない。合図以外でも、何も語られなくてもある程度意思疎通ができるほどそれなりに長く関係を持っているけれど、それもきっと、話すことがそもそも無いせいだろう。

 W五条悟に縁談の話が持ち上がったWという噂が流れたのは、昨日の夜だ。俺は特別耳が早いわけではないけど、同年代の補助監督のメッセージグループで誰かがそんな話題を提供した。あとは、W高級なジュエリーブランドの店に入っていくところを見た人がいるらしいから今度こそいよいよ婚約かWなんて話も上がった。きっと潮時なんだろう。五条さんとの身体の関係をここで断ち、ついでにこの叶うはずもない劣情も捨てる。

 そのために暫く会わないようにしようと思っていたところへ、電話が鳴る。「明日の朝、迎えに来て」。電話でそのまま断ればよかったのに、それをしない浅ましい自分。最後にその顔が見たいと思う、女々しい自分。

 本当は行きたくない。行ったらすべて終わる。だけど終わらせないといけない。好きな人の足枷になんかなりたくはないから。







「五条さん、今日はこの後予定があるので、車だけ置かせてもらって、また明日の朝迎えに来ます」
「……予定? 今から?」

 五条さんの家を訪れると、いつもの部屋着を着た家の主。上がって、と呼ばれるまま靴を脱いでリビングへ進む。ソファに座るよう促されるそれを遮って用件を告げると、怪訝そうな顔。当たり前だ。時刻は22時20分、今から何処かへ出掛けるには遅い時間。

「仕事?」
「いえ」
「じゃあ何?」
「デートです」

 以前バーで出会った、知らない男との約束。待ち合わせてホテルに行くだけのそれをわざわざデートと呼ぶ痛々しい自分。

「……は?」

 低く不機嫌になった声。下ろされた目隠し。それがいつもの合図ではないことは明白だった。
 俺を抱く気でいたのだから、五条さんが怒るのは織り込み済み。殴られたりしたらそれを理由に今後会わないようにする。ひどく抱かれたらそれも然り。二度と僕の前に姿を見せるなとでも言ってくれたら、大成功なのだけれど。

「誰?」
「……誰でも、」
「良いわけないよね。誰? 言わなきゃ行かせないけど」
「ッ痛、」
「っ、……ごめん」

 掴まれた手首が軋んだ。思わず声を漏らして顔を顰めた俺に気付いて、慌てて緩む手の力。
 なんで。なんでそんな顔をするのだろうか。セフレが思い通りにならなくて苛立つなら分かる。でも、縋るような瞳を向けられる理由が分からない。金も権力も持っていておまけにルックスも良いこの人なら、男でも女でも、相手になんか困らないだろうに。

「ねえ、本当に誰。男? 女? そもそも同業者? そういえば前に、被害者の女から連絡先聞かれてたこともあったよね」

 いつになく捲し立てられ、言葉を挟む余地を探すが結局、疑問をすべて聞き終えた後になった。

「男、です。俺を、貴方の代わりに、抱いてくれる」
「……誰、そいつ。殺すけど」
「非術師です。いくら五条さんでも殺しちゃ駄目ですよ」

 普段の愛想の良い姿しか知らない人は、この豹変ぶりに驚くだろう。人を守ることを責務としているこの人が「消す」「殺す」と簡単にいうのは、呪霊や呪詛師を除けば上層部に対してだけだと思っていたが、どうやら違ったらしい。
 本当に誰の命でも簡単に奪えるこの人に、怯える人もいるけれど。俺は鮮烈に憧れて、惹かれて、気付いたら目が離せなくなった。だからこの人に恐怖を感じることはないし、それこそ手を上げられてもきっと好きでいるだろう。盲目的な自覚はある。
 だからこそ、自分以外の誰かのものになるなら、今すぐに離れたい。誰かに自分を上書きしてもらって、自分の中のこの人の存在を、少しでも薄めたかった。

「……言いましたよ。離してください」
「言わなきゃ行かせないって言っただけだよ。言えば行かせるとは言ってない」
「そんな屁理屈──」
「なまえ」

 真剣な声。さっきまでももちろん真剣だったけど、より静かな声。それなのに俺の思考はさっきよりもっと乱されて、息が詰まる。

「なんで急に、そんなこと言うの」
「………」
「教えて、なまえ。僕の何が駄目だった?」

 そんなのは俺が聞きたい。俺じゃ駄目かなんて何度も溢れそうになった。だけど俺の何が駄目かなんて、聞かなくても分かってる。

 アンタは五条家の次期当主で、こんな、子どもも産めない男を抱いてる場合じゃないってこと。分かってるから、俺は聞けない。だから聞かれても、何も言わない。そのつもりだったのに。

「お願い。……教えてよ」

 覇気のない声。最強であるこの人が、ただの補助監督である俺に、あまつさえセフレに向けていい声音ではないだろうそれに、胸に落ちていた鉛が少し軽くなった気がしてしまって、つい言葉が喉を潜ってしまう。

「……縁談の話が、あったって、聞きました」
「……僕の?」
「はい。だからもう、終わりにした方が良いと思って」

 端的に、淡々と。自分の感情なんかは二の次で、とにかく簡潔に伝えるだけ伝えて、手を離してもらうつもりだったのに。

「嫌だ」
「……え?」
「縁談なんて、勝手に組まれるのはよくあることだよ。でも僕はその度に断ってるし」
「なんで……」
「なまえといたいから」

 息が詰まる。心臓が一瞬止まったような感覚だ。そんなことあるわけないのに。

「そもそも後継ぎとか気にしてるなら杞憂だよ。六眼や相伝の術式は、僕の子どもに遺伝するほど簡単なものじゃない」
「……たとえそうでも、」
「なまえは僕のこと、好きじゃないの?」

 狡いことを言う。好きだから離れようとしている。好きじゃなければ、別にセフレのままで良かった。好きになってしまっているから、この先、貴方に唯一無二の存在ができることが耐えられないのに。

「他の奴のとこ、行かないで。此処にいてよ」

 きっと五条さんの想像よりも遥かに簡単に紡がれたその言葉を、俺は本当にいとも簡単に受け入れてしまう。好きだから仕方ない。好きになってしまったから、離れないといけないのに矛盾してる。

 耳の縁を指先でくすぐられる。これは、この人に抱かれるときの合図。こんなことをするのだって大した言葉を必要としないぐらい分かり合えているのに、その心が少しも見えないのが、俺たちの関係そのものの脆さを表している気がした。