「おはよう」

 朝起きて、いつもより小さな腰の痛みを引きずって起き上がり、そのまま黙って出て行こうとしたらそっと掴まれた腕と、今のこの体勢とは裏腹に、場違いな朝の挨拶。
 「おはようございます」とどうにか返した俺は、五条さんの顔を見られない。

「どこ行くの。仕事?」
「はい」
「嘘。シフト見たよ、今日オフだよね」
「……意地悪ですね」
「人聞き悪いなあ」

 五条さんだけを見れば、いつもと何ら変わらない朝に思える。俺の中では、昨日を最後の夜だと思って抱かれた。それをどの程度勘付かれていたかは分からないけど、五条さんは終始俺を気遣っていていつもと違う様子だったから、きっと何かしらを気取られていたんだろうとは思う。
 ほぼ毎回のように記憶が曖昧になるほど溺れさせられる行為も、昨日は随分と大切にされた気がする。そう、気がするだけ。つまり気のせいだ。そう言い聞かせる俺の脳に鼓膜を経て侵入する、静かな声。

「必死なだけだよ」

 その声がずいぶんと真剣な響きに聴こえて少し動揺した俺を、五条さんが後ろから抱きしめた。嗅ぎなれた匂いが鼻をくすぐる。昨日の行為で少しだけ眠ってしまった後に一緒にシャワーを浴びたから、同じシャンプーを使ったはずなのに。五条さんからはいつも良い匂いがする。俺はこの匂いが好きだった。

「なまえってさ、なんかいい匂いするよね。同じシャンプー使ってるのに」
「……俺も同じこと、思ってました」

 俺の好きな匂い。この人に触れられるたびに感じて、なんとも言えない、限りなく多幸感に近い感覚を得て、これからは自分じゃない女がその眼差しと温もりを与えられるんだと思うと、心臓が痛いくらいに軋む。だけど隣に居続けるなんてできないし、そもそも最初から予感できていたはずなのに割り切れない自分が悪い。それは分かっている。
 全部、俺が悪い。だからこのままならない感情を飲み込んで昇華しなきゃいけないのは、俺だけだ。
 そう思っていたのに。

「好きだよ」

 空気が止まる。
 好きという言葉を行為の外で言われたのは、記憶の限り初めてだった。

「なまえが好きだから、一緒にいて。僕との未来を諦めないでよ」

 未来なんて、簡単に言わないでほしい。いずれ世継ぎを生まなければならない人にメリットのない時間を割かせてしまうことが、ましてや共に将来を歩ませてしまうなんてことが、道を踏み外すよう手を引いてしまうようなこの関係が、一体どれほどの大罪か。
 いっそぜんぶ取っ払ってただの遊びだと思えたら、軽い気持ちでそばにいられたら、どれだけ良かっただろう。

「……昨日、僕が何回好きって言っても、一回も返してくれなかったね」
「………」
「ねえ。なまえは僕のこと、どう思ってる?」
「……俺、は」

 貴方の与えてくれるW好きWとは違うかもしれない。そんなに綺麗な感情で収まらないかもしれない。俺の世界は五条さんとそれ以外とでできているとか、五条さんのためなら死ねるとか、逆に五条さんが居なくなったら、もうこの世界に用はないだとか。そんな醜くて独りよがりな気持ちを捨てられずにいる。

「五条さんになら、何されてもいいと思ってます」
「………」
「好きとか嫌いとか、そんなものじゃないです。五条さんの隣に誰かがいる未来を想像すると苦しくて、でも、そもそもそんなことを考える図々しい自分が嫌だ」
「……うん」
「五条さんは俺の全部だから、……だから邪魔、したくない」

 同じ景色が見られる人が羨ましいとずっと思っていた。昔、五条さんと同じくらい強い同級生がいて、その人と五条さんは親友だったと聞いたことがある。今は五条さんの生徒に特級のとても強い術師がいるし、同じ等級でなくとも、五条さんのひとつ後輩の七海さんなんかもとても強い。きっと将来、五条さんの片腕になれるような人たち。
 術師の才能もない上に男である自分なんて、側にいる理由を見つける方が難しい。

「婚約してもセフレが必要なら、俺なんかよりもっと、都合が良くて面倒臭くない人を探してください
「───……」
「貴方の未来に、俺は要らないから」

 五条さんはほんの少し息を吐いた後、そっと腕を解いた。きっとそれが答えなんだと思った。これが最後だと思うと名残惜しいような気持ちになりながら、再びベッドを降りるために重心を前に移した時。

「なまえ。こっち向いて」

 優しく甘い声に反射的に振り向いてしまった馬鹿な俺の、そのすぐ目の前に差し出された、濃紺のベルベットを纏った小さな箱。ドラマでしか見たことがないようなそれは中に仕舞われたものを容易く想像させるけれど、でも、まさか、そんな。

「左手、出してくれる?」
「……ご、じょう、さん」
「ん?」
「やめてください、俺なんかにこんなこと、しないで、」
「要らなかったら捨てて。なまえにしか渡したくないから」

 俺の言葉を遮って、五条さんの長い指が俺の手を持ち上げて、そっと指輪が通された。左手薬指。将来が欲しいと思う相手に渡すものだと認識している。少なくとも、俺が受け取るべきものではない。だから、少しも拘束されていないこの手を振り払うべきなのに。

「これだけでなまえを手に入れられるとは思ってないけど、やっぱり牽制の意味でも指輪を買おうと思ったとき、まずブランドで迷ってね」

 牽制。何のために?

「色んなお店を見に行って、その度に迷ってさ」

 俺なんかに渡すものなんて、適当に選べば良いのに、いやそもそも要らないのに、なんで。

「とりあえず渡すことに意義があるし思い切って決めようと思って、どうせなら身につけてほしいからシンプルなものにしようって考えて、結局、このシルバーの指輪にしたんだ。まあ、それでも迷って、買うまでに3回くらい同じ店に行ったけど」

 忙しい人だ。だからこそ合間を縫って会える時は浮かれたし、だけど行為が終わるとこの胸にあるのは虚しさだった。
 そんなとにかく忙しい人が、わざわざ何度も店に行った?

「シルバーリングなら付けてる人も多いしさ、僕となまえが付けててもちょっとは誤魔化しやすいと言うか……いや、僕は見せつけたいんだけど、もしなまえが嫌なら適当に理由つけて他の指にしてくれていいし、指が駄目ならチェーンに通してネックレスにしてくれてもいいから」
「なんで、そこまで、して」
「分からない?」

 分からない。分かるわけがない。難易度の高い任務や後進の育成、上の人たちとの会合や御三家の会談まであると聞く。そんな人が、まるで俺のために心を砕いて、指輪一つのために何度も店に足を運んで、悩んでくれていたなんて、そんなはずがないのに。

「なまえが好きだよ。君の一生が欲しい」

 その言葉にとうとう涙が溢れて、目を擦ろうとしたら左手のひやりとした金属の冷たさを感じて、また抑えていたものが決壊する。

「順番が違ったね。まずはセフレとかじゃなくて、なまえの本当の恋人になりたい」
「……っ……、ぅ、…」
「今まで、家や高専の自室に呼んだらどうしてもなまえに触りたくなって、それが誤解させたんだよね。出かけるより家でゆっくりしたいと思ってデートにも誘ったことなかったし、碌に気持ちも伝えられなくてごめん。指輪も、驚かせたくて一人で買いに行ったけど、不安にさせるくらいならなまえと一緒に買いに行けばよかった」
「ごじょ、さん」
「ていうか僕、きみの恋人のつもりだったんだよ。セフレと思わせてたのすごいショックなんだけど」

 貴方のものになりたかったし、貴方のことが欲しかった。理由がなくとも側にいられて、そして側にいても許されるような存在になりたいと思っていた。他の誰かにじゃなく、五条さんの口から、すべての赦しが欲しかった。
 この銀色に光る指輪が、その証の一つになるのだろうか。


▽▲▽▲▽


「ていうか、昨日言ってた男とデートってやつ、アレは嘘だったってことでいいんだよね?」

 朝食を食べ終えてソファに並んで座って寛ぎながらテレビを見ていたら、ふいに抱き寄せられ問いかけられた。五条さんの肩に頭を預けるような体勢になって、頭の左側に触れる体温が心地いい。
 動きの鈍い脳を叩き起こして五条さんの質問を反芻する。昨日。男とデート。そこまで言われてようやく思い出した。

「連絡、忘れてた」
「……は? 本当に約束してたの?」
「当たり前でしょう、流石に嘘であんなこと言いませんよ」

 俺から声をかけておいて連絡もなしにドタキャンなんて、流石に申し訳ないことをした。謝罪のひとつぐらいは入れておくのが礼儀だろうなとテーブルのスマホに手を伸ばしたところで、一瞬の浮遊感と、背中で皮張りのソファを受け止めた感触。

「連絡先、消して」
「え、」
「なまえがほんのちょっとでもそいつのこと考えるのが嫌だ」

 覆い被せられ、首元に顔をうずめられ、五条さんの呼吸に肌の表面をなぞられるような感覚に肩が震える。甘えたようなその仕草が珍しくて、恐る恐る五条さんの髪をさらさらと撫でた。
 さらにぎゅっと抱きしめられ、重さはないものの体格が違いすぎるためそこそこの圧迫感を感じ始めた頃。ようやく五条さんが起き上がった次の瞬間には、やたらと可愛さのあるリップ音とともに唇が啄まれて、一瞬で離れた。

 五条さんが動くたびソファが軋んで、ここで抱かれたことなんかないのに、その音やこの体勢が回り回って夜の行為の匂いを連れてくる気がする。昨日、随分と加減されたから? だとしたらなんて節操のない話だろうか。

 それにしても、五条さんのこの拗ねたような態度。思い当たるのはひとつしかないけど、つい声に出してしまった。

「僕といる時は、僕のことだけ考えてよ」
「……あの」
「何?」
「間違ってたらすみません。もしかして嫉妬、です、か」

 違ったらあまりにも恥ずかしいなと思いながら言葉を待つと、目を丸くした五条さんに頬を持ち上げられ目が合った。青い瞳には俺しか映っていない。それがどれだけ特別なことなのか、たとえばこの人がそれを理解したとしても、きっと本当の意味では分からないだろうな。

「むしろそれ以外に見える?」

 むくれた表情のまま、また一瞬だけ唇を食まれる。この人の視界の真ん中に自分がいるだけでもすごいのに、俺を独占したいとまで言ってくれる。ちゅ、ちゅ、とまるで戯れみたいな音を響かせる、俺を諭すようなキス。それに応えていると少し機嫌がよくなったのか、角度を変えてまたくっつけて、それが何度か繰り返された後には、五条さんは満足そうに笑っていた。
 それなのに俺は、その手にもっと深くまで触れられたいと思ってしまう。

「五条さん、すみません」
「そんなに謝らなくていいよ」
「違くて、あの」

 ぶり返した熱をやり過ごせそうになくて、五条さんの肩に額を預けた。

「今からは、駄目ですか」
「………」
「五条さんに触りたい、です」

 自分から誘ったことなんかなかったからどうしたらいいか分からなくて、とりあえず五条さんのモノに少しだけ触れると、既にそこは少し硬くなっていた。いや、というか勃ってる気がする。

「あの、」
「はー……。一応聞くけどさ、誘ってんだよね?」
「……むしろそれ以外に見えますか」
「……ははっ、最高」

 唇が触れ合ってから迷いなく舌が捩じ込まれ、呼吸を妨げられる感覚が肺をきゅうっと狭めた。五条さんの服を掴んでいた右手を掬い上げられ、指が絡まる。

「好き。大好き。優しくするから、抱かせてくれる?」
「……俺も、五条さんだけがずっと好きです」

 今までは言葉がなくても、おおよそのことは通じていた。だけどこれからは、たとえなくても伝わる場面だったとしても、こうして言葉をもらえるのだろうか。
 答えの代わりに、俺の左手薬指にあるものと同じものが五条さんの同じ指で光っていた。


左様ならあの世まで

死ぬまで一緒にいてくれという、俺たちだけの合図のこと





2021.08.15