潮目で晴れやかに咲うあのひとの傑視点






 傑、と呼ぶその声が好きだった。

 私のことを好きだと語るその目が好きだった。

 他の誰にも愛想が良く好青年に見えるなまえの、快感に悶え切なく眉を寄せる表情や熱に浮かされて惚けたような表情が好きだった。

 なまえが私だけに見せる何かしらの感情があることが、そしてその全てが好きだった。




 「暫く距離を置こう」と言ったのはなまえの気持ちを確かめたかったためだったと、今になって思う。私がそれを言えば、嫌だと、仲直りしたいと言ってくれると思っていた。
 なまえは私のことが好きで、なまえにとって私は唯一で特別で、だからそんな言葉をかけたってすぐに折れてくれてごめんと言ってくれて、元通りになれるだろうと思っていた。

「ごめん。なるべく近づかないようにするから」

 だからそう言われた時、想像していた謝罪の言葉のあとに想像していなかった言葉が降ってきたことで、自分の心臓が嫌な音を立てて軋んで身体の内側から冷え切ったような感覚を覚えた私は、自分に背を向けて去るなまえを引き止めることができなかった。

 私達が恋人同士であることは誰にも秘密だった。みんなの前では友達の距離感でいるよう努めたし、だからきっと、私にみんなと同じ挨拶だけを交わすことも周りから見れば自然で当然で、自分に当たり障りのない笑顔を向けて悟や硝子に妙に楽しげに笑いかけていることなんてきっと偶然。ただの同級生とのなんてことないワンシーンだ。
 そんなに簡単に私が要らなくなるのかなんて、少しだけでも思った自分はどれほど傲慢だったんだろう。自分から遠ざけたくせに、近付いてきてくれないことに苛立つなんて。

 女の子を引っ掛けたのは、ただの腹いせかその類いだったと思う。なまえと悟が仲良くするところを見るのが嫌で、自分に関心を向けてほしかった。私が帰らないことを心配して不安になって切なくなって、私を恋しいと思って欲しかった。

 だけどそんなことを数週間続ければ、馬鹿な考えは虚しさに取って変わる。それどころか、いい知れない罪悪感と自身への嫌悪感が募る。

 なまえに会いたい。会って抱きしめて、行いを悔いて謝って、キスをしたい。少し赤くなるその頬に触れて、額をくっつけて笑い合いたい。
 なまえは優しいからきっと、全てを伝えて誠心誠意謝れば許してくれる。そんなことを思っていた呑気で馬鹿な私への天罰なのだと思った。




 なまえが任務から帰ってきたら、仲直りしようと思っていたんだ。それなのに、任務を終えて報告書を適当に埋めながらなまえの帰りを待っていた私の耳に届いた、バタバタと誰かが走ってくる荒々しい音。

「硝子!!」

 悟の妙に焦った様子と声。悟は一人で任務に行った。任務の場所が近いから、帰りになまえと合流できるかもしれないとも話していた記憶がある。
 二人で同じ車に乗るなんてとわずかな嫉妬心が渦巻いたが、そんなことを思う価値もない自分の行動を省みては腹の底に押し留めていた。二人で談笑しながら帰ってきたら、私を避けるだろうなまえを引き止めて連れ出して、二人きりになって謝罪をし、仲直りしたいということを伝える。そんなイメージトレーニングもしていたのに、すべてが吹き飛んだ。

「なまえが───」
 硝子の治療を必要とするその対象の名を聞いて、鈍器で頭を殴られたような心地だった。その後悟が何か言っていたが、少しも耳に入らなかった。



 許されるどころか謝ることもできなくなるなんて、思っていなかったんだ。この世界じゃ日常の終わりはあっけないのに、どうしてそれを忘れていたんだろうか。

 補助監督から緊急の要請があって悟が駆けつけた頃には領域が展開されていて、悟が外からそれをぶち破ったらしい。応援に来たのが悟じゃなければ危なかっただろう。
 命に別状はないと医者は言うが、目覚めることなく眠り続けるなまえの寝顔を見るのが日に日に辛くなっていた。このまま目覚めなかったらどうしようと毎日考えていたから、目を覚まして起き上がっているなまえを見た時は、本当に嬉しかったのに。

「あの、本当にすいません。俺あなたが誰か、分からなくて」

 時が止まったようなその感覚を、私は一生忘れられない気がした。





「……、傑、なあ、大丈夫?」
「っ、あ」
「なんかボーッとしてない? 熱中症とか?」
「いや、大丈夫。すまない」

 今日は体術訓練で、今は悟と夜蛾先生の組手の番。グラウンドに照り付ける日差しは確かに容赦がないけれど、晴れの日は雨の日より何十倍もマシだ。

 なまえは私のことだけでなく、この高専での記憶をすべて失っていた。見た目が変わったわけじゃないから、肉体はそのままに脳に干渉する術式だったらしい。

「ならいいけど……。体調悪いなら保健室行ったほうがいいよ」

 ただの友達を心配するようなその声に耳を塞ぎたくなる。ただの同級生の不調を気遣うだけのその目が見られない。他の人間に見せている表情がただ同じように自分に向けられていることが、なまえの中に自分への特別な感情がないことが、こんなにも耐え難い。

 もう一度「大丈夫」と伝えて、悟と先生の組手を見る。なまえもそれに倣ってグラウンドへ身体を向き直したようで、そっとその横顔を盗み見た。
 何も変わらない。その横顔は付き合っていた頃と同じだ。それなのにこんなにも、なまえが遠くに感じる。




 なまえは記憶の一部を失ったものの、数ヶ月経てばほぼ今まで通りに術式を扱えるようになり、身体は覚えているのか体術もみるみる向上した。
 悟はなんだかんだ友達としてなまえが大切だったのか、ゲームに誘ったりコンビニに行くときに声をかけたりしてどんどん打ち解けたし、硝子はなまえがもともと女の子に優しいこともあって、煙草を吸っていると飴を渡されたと言っていた。

「前にも同じような飴くれたし、やっぱみょうじはみょうじなんだね」

 硝子は穏やかに笑っていた。自分のW友達W同士の仲が良くなることは喜ばしいことのはずだ。それなのに、なまえとの過去を同じようになぞれる二人への羨ましさだけが募って、うまく言葉を返せなかった。

 雨の日が嫌いになった。なまえが任務に行って気を失ったまま帰ってきたのも、長い雨の降る日だったから。肌にまとわりつく湿度とともに漂ってくるぬるい雨水の匂いを嗅ぐと、あの日を思い出してしまうようになった。
 最近は、なまえとはどうにかいつも通り話をしようとしている。それが上手くいっているのかいないのかは、なまえを見れば一目瞭然だけど。




 今日は朝からしとしとと雨が降っていて、時折止んではまた降り始めるという空模様だ。なまえは実戦の感覚を掴みきれていないからと、先輩の任務に同行していて此処にはいない。
 あの日のように一人で行っているわけじゃない。だから大丈夫だと分かっていても、帰ってくるまで部屋で待っているなんて落ち着かなくて、共用のロビーのソファで帰りを待っていた。

 悟も先輩や後輩もいない一人きりのロビーはやたら静かで、音と言えば耳障りな雨の音だけ。手持ち無沙汰になって携帯を弄れば、無意識になまえからのメールを遡っていた。最近時間さえあれば見ていたために、手癖になってしまっているらしい。
 付き合う前も後も、それほど変わらない他愛のないやり取り。だけど恋人になってから本当に稀に、『会いたい』『部屋行っていい?』『おやすみ』なんていう恋人らしいやり取りがあった。

 その中の一通、最後のメールをつい開いては、もう感覚として何百回と読み返しているそれにまた目線を走らせる。

『別れよう。好きになってごめん。今まで付き合ってくれてありがとう』

 好きだった。本当に好きだったのに、そんな大切な恋人にW好きになってごめんWなんて言葉を言わせてしまった後悔。別れようという言葉で刺さった棘が、次のその文面で冷たく鋭くなって胸に深く沈む。
 酷いことをした私に、付き合ってくれてありがとうなんて優しすぎる。呪霊の領域内で送ったのだとしたら最期を覚悟してのメールだろうに、その最期まであまりに優しい。私には勿体ないほど素直で純粋ななまえが好きで、際限なく恋しくなっては、その度に友達としてしか触れられない関係性に唇を噛む。

 もしもあの頃に戻れたら喧嘩なんてしないで、好きだというこの気持ちを何度だって伝えるのに。

「ただいま」

 背中からの声に、ソファにだらしなくもたれかかっていた体勢から身体を起こして反射的に振り返る。メールを開いていたその画面を慌てて閉じて、慌てて「おかえり」と言った。
 ついメールの文面に集中してしまっていたが、無事に帰ってきてくれたことにホッとする。見たところ外傷もなく元気そうだ。同行していた先輩はそのまま部屋に戻ったのか、そこにいたのはなまえだけだった。その視線がじっと私の手元に寄越される。

「彼女?」
「……え、あ、いや」
「あ、秘密にしてる感じだった? ごめん」

 彼女、ではないけれど恋人からのメール。恋人だった大切な人からのメール。言える筈もない言い訳が喉に詰まって、曖昧に笑うことしかできない。

「でもいいなぁ、彼女」
「え?」
「傑モテそうだもんな」
「そんなことないよ」
「傑くらいだと『まあね』って開き直っとかないと嫌味になるよ?」

 くすくすと笑うその顔はかわいいけれど、なまえの告げる言葉はいつもほんの少しだけ残酷だ。柔らかい棘のある真綿で首を絞められるような、かすかに痛めつけられる感覚。自業自得だと分かっているが、胸の真ん中がひどく冷たくなる。

「あー、なんかごめんな? ……あのさ、俺もしかして、傑とあんまり仲良くなかった?」
「え……」
「なるべく近づかないようにするから許して。ごめんな」

 あの日と同じ言葉に、吸うつもりだった酸素が喉に詰まった。なまえは何も覚えていない筈だ。私がかけた無遠慮な言葉も私がしでかした愚かな行いも、なまえは何も知らない。それなのにあの日と同じ言葉を吐いたなまえに、胸が苦しくてたまらなくなる。

──なるべく近付かないようにするから

 寂しそうなその声色に気付いていながら、何も言わなかった自分のせいだ。

 目の前にいるのが間違いなく自分の恋人だった人間であり、今はもうただの友達であること。
 そして自分のせいでまたなまえが離れていこうとしていること。

 あの日の焦燥がフラッシュバックしそうになって、内臓の中で細胞が死に絶えていくような気持ち悪い心地がぶり返しかけたのをすんでのところで堪えて、手を伸ばす。
 手首を掴めば、反射的に振り返るなまえ。自分や悟とは違って華奢だと感じる。記憶を失う前のなまえにそれを一度言った時「傑と悟がデカくてガタイ良すぎるだけ」と拗ねながら言われたのを思い出す。

 今まで積み上げてきた、何気ない日常の数々。その随所に散りばめられる思い出たち。それを知っているのが自分だけだという孤独。
 なまえを独り占めしたいと思ったことなら何度もあった。それはなまえが自分を好きでいてくれていて自分がそれ以上になまえを愛している世界線の中での話だと注釈を入れたくなる。今、思い出を独り占めしてしまっていることの寂しさと、自分だけでも覚えているという安堵とが身体に入り混じっていて、ひどくもどかしくて息苦しい。

「……喧嘩を、したんだ」
「うん?」
「きみと喧嘩をして、仲直りできないまま、だったから」

 もう全て諦めてW友達Wになったほうがいいと思うのに、往生際が悪いことに口が勝手に動いて言葉を紡ぐ。
 そうして、言葉を放ってしまってからハッとする。顔を上げればなまえは目を見開いていた。言い方を間違えた。これじゃあまるで、仲直りができないのはなまえのせいだと言ってしまっているようなものだ。悪いのは全て私だったのに。

「あー……、ごめん。じゃあ、仲直りってことにしない?」
「え?」
「ほら俺、申し訳ないけど忘れちゃってるじゃん。だから前みたいに、普通に友達として接してくれたら嬉しい」

 前みたいに。
 普通に、友達として。

「……そう、だね。仲直り、してくれる?」

 私の知るW前Wは、W友達Wではない。私にとってのW普通Wは、きっとなまえの思うW普通Wじゃない。

 今更、どうしようもないことと分かっている。なまえは変わらず優しいままだ。我儘を言う私に眉を下げ、努めて優しく笑う。その表情は紛れもなく友達や先輩後輩に向けるもの。
 特別を手放したのは自分なのに、熱を持ったその特別な視線を向けられる相手がいつか現れることが、どうしようもなく恐ろしい。

「……なまえは」
「ん?」
「好きな人とか、いる?」
「……へ?」

 間の抜けた声。今までに何度か聞いた。割と落ち着いた性格のなまえは、不意打ちに少し弱かった。時々見せる年相応のぽかんとした表情は私の好きな顔のひとつだった。

「今はいないかな」

 好きな人はいない。それに安堵したはずなのに、何故か心臓が軋むのはどうしてだろうか。

「───そっか」
「うん。もしそういう人できたら言うから、相談乗ってよ。俺、まともに恋愛したことなくてさ」
「…………、うん、任せて」

 君と私は、私にとっては何にも替え難い大恋愛をしてみせていた。私の心をすげなく奪ってくれていた。そう伝えられる日がもう来ないかもしれないことを噛み締めながら、今のなまえの言葉をただ鼓膜で受け止めた。
 自分の表情が分からなくて取り繕おうとするが、どんな顔をすれば正解なのか。そうやって思考を彷徨わせていると、目尻に何かが触れた。それがなまえの指であるということに気付いた時には、つい情けない声でその名前を呼んでしまっていた。

「あ、ごめん。なんか、泣いてるみたいに見えちゃってさ。そんなことないのにな」

 眉を下げて困ったようなその笑顔を見て、思わず腕を伸ばして抱き締めた。ただの友達に対して戯れ合うでもなくただ縋るように抱きしめるなんて、そんなのは一般的じゃない。分かっているのに、体が言うことを聞かなくて。

 大丈夫かと気遣う声が首元の皮膚から体内に侵入するみたいに私の心に伸びてきて、だけど、柔らかくて鋭い棘でまたこの心臓を真っ直ぐに貫くんだ。

「何かあったら、言ってくれたら嬉しいな。俺たち、友達なんだから」

 友達。悟や硝子と同じ、友達という名前の関係。私はそれでは嫌なんだと、私と君は本当は恋人同士だったんだと、何もかもを知らないなまえに、どうして今更伝えることができようか。

どんなにどんなに愛しても
遠去かる日々へ



どこまでもずっと優しくて、そんな君が大好きで、いつまでもずっと苦しくて




title by 失青
2021.10.14