幼い頃、末端ながら五条家に仕える家柄に産まれた俺は、同い年で且つΩの階級がそこそこに高かったために両親に売られて五条家にやってきて、五条家当主からお声をかけられて悟様と番(つがい)になる契約をした。今すぐどうこうではなく、将来的に番になるという意味合いだ。いわゆる、婚約者という関係性になる。
悟様は自由を求める方だった。そんな方が、家が決めたこの契約に納得いく訳がないことは明白で。
「自惚れんなよ。俺が当主になったら、こんな契約すぐ破棄してやる」
「どうせ金か権力目当てだろ」
「オマエのことなんか好きになるワケねーから」
12歳となった悟様は既に聡明で、そして強かった。俺の顔など知らないかのように目を合わせることなくそう告げられ、子供ながらにじくじくと痛む胸を深い呼吸でごまかした。
俺は昔、一目見た時から悟様のことが好きだった。だけど悟様は縛られない生き方を求めている。深く頭を下げて、「承知いたしました」と答えた。
いずれ契約破棄となって元婚約者となった時に俺の存在が悟様の人生の汚点とならないよう、贅沢はせずつつましく生き、そして時が来たらここから去って、五条家とは関わらないよう遠いところで暮らそうと思った。
悟様に嫌われていようが仮にも婚約者かつ立場としては従者なので、悟様のご帰宅にはお出迎えをしなければならない。お帰りなさいませと言う声はなるべく小さく、そして玄関に膝をついて頭を下げて、できる限り悟様の視界に入らないよう努めた。悟様は立ち止まることもなく、俺はただこの五条家で息を潜めて生きていた。
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「お帰りなさいませ」
悟様が15歳になった頃。
いつものように頭を下げる。そして悟様は答えることなく俺の横を通り抜ける、はずだった。
「……ただいま」
とても小さな声だったけれど、確かに俺に言葉を返してくれた。あまりに驚いたのでそのまま息を止めてしまって顔を上げられなかった。なにせ期限付きの関係、そして悟様に嫌われている現状を考えれば奇跡のようなこと。悟様はそれ以上何も言わず、足音は遠ざかった。ただの気まぐれなのだから多くを望んではいけないと、改めて自分を戒めた。
それからもたまに挨拶を返してくださるようになって、しかしそれに対して何と言えば良いか分からず頭を下げる日々が続いた。
そしてだんだんと挨拶だけでなく時折名前を呼ばれるようになり、食事の席へと呼ばれるようになった。ほんの僅かにではあるけれどあの綺麗な蒼の瞳に俺を映してくださるようになったことが信じられなかった。吸い込まれるような、という文学的表現はただの比喩ではなかったと知る。
幸せと同時に心臓が落ち着かなくて顔に熱が集まってしまうため、2秒と目を合わせられないけれど。
それから一年が過ぎ、悟様が16歳となる年になった。つまり、誰かと番えるご年齢となられたのだ。
ほぼ後継としての権力を得られたと言っていいタイミングでもあったからいよいよ形だけの婚約を解消する時が来たのだと思っていると、どういうわけかそのまま継続することとなり、それどころか正式に番うこととなった。何故? 悟様は俺と番うつもりはないと度々言っていたのに。
混乱したまま内々のみの婚儀が執り行われ、言われるがまま発情期を速めるための促進剤を飲んだ。その夜には離れの間に布団が敷かれてその上に向かい合わせに座り、ずっと首に付けていたチョーカーが悟様の手によって外された。
好きな人と一緒になれるのが──悟様に抱いていただけるのが嬉しくて「本当に僕で良いのですか」と出過ぎたことを聞いたのが、いけなかったのかもしれない。
「……別に。無理になったら別れりゃいいだけだろ」
悟様は事もなげにそう言って、俺のうなじを噛んだ。全身に走るのは悟様のものになれた確かな幸福、そしてそう遠くない未来にある終わりを予感させる絶望。
はじめての行為は怖いぐらいに気持ちよかったけれど、悟様にとってはきっと取るに足らない出来事だった。ただなんとなく僕が面倒な存在ではなくなったから受け入れただけ。世界は残酷で不平等だ。
もしかしたら生粋のαである悟様は知らないかもしれない。αに捨てられたΩの末路。αは別のΩのうなじを噛めばまた番えるけれど、Ωは死別でもない限りは生涯ただ一人のαの影を追って生きていかなければいけないこと。
番を解消されたΩが自死を選ぶ例は少なくないと聞く。もちろんまだこの身に起こったことはないけれどそれでも、想像できてはしまうのだ。一度捨てられたら誰にも愛されることなく生きていかなければいけないという恐ろしい孤独に苛まれる自分、そして自分を捨てたαが新たに別のΩを愛する惨めさ。
うなじを噛まれる前に自分からこの関係を断ち切らなければならなかったのに、少しでも長く悟様のそばにいたいと思った自分が悪いのだ。
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番になってから半年。悟様は俺のいる離れに来られることは殆どなく、特に呪術高専に入学されてからはご学友と楽しく過ごされているようで、帰省されること自体あまりなくなっていた。時々メールが来るので、それを見て悟様の近況を知ることができるのが幸せだ。そして同時に、同じ教室で過ごせるご学友の人たちがとても羨ましいなと思う。きっと俺なんかには見せることのない表情を見せているんだろうなと分かるから。
「っん……」
1,2ヶ月に一度訪れる発情期は、必然的に一人で過ごすことになる。発情期になったらαと過ごすのが一般的だとは思うけど、悟様にそれを知らせたことはない。悟様に聞かれたこともないから。
番となったあの日以来、苦しいくらいの熱と怠さと、浅ましく求めてしまう本能をどうにか飼い慣らそうとしている。だめだと分かっていても悟様を想像して前を扱いてしまって、だけどそれでも足りない。ナカに受け入れた悟様の熱と快感を知ってしまったから。
「あ、ぁ……っ」
後ろに指を入れてナカをかき回し、布を噛んで声を殺して慰めて、物足りないながらもなんとかピークである三日三晩を乗り切る。それの繰り返しだった。
せめて巣作りなどができれば少しはマシだったかもしれない。けれど悟様の服は高価なものばかりで皺になるのも汚してしまうかもしれないのも気が引けるし、何より嫌われたくなかった。好きでもない相手に私物を触られるなんてきっと嫌悪しかないだろう。面倒な存在になって捨てられるぐらいなら、一人で耐える方が何倍もいい。
そうして、いくら番という関係性になろうともちゃんと弁えなければと思っていたのに、発情期の最中にスマホが目に入ってしまって、絶対にだめなのに今すぐ声が聞きたくて堪らなくて、体が言うことをきかなくて。それどころかもう頭が回らなくなって半ば無意識に悟様の名前を探して、通話ボタンを押していた。
『もしもし?』
「あ……」
『……なまえ?』
「っ、ごめ、なさい……」
『は?』
「さとるさま、ぁ、……た、い」
『おい、』
「あいたい、さわって、さとるさま……っ」
熱でおかしくなった頭が捻り出したのはそんな言葉で、関西と関東なんてすぐに会える距離じゃないなんて分かりきっているのに本当に馬鹿だ。
言ってからのしばらくして、きっともう終わりだろうなと思った。悟様は俺のことを、さぞ面倒だと思っただろう。こんな自分勝手な相手なら番わなければ良かったと思っているかもしれない。視界が馴染んで呼吸が苦しいのはすべて、溢れて止まらない涙のせいだ。
悟様に捨てられる自分をひとたび思い描いてしまえばマイナスな思考は止まらなくて頭がぼーっとして、さっきまで暑かったのに今はなんだか寒気を感じて、瞼が重たくて。
「……ごめん、なさい」
きちんと伝えられたか分からないそんな言葉を残して、意識を手放した。
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目が覚めたら、きちんと整えられた布団に横たわっていた。発情期の後は色々とぐちゃぐちゃで、それらを自分で洗濯したり自身もシャワーを浴びたりするところから始まるのに。そもそも今回、発情期の間の記憶があまりない。意識が朦朧とするのはいつものことだけど、何かいつもと違うことが起こった気もするのに。
嫌な予感がして記憶を辿っていると、コンコン、とノックされて我に帰る。離れは襖だが内鍵がついていて、発情期の時は必ず鍵を閉める。番のいるΩのフェロモンはその番であるαしか誘惑しないが、万が一のことを防ぐためだ。
「はい、今開けま……」
鍵を開けようと立ち上がって気付く。鍵がかかっていない。襖に手を伸ばしきる前にそれが開かれ、そこには悟様が立っていた。
「……さとる、さま……」
「……ん。体調は?」
悟様が心配をしてくださっている。答えないと。咄嗟にそう思って「大丈夫です」となんとか絞り出したものの頭の中は疑問でいっぱいだった。帰省のご予定など無かったはず。何かあったのだろうか。発情期は終わった。そうだ、今回はいつもより程度が酷くて、耐えても耐えても苦しくて、それで。
「……ぁ、」
そうだ。紛れもなく俺が、電話をかけてしまったんじゃないか。学業に任務にとお忙しい悟様に、会いたいなんて馬鹿な我儘を言ってしまった。
もともと俺のことを好きでもなんでもなかったはずなのに、気まぐれだったとしても番にしてくださった。それなのに面倒なことを言ってしまって、これでは愛想を尽かされても仕方ない。
「あー、オマエ昨日電話で、」
「申し訳ございませんでした……!」
「は?」
「もう二度と、悟様の邪魔をするような真似はしないと誓います……っ」
慌てて正座して畳に重ねた手の甲に額をくっつけて頭を下げ、謝罪の言葉を述べた。今日これから番契約も婚約も破棄されるのだろうか。心の準備ができていない。もう少しだけ、悟様に新しいパートナーが見つかるまでの間だけでも。
「悟様が僕を好きではないことは存じております」
「は……」
「時が来たら悟様の前から消え、金輪際関わりません」
「ちょ、」
「悟様が望まれるなら、番を解消したあと命を絶つ覚悟です」
「………」
「ですから、形だけで構いませんので、もう少しだけ番のままでいさせてくださいませんか……」
なんとか自分の気持ちを言い切ってはみたものの、悟様から返事がない。怖くて顔を上げられずにいた俺には、悟様が絶望にも似た表情で立ち尽くしていた事など知る由もなかった。
花冷えの夜半
「………」
「……何? 五条の負のオーラ」
「あぁ……、婚約者の発情期の周期も知らなくて番になった日から一度も発情期に寄り添ってあげたこともなくて、一昨日かかってきた電話で寂しそうに会いたいって言われて初めて発情期が辛いものだと知って慌てて会いに行ったらしいんだけど、婚約者は悟が自分を好きじゃないと思ってるとかで、なんか色々とすれ違っていて手の施しようもないし何なら将来的な番の解消まで仄めかされたらしい」
「……そこまで言ってねえ……」
title by 英雄
2024.09.01