自分が大金で売られたらしい、というのは直ぐに分かった。

父に嫌われていたのは知っていた。俺の祖父、祖母は呪術師だったが父はそうではなかった。父は、呪霊の視えない人間だった。俺がW持っていることWは、きっと腹立たしかっただろう。父からの愛情は、物心ついた時から一度も感じたことがない。

母ももちろん呪術界とは何の関係もない、普通の人だったけど、優しくて温かくて、普通の人には視えないモノが視える俺にも、子どもとしての愛情を注いでくれていたように思う。

俺が12歳のときにその母が病気で死んでから、父は荒れて仕事も上手くいかなくなり、家にいる時間が多くなった。最近はどこからか借金をするようになり、俺は働いた金をなんとか家に入れてはいたが、追いつかなくなっていく。

そんな時だった。俺に呪術師としての価値を見出して売りに出した結果、この五条悟という人が俺を買ったのだという。何百万あったか知らない借金は全額返済され、さらに一千万だか二千万だかを上乗せして入金されたという。

父には、俺がW持っていたWばかりに、心労ばかりかけてしまった。俺を売れたことで、「俺を産んで良かった」と初めて思っているかもしれない。自分の価値なんかそんなものだ。最後に金になっただけマシだと思った。

寧ろ、よく買い手が見つかったものだなと思う。俺は戦うことなんかできない。ただ空間を少し移動できて、反転術式を少しばかり使える。ただそれだけのことしかできない俺に、大金を掛ける必要なんかないと思うが、金額が多いほど父が助かるならと今も何も言わずにいる。

「こんにちは。僕は五条悟、よろしくね」

俺を買ったその人は、笑顔でそう言った。

五条悟。界隈でこの人を知らない人はいないほど、圧倒的な呪術師。朧げにしか記憶がないけど、本当に昔、一度だけ会ったことがある。祖父母に連れられて五条家へ行った時だから、子どもの頃の話だ。初めて会ったとき、神様みたいな人だと思ったことだけ覚えている。
そしてそれは今も変わらない。目隠しをしていても分かるその顔立ちだとか、色素の薄い髪の色。そしてきっとあの頃と変わらない、形容し難い美しさの瞳。

言動は軽く見えるけど、恐ろしいほど呪力が渦巻いてる気配がする。強い弱いの次元じゃない。この人と同じ世界に立っている呪術師や呪詛師はきっといないんだろう。










「なまえは僕のだからね」

五条さん(名前で呼べと言われたがまさか呼べるはずもない)は度々、俺にそう言う。

分かっている。途轍もない額で買われたのだから、所有されている身であることは知っているし、どんな扱いをされても受け入れるつもりでいた。

しかし実際は、俺が頼まれることはとても小さなことだった。五条さんの家に住まわせてもらうことになって、家事を一通りやってほしいと言われた。この家は一人暮らしとは思えないほど広く、だけどその割に物が少ない。掃除や洗濯はすぐに終わるし、五条さんは忙しくて一日三食を家で食べる日なんてそう無いので、料理だってさほど作らなくていい。

本当にこんなことでいいのか、この人が金を出したその価値の分だけ働けているのかと疑問に思っていた頃、夜に部屋に呼ばれて、ベッドに座った五条さんに引っ張られ、「抱きたい」と言われた。抱き込まれている状態の俺の視界は、五条さんの部屋着のスウェット一色だったから、表情は分からない。そしてあまりにも突然だったので、内心とても驚いた。

それと同時に、分かったのだ。俺が買われた理由はきっとこれだったのだと、すぐに合点がいった。俺は体の線は細めだし、顔立ちはどちらかというと中性的だ。周囲からの自分の顔への評価から、世間一般的に見てそこそこ整っているらしいということも自覚していた。

五条さんはとても有名な人であり、そのお家柄も考えると、そういうことをする相手は選ばなくてはならず、色々と困っているんだろう。顔だけ見ればそれはもう全く相手には困らなさそうだけど、五条家の人間ともなると、相手によっては後々面倒ごとになる可能性もある。

以前テレビを見ながら、綺麗な女優やアイドルを指して「この子かわいいよね」などと言っているのを聞いているので、男が好きというより、男も女もいけるということなのかもしれない。どちらでもいいなら、万が一のリスクのある女の人よりも、俺のような人間の方が都合がいいということもすんなりと理解できた。

しかも、俺は反転術式で自分の身体を治せる。傷がつこうが何しようが、生活に支障が出ることはない。

そうして、今は週に1回くらいのペースで、五条さんに抱かれている。最中の五条さんはとても優しく、まるで壊れ物のように俺に触れた。もっと雑に扱ったって死にはしないのに。










「今日、僕の誕生日なんだ」

12月7日。朝食の後片付けをしていると、着替え終わった五条さんに言われた言葉。誕生日。当たり前だけど、この神様みたいな人にも誕生日があるんだなあと、馬鹿なことを思った。

「すいません、知らなくて……。お誕生日おめでとうございます」
「ありがとう。今日は早めに帰ってくるから、ご飯作って待っててくれたら嬉しいな」
「分かりました。献立の希望はありますか」
「任せるよ。なまえの作る料理はなんでも美味しいからね」

五条さんはそう言って、俺の額にキスをして出かけていった。自分でその場所に触れてみると、手や心臓が熱くなる。最近、こういう風に触れられることが多くなって、その度に変な感情に振り回されてしまう。それが何か分からないまま、心臓を服越しに掴んで、不整脈を鎮めた。

冷蔵庫の中に殆ど食材がなかったので、スーパーへ買い物に行ったその帰り。大通りから一本横道に入ったところで、ぞくりと感じる気配に、身体中の細胞が萎縮する感覚があった。これは、偶に遭遇する低級の呪霊なんかの比じゃない。どうしてこんな、学校でも病院でも廃墟でもない、ただの住宅街に。

呪霊を目視して思わず立ち止まる俺の後ろから、ランドセルを背負った子どもが2人、俺を追い越して走っていった。そうだ、ちょうど今は、下校時間だった。

反射的に、呪霊に向かって走っていく子どもに空間転移を使う。咄嗟に飛ばした場所は俺がさっき行っていた近くのスーパーだから、驚きはするだろうが、きっと大丈夫だろう。
本当は、自分以外に使う場合は、転移させる対象に触らなければいけない術式。ましてや動いているものを対象に使うなんて、呪力の消費と身体への負荷が馬鹿にならない。

自分を空間転移すれば逃げられるかもしれない。だけど、すぐ近くに人の気配がする。間違いなく、呪霊の見えない一般人だ。ここで俺が逃げれば、次の標的になってしまうかもしれない。

考え事をしている間に、ガン、と強い衝撃とともに吹っ飛ばされた。見えなかった。それはそうだ。俺は戦いの経験なんか殆どないのだから。

打ち付けた背中やあちこちが痛むが、思ったよりその痛みは強くない。それに、反転術式を使えばある程度の傷は治せる。

だけど少し、本当に少しだけ、躊躇した。もう既にそこそこ呪力を使ってしまっているし、色々なことがなんとなく、どうでもいいと思った。俺が一人死んだところで、何も変わらない。ただ、俺が死んだら父へ支払われた金はどうなるのだろうか。それだけが気がかりだ。

意識が段々遠のいていく。呪霊がこちらを狙っているのが見える。ああ、そういえば今日は、あの人の誕生日だったのに。

神様の生まれた日に死ぬなんて、とんだ罰当たりだ。












どこか眩しさに呼ばれた気がして、目を薄っすらと開ける。見慣れた天井だった。「おはよう」とすぐ隣から声がした。黒い布で目元を隠した五条さんの、その目が笑っていないことだけは分かった。俺が身体を起こしたタイミングで、ベッド脇の椅子に座って、俺の目線に合わせるように背を丸めた。

「身体は? どっか痛いとこない?」
「……ない、です」
「それは何より」

五条さんは立ち上がり、俺の座っているベッドの空いたスペースに腰を下ろした。より近付いた距離と、いつもより硬い声、表情。

「僕、いま怒ってんの。なんでか分かる?」
「ご迷惑をおかけした、ので」
「ハズレ」

五条さんは俺の肩にトン、と頭を乗せた。また不整脈が起きてしまう。いつものことなのにそれを五条さんに知られてはまずい気がして、思わずその肩を押すけれど、びくともしなかった。

「君は僕のだよっていつも言ってるよね」
「は、い」
「子どもに空間転移使ったよね? 咄嗟の判断としてはとても立派だったと思うよ。呪霊に吹っ飛ばされたのは、まあ仕方ない。アレは準一級、なまえがまともに戦える相手じゃなかった。

……で、僕が怒ってるのはその後なんだけど、本当に分からない?」

五条さんは目隠しを外して、初めて会った時と変わらない綺麗な眼で俺の顔を覗き込んだ。俺の息がうまくできないのは、俺の身体の何処かが悪いのか、この眼の所為なのか。俺の沈黙を肯定と捉えたのか、五条さんは少し距離を取って、俺の頭を撫でた。

「怪我したのに、なんで反転術式使わなかったの」
「………」
「なまえ」
「……死んでも、いいと思いました」
「………」
「でもやっぱり俺が死んだら、俺を買うために出してくれたお金は、返さなきゃいけませんか?」
「…………ハァ」

なんでそうなっちゃうかな、と五条さんは呟いて、ぎゅっと俺を抱きしめた。五条さんの心臓の音が聞こえる。思いのほか速い鼓動を刻むそれが、今の自分には妙に心地よかった。

「あのね、僕は好きで君のことを連れてきたわけ。だから勝手に死なないでほしいんだよね」
「……俺の代わりなんていくらでも、」
「だーかーら、僕は君がいいの。他の奴なんか要らないよ」
「なんで……」
「好きだからに決まってるでしょ」

あまりにも突然言われたそれに、息をすることを忘れそうになった。

「……え、もしかして気付いてなかった?」
「え、あの」
「僕、すごいアピールしてたんだけど」
「……アピール、ですか」
「ヤってる時……は色々分かんないか。その後のピロートークで好きだよーって何回も言ってるし、家のリビングにいるときはハグもしてるし、行ってきますのチューもただいまのチューも欠かさずしてるよね?」
「………」

ただのスキンシップや暇潰しなんだろうと考えていたあれは、アピールだったらしい。ピロートーク?に関しては、あまり覚えがないけど。何せ夜通し抱かれているので、終わったら睡魔との戦いにはあえなく負けているという記憶だけはある。だからこれはたぶん俺だけの所為じゃない。
ただ、確かにそんなようなことを夢で聞いた気がするので、夢じゃなく現実らしい。

現実。五条さんが俺のことが好きだということが?

「……冗談、という可能性は、」
「は?」
「…………すみません」

綺麗な顔で凄まれるとあまりにも怖かったので、素直に謝罪をしておいた。それにしても信じられないのでゆっくり考えたいところだけど、五条さんは御構い無しだった。

「ん、……んぅ、ン……っ」

掬い上げられるように唇を掠め取られ、離れてすぐにまた塞がれた。何回されても慣れないこの行為に、相変わらず呼吸は下手なままだ。

唇が離れて、あの眼がすぐ近くにあることで、別の意味で呼吸がもっと下手になった気がする。

「なまえは覚えてないだろうけど、僕が12歳くらいの時に、僕の家で初めて会ったんだよね」
「へ、」
「そのときに、ああ、あの子が欲しいなあって子どもながらに思ったんだけど、当然そんなことできなくてさ。名前だけ覚えてて、そこからは接点なんか無かったから、さすがにもうそのことは忘れてたんだけど。

学長から、呪術師の身請けがどうのこうのって話聞いて興味本位で見に行ったら、一目見てまた『欲しい』って思ってさ。

……で、君のお父さんに話を付けにいって、最終的には事前に提示した額の2倍出して、君のこと貰ったってワケ」

子どもの頃に五条家に行ったことは覚えている。ただその時のことはあまり記憶になくて、なんとなく神々しいひとに出会ったということを憶えているだけ。少なくとも、五条さんが欲しがるような何かは持っていなかったし、今ももちろん持っていない。

「ちなみに君のお父さんは、君を僕の元へ引き渡すのに、もともと金額を要求したりなんかしてないよ」
「…………え、?」
「あれは僕が勝手に出しただけ。君が、お父さんのこと気掛かりかなって思ってさ」
「じゃあ、なんで俺のこと……」
「自分といたら幸せになれないから、せめて同じように呪術を使える人間と一緒にいた方がいい、って考えだったみたいだね」

次々に分からないことがでてきて、混乱したけれど。ひとつ解ったことは、俺は何もわかっていなかったということだった。父は少しばかり、俺を愛してくれていたらしい。込み上げるものがあって、目の奥が熱くなった。

「っていうか、本当に売られたと思ってた?」
「はい……」
「で、お金を持て余した僕が暇つぶしに買ったって?」
「……WそういうことWをする相手に、俺がちょうど良かったのかなって」
「あー……」

五条さんは綺麗な顔を顰めて、言葉を探しているようだった。いつもすらすらと迷いなく話す様子ばかり見ているから、なんとなく新鮮だった。

「……ま、実際に我慢できなくて手ぇ出してるから言い訳になるけど。別に、そんな理由で君を家に置いてるわけじゃないよ」

じゃあ何のために、と聞き返そうとしたところで、五条さんは俺の肩を押した。気付いたらふかふかのベッドに吸い込まれるように寝転がされていて、布団がかけ直された。

「もう寝な、疲れたでしょ」
「いえ、」
「いいからいいから」
「あ、……誕生日なのに、ご飯、」
「いいって、また明日作ってよ。ね?」
「プレゼントも何もなくて、ごめんなさい……」
「そんなの要らないから。今は寝ていいよ」

横になると急激に眠気が強くなった。さっき術式で変な呪力の使い方をしたからか、身体が睡眠を欲している感覚で、急に瞼が重くなる。

せっかく、五条さんが近くにいるのに。今日はその顔が見えているのに。その眼が、俺に向けられているのに。

「五条さんの眼、好きです」
「うん?」
「きれいで、……宝石、みたいだ」

意識を手放す間際に、どうにか伝えられた。お誕生日の祝いの言葉を言った方が良かったかもしれないと、深く落ちる意識の中で思うけれど、きっと許してくれる。

瞼の裏に、あのきれいな空色の瞳が焼き付いていた。


▽▲▽▲▽


眠ってしまったなまえの目尻を指でなぞって、少し濡れた自身の指先ををぺろりと舐めた。

───五条さんの眼、好きです
───きれいで、……宝石、みたいだ

「本当にさぁ……」

この眼が嫌いだった頃、同じような言葉を貰ったのだ。今言われたことと、同じような言葉。





昔から、僕の眼を見た周りの大人たちは、怖がるか目を背けるか、へりくだって愛想笑いを浮かべるかしかなかった。この眼はあまりに視えすぎていて、それを持つのがまだまだ子どもだったとしても、さぞ恐ろしかったのだろう。

ある日ウチの屋敷の縁側で、ぼうっと外を見ている奴がいた。屋敷の人間じゃないから、きっと客人だろうと当たりをつけた。男か女か分からないような顔立ちで、たぶん歳下だろうなと思った。


「何してんの? お前だれ?」
「……みょうじ なまえ。おじいちゃんとおばあちゃんのお話終わるの、待ってる」
「ふーん」
「えっと、目、怪我してるの……? 痛くない? 大丈夫……?」



話しかけたのは、ただの興味本意だった。同じ年頃の子どもが屋敷にいるのは珍しいことだったから、珍しいものにちょっと惹かれてみただけ。そしたら案の定、俺の目を隠す包帯を見てそんなことを言う。どうせこいつも同じだ。この眼を見せたら、怖がるか、気味が悪いと顔を歪ませるに決まってる。

「怪我なんかしてないし」と言ってから、包帯を取って見せた。そうして何も隔てずに見た目の前の子どもの表情は、想像とは違って、とても綺麗な笑顔だった。


「きれいだね」
「え、」
「お空の色の宝石みたいだ」



そんなことを言われたのは初めてで、ずっと嫌いだった自分のこの眼を持っていて良かったかもしれないと、初めて思った。呪霊との戦い以外で動揺して呪力の乱れが気になるなんて、きっと後にも先にもあの時だけだ。

思えば、あれが僕の初恋だったかもしれない。



「……初恋は実らないんだっけ」

くく、噛み殺したような笑みが漏れて、今年の誕生日は幸せすぎて駄目だなあと自分を律した。もちろんなまえが怪我をしたことに関しては肝が冷えたけれど、誰にも気付かれないレベルで僕の呪力を忍ばせてあるから、一級クラスまでならばある程度の攻撃は半減できる。

結果として、こうして無事に帰ってきてくれた。プレゼントや手作りのディナーなんかなくても、それだけで十分だ。ああそれに、誕生日なんかじゃなくたって、この子は僕のものなんだから。

「おやすみ、なまえ。元気になったら、まずは名前で呼んでもらおうかな」

寝顔にそっとキスをして、部屋を後にした。目覚めたらきちんと伝えてやらなければ。今までは加減して少しオブラートに包んでやっていた僕の気持ちを、剥き出しのまま、本能のまま。
きみが誰かの神様だったころ

神様に手を出すなんて、まるで神聖なものを侵すように、背徳的でしあわせなことだと思わないか?







happy birthday!
生まれてきてくれてありがとう


title by 英雄
2020.12.07