自分の名前なんて、さして特別なもんでもない。名乗ったらまず珍しがられるから、どちらかというと少し煩わしいものとさえ思っていた。
だけど俺はいま明確に、おそらく人生で初めて、名前を呼ばれたいと思っている。
「真希さん、体術の訓練付き合ってもらえませんか?」
「棘先輩、買い出し行きますけどなんか要るものあります?」
まあ、そうだ。ここまではまだ許せる。先輩だし、例えばそう呼べと言われたなら呼ぶしかない。パンダ先輩はパンダ先輩だし。
問題はここからだ。
「悠仁、野薔薇、お前ら報告書出してないだろ。五条先生にバレてるよ」
みょうじは俺以外の同級生のことを名前で呼ぶ。俺だけが名字呼びだ。それについて感じるのはただの違和感ではなく、胸が熱に侵食されるような微かな疼き。心臓とかとはまた違う、その奥の方がじくじくと緩やかに痛むこの感覚が変で、首をかしげたくなる。
「伏黒、おかえり」
今日はもう自主練も終わり? と、ふわっと笑って俺を出迎えたみょうじは、もう部屋着に着替えていた。少しだぼついたスウェットが、逆にその身体の線の細さをありありと見せつけている気がする。
きっとそういう体質なのだろうが、いくら鍛えようが細いままの腰に、以前五条先生が「なまえは細いね、ちゃんと食べてる?」と言いながら腕を回していたときには、どうしようもない動悸と苛立ちが頭を巡った。それも何故かは分からない。
「なまえ」
「………………え?」
「わ、るい。忘れてくれ」
「えっ」
理由だの何だのは置いておいて、名前で呼ばれたかったのは事実なので、そこまでの最短最速のルートを考えた時に浮かんだのが、自分も名前で呼ぶことだった。だから呼んだ。それだけだが、しかし、そんなこと言えるわけがない。
「め、めぐみ!」
息が止まった。 それはもう、術式か何かかと思うくらい唐突だった。自分の意思以外で呼吸を止める方法があったなんて知らなかった。息を吸いづらいのに、心臓は忙しない。ついでに身体が、いや顔か? 何処かその辺が熱い。
追いかけてきたらしいWみょうじWは、いつもの笑顔でふわっと笑った。心の中でなら呼べないこともないが、次また呼べと言われると妙に照れくさい気持ちが付き纏う。時間を戻せるなら、勢いに任せたこんな馬鹿なことは絶対にしないと誓える。
「びっくりした。名前で呼んでくれたの、初めてだよな」
「あー、あぁ、まあ」
「俺もずっと思ってたんだけど、呼んでいいかどうか分かんなくて。恵はその、あー、自分の名前あんまり好きじゃないのかなって思ってたから」
サラッともう一度呼ばれて一瞬、そのまま素通りしかけた。めぐみ、というさして珍しくもない名前(女だったらだけど)のその響きが、みょうじの口から発せられているだけで特別なものみたいに思えてくる自分の頭が、残念でならない。
「でもやっぱ、名前のが呼びやすいし。俺の名前も、気にせず呼んでくれたら嬉しい」
「……わかった」
もっと他に言うことがあるだろ、と口下手な自分を呪いそうになるが、なまえ(とりあえず心の中でもそう呼ぶことにした)はさして気にもとめていないようだった。それは置いておいて、にこにこと純粋に笑うその顔を、ちょっと可愛いとか何とか、思ってしまった。中学の時にも見た目の整った女子は居たと思うが、こんな風に思ったことはなかったのに。またどくどくと心臓がうるさくて、このままでは諸々に支障が出るので、早めになまえに背を向ける。何より、知ってはいけない感情のような気がしたから。
「あ。あのさ」
そんな俺の背中に、至極穏やかな声が降る。こいつ本当に呪術師なのか、なんて的外れなことを思う。こんな声でひとの名前を呼ぶ奴に、負の感情が存在するのかが心底疑問だ。
「知ってるかもだけど、字には色んな意味があるんだって」
「……意味」
「そ。恵って字には、『思いやりのあるさま』『賢い』『聡い』って言うのがあってさ」
「………」
「それ知った時、ぴったりだと思った」
だからこれからも大事に呼ばせてもらうな。そんなよく分からないことを言って、なまえは自分の部屋に帰っていった。俺の名前なんか、もはや知らない人間がつけたものに等しい。だから特に興味も関心もない。ないけど、だからこそ、どうしてかアイツが俺よりも俺の名前を大事にしてくれている気がして、また身体がおかしい。深く息を吐いた。
「……、マジか」
認めざるを得ない。動悸、困惑、動揺、焦燥。俺の中の全部が、アイツひとりによって引き起こされていること。俺の名前に関することはただの引き金であり、並々注がれていた中に一滴を投じて決壊させたトドメの一言に過ぎない。
名前を呼ばれたいなんて思わなければ自覚せずに済んだ。明日からどんな顔で会えばいいんだ。誰かに対処法を相談しようにも、まともに聞いてくれる人間なんか思い浮かばなくて、またため息が出る。今は少し幸せが逃げていけばいいと、いたずらなことを思った。
暁
暁:太陽の昇る前のほの暗いころ。
待ち望んでいたことが実現する、その際。
2020.12.12