静謐とメロウ

 やわらかい日差しが窓から微笑みかけ、美しいピンクの化粧が施されている校舎の木々はすっかり鳴りを潜める。早いもので、新緑が生い茂る夏の始まりが訪れようとしていた。もうすぐアイスが格別に美味しくなる。心地よい陽気に包み込まれ重くなる瞼をなんとか開きながら、至って世俗的な思想に耽る。中途半端に書き進められた学級日誌の上に、若葉がまるで私を応援するようにふわりと着地する。
 俄然やる気が出てきた私は、再び分厚い日誌と格闘を開始した。仕事を完璧に終わらせて、同じ日直であった若島津くんを驚かせてやろう。グラウンドで練習に勤しむ彼の姿を一瞥して、まずは所々に散らばっている蚯蚓書きを消していくことにした。



「苗字さん、起きてくれ」

 肩を優しく揺さぶられ、霧がかかった頭が次第に覚醒していく。声の主を辿ると、僅かに息を切らせた若島津くんが「任せきりになって悪かった」と、形の整った眉を下げて謝まってくる。律儀に走ってきてくれたのか、短い前髪にはじっとり汗が張り付いていて、頬はほんのりと朱に染まっていた。

「気にしなくていいよ。いつも若島津くんにはお世話になってるから……」

 出来るだけ彼に気負わせないように笑う。若島津くんには本当に数えきれないほどに良くしてもらっている。
 ――彼とは去年からのクラスメイトとしての付き合いだったが、たかが同級生でしかない私の誕生日に、プレゼントとして若島津くんのユニフォームに近い色のシャープペンシルを貰った。日付を教えていなかったのに、態々誰かから聞いたのだろう。若干申し訳ないなと思ったのを未だに覚えている。それだけではない。時には苦手科目の克服も手伝ってくれた。自習ノートには彼の止め払いが特徴的な文字がいくつも残ったままだ。今だって、私が風邪を引かないか心配なのか、自分が着ていたジャージを私に掛けてくれている。ふと気が付くと、私の身の回りは若島津くんで埋め尽くされていた。

「ジャージまで、悪いよ」

「良いんだ。これくらいさせてくれ」

 男女問わず人気があり、校内にファンクラブを抱えているあの若島津くんにこうも優しくされては、流石に気が引けてしまうのも仕方がない。そんな私の様子を知ってか知らずか「寝ぐせ付いてるぞ」と彼は不意に角張った大きな手で私の髪を梳いてくる。いくら世話好きとはいえ、大事なものを扱うような手つきは心臓によろしくない。今度は私が頬を染める番になる。

「後は職員室に皆から集めたノートと日誌を持っていくだけだよな? おれが持っていくよ」

 提出物を軽々と持ち上げ、そのまま背を向けて教室を出ていこうとする彼を慌てて止めた。この量を一人で持って行かせる訳にはいかない。急いで隣に並んでノートを分けてもらうために手を伸ばすと、若島津くんは数秒おいてから学級日誌をぽんと手渡してきた。仕事の分配量がおかしい。訴えかけるように凝視しても、彼は曖昧に誤魔化すばかりだった。

「ジャージ、大きすぎたな」

「あ……そういえば着たままだった。すぐ返すね」

 やけに廊下ですれ違う生徒に注目される筈だ。下が制服なのはともかく、羽織っている服がサイズからして彼の物なのは誰から見ても明白だった。恩恵を受けている身として、彼まで好奇の目に晒されるのは罪悪感に駆られる。

「いや、着たままで構わない、おれもその方が助かる」

 それは、果たしてどういう意味なのだろうか。言葉の真意を探るには、職員室までの道のりはあまりにも短かった。

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