道徳的偏愛のすゝめ

 仮に彼から向けられているものが世間一般でいう好意なのだとしたら、すぐさまこの場から立ち去ってしまいたい。そもそも平凡な私と、そんな枠から逸脱している雷庵が愛を育むなど……想像したら頭気が遠くなった。体調不良の諸悪の根源である人物は、私の顔を覗き込み心底愉快そうに口角を釣り上がらせている。肉食動物のような鋭い歯がいやに際立つ。
気を抜いた瞬間喉笛に噛みついて、そのまま息の根を止められてしまうのではないかと内心穏やかではなかった。

「――随分とご機嫌ナナメじゃねえか」

 終始黙っていたことが裏目に出たと気づいたのは、胸ぐらを掴まれ距離を縮められてからだった。思いがけない行動に息を呑む。突き飛ばそうにも闘技者である彼を退ける実力など持ち合わせていない、ましてや暴力的な行動を咎める勇気など皆無だ。

「なあに一丁前にシカトぶっこいてんだぁ? なあ、名前のくせに百万年早いんだよ」

「無視なんか、してない」

 確かに恐怖から沈黙を貫いていたが、そんな意図はこれっぽっちも含んでいないと必死に訴えかけるも、雷庵は手を緩める素振りを見せない。

 最初から分かっていたはずだった。この男は、呉雷庵は、本当に私を好いてなどいないのだ。あくまでも暇つぶしで、どこまでも純粋な衝迫で、彼の手のひらで踊っている憫然な玩具に過ぎなかった。
 明日には殺されているかもしれない、そんな不確かで歪んでいる繋がり。
 ふつふつと湧く悔しさに、今まで堪えていた涙が溢れ出た。情けない。そんなものに翻弄される自分が、自分の非力さが。宙に浮く足と、着地点のないこの感情は酷似しているとぼんやり思った。頬に張り付いていた雫が雷庵の腕にうつる既の所で苦しさから解放され、そのまま地面に崩れ落ちる。
 不意を突かれ驚いた私は、反射的におもてをあげると、すぐ傍に彼の顔があった。やっと目が合ったなあ。楽しげに笑う姿は、理由さえ除けば至って変わりのない成人男性だった。

「お前はせいぜい俺を楽しませてろ」

 目じりを這った生暖かい感触に小さい悲鳴が漏れる。その正体が雷庵の舌だと理解した頃には、呆気なく唇を奪われていた。動揺で頭が占領されている私を好機と捉えたのか、キスだけでは飽き足らず、首を甘噛みしては痕になった箇所を嬉々として舐めている。

 我に返った私は力一杯に彼の肩を押し返し、足が棒になる程にひたすら走って逃げた。冗談にしても度を超えている雷庵の行動に、不覚にも胸が高鳴ったのは何故なのだろう。息の根を止められる事はなかったが、まさかこんな……。駄目だ、思い出しただけでどうにかなってしまいそうだ。
 ただ、走り去る時に見えた彼が、獲物を狙う狩人の雰囲気を纏っていたのは間違いない。

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