盲目のユメノハテ

 シンデレラ症候群はもう卒業。いつか白馬に乗った王子様が颯爽と私を迎えにやってきて、そのまま永遠に仲睦まじく暮らせるといった無垢な願望は、使い古した中学生の教科書と合わせて紐で結び捨て去った。恋に恋した行末は、いたたまれない悲壮感に苛まれるだけだと、淡く散った初恋で充分すぎるほどに痛感したのだ。

 「名前ー! もう大丈夫だ!」

 白馬の王子様は諦めた。その代わりに現れたのは、年上と思われる人間を臆することなく椅子にしてこちらの顔色を窺う、左目の傷が特徴的な逞しい少年だった。

 親しげに語り掛けてくるが、まず私は相手の名前すら知らない。確実に初対面だ。辛うじてズボンから小松大工業の生徒であるのは把握出来たが、この空間には不釣り合いな微笑みのせいで、余計に存在の異質さが浮き彫りになる。おまけに、彼の真下で呻く怪我をした人物にもまるで面識はない。

「コイツ、お前の事ずーっと付けてたんだ、気づいてたか? 気持ち悪いよなあ」

 でも、俺がやっつけたからもう心配いらないぜ!
 見せしめのつもりなのか、息も絶え絶えな男性の頭部を情けもかけずに何度も殴りつける。その度に発する悲鳴に近い泣き声が、耳にこびりついて離れない。よく目を凝らすと、地面には赤黒い液体が付着している。そこに塗り重ねるように鮮血が滴り落ちていて、いつまで経っても彼の足元は乾きそうにはなかった。
 恐怖心がいよいよピークに達した私を慰撫するように、男の子は口を開く。

「なあ名前。偉いだろ? 頑張っただろ?」

 得意げな彼に必死に笑顔を作ってみても、虚しい努力は実らず痙攣に等しいものになってしまう。逆らえばどうなるかなど想像に容易い。只々、あの椅子扱いを受ける男と同じ運命を辿るのは願い下げだった。

「えっと……偉いですね、ありがとうございます、」

 ぎこちない賞賛に気を良くしたのか、白い歯をこぼし、優しく私を包み込む。物恐ろしさで身が縮んだ。苦しいなんて訴えることすら許されない抱擁は、彼の携帯から流れた着信音により幸運にも解かれる。

「……? 出ないんですか?」

 画面を睨みつけている少年は、どうやら気乗りがしないらしい。僅かに間を置いてから通話を開始させた瞬間、辺りに響くほどの怒声が鼓膜を震わせた。

「わ、わかった! すぐに行く!」

 丸っきり筒抜けな会話に呆気にとられている私を他所に、男の子は慌てながらも返事を済ませ、電話を早々に終了させる。

「悪い……アニキに呼ばれたから、またな!」とだけ残し、忙しなく立ち去る後ろ姿が見えなくなるまで、私の緊張の糸が切れることはなかった。
 ……すっかり気絶している人間椅子さんは、放置でもいいのだろうか。

 *

 アニキのやつ、折角名前と楽しく話してたのによ! まあ、あいつの周りをチョロチョロしてた邪魔なヤツから守れたしいいか。
 そういえば、昔も名前に近寄る変なガキをぶっ飛ばしたなあ、懐かしいぜ。中学生の時だっけ? 名前は優しいからすぐ勘違いするバカが寄ってくるんだよな。名前は俺のものなのに。俺以外あり得ないのに。でも、今日の俺、もしかしたら白馬に乗った王子様より格好良かったんじゃねえか? 柄じゃないけどよ。

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