正義のなきがらを抱いている

「小高くん?」

 二、三歩程度離れていた彼の言葉は、呆気なく蝉の騒めきで掻き消される。聞き直すも口を少しだけ緩めて私を見つめるものだから、聞いてしまったら最後、もう二度と会えないような気がした。そこまで距離はないのに、何故だか小高くんがとても遠く感じる。汗が頬を伝う感覚が気持ち悪くて、手の甲で振り払った。纒わり付く熱気が、これでもかという位に襲いかかって私の思考をより一層鈍らせる。いつまでも外にいては、小高くんが倒れちゃう。慌てて駆け寄って健康的な肌色をした腕を引く。そういえば、いつの間にこんな痣が出来ていたのだろうか。彼はあまり口数が多い方ではないので、発生理由は分からない。どこかにぶつけたのか、原因不明の赤茶は二の腕まで広がっていた。線に沿って撫でると、腕を引っ込めて小高くんは私を凝視する。ごめんなさい、不快にさせてしまったと後悔し謝るも、黙りを決め込んでしまった。
 決して心地よいとは言い難い空気が私達を支配する。じじじと鳴く虫の声が、唯一の救いだと思った。

「俺、もう行かないと」

 突然諭すような口調で、小高くんは私に告げた。行くって、一体どこに? 聞いた事がない程に声音が穏やかで、俯いていたが反射的に顔を上げてしまう。
 彼は何かを決意した面持ちをしていて、堪らず縋り付いた。胸に耳を当てる。どくり。心臓は規則正しく動いていて、小高くんはここで息をして、地に足をつけて、ちゃんと生きていると証明してくれた。目を瞑れ、いきなりで困惑しつつも、命令されるがままに瞼を閉じる。

「じゃあな」

簡素な挨拶の直後に、唇に温かくて柔らかいものが触れる。驚いて目を開けると、今まで会話していた小高くんはまるで蜃気楼みたいに消えていなくなっていた。辺りを見渡しても、彼の姿は映らない。
 じんわりと残る唇の温もりは、いつまでも私を慰めているようだった。

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