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遠すぎた脱衣所
紗江の趣味は登山。
今回は有給と連休をうまく利用して、秘境中の秘境の山に来ている。
その山の頂上には、ゴロゴロした岩の間から温泉がコンコンと湧き出ているという。
登山道入口の小屋に着くと、宿の親父といやらしそうな顔をした男たちがいた。
ヘラヘラと笑いながら「おじょうさん、遭難、いやいや凍死なんかしなさんなよぉ」
いきなりなんだ、失礼な。縁起でもない。
不愉快ではアったが、さてさて、山の頂上付近まで来ると嫌な気分は吹っ飛んだ。
絶景!それにうわさ通り、温泉が湧き出ている。
もちろん誰もいない。さっそく入ることにした。
本当に形だけ、屋根と柱と
簀子だけの脱衣所で服を脱いだ。
温泉は脱衣所から10mくらいのところにある湧き湯である。
どっぷり浸かるとおもわず声を上げた。
「あぁぁーーー。気っもちいぃぃーーー」
360度パノラマ絶景の露天風呂。極楽の中に沈み込むような感じがする。
大自然の中の解放感。素っ裸になるドキドキ感。そして湯舟の独占。
『贅沢この上もなし』と、彼女はご満悦であった。
目をつぶって
寛いでいたら・・・あまりの気持ち良さで、うつらうつら眠り込んでしまった。
「あれ?」気がつくとすでに夜だ。それに変だ。湯船が妙に冷たい。
それどころか「あああ!」雪が降っている。いや吹雪いている。
しかも、あっという間に、猛吹雪になってしまった。
彼女はこの時になって初めて、注意看板が岩の陰に倒れているのに気がついた。
「なになに・・・えっ!」
ここら辺はスポット的に、昼夜で天候が急転するらしイ。
しかも夜になると、気温がマイナス数十度以下まで下がるとか。
あたり一面、もちろんこの湯だまりの温泉も凍り付いてしまうらしい。
『十分ご注意のほどを!早めの下山を心がけましょう!』
山小屋の親父たちは、そんな注意事項など一言も言ってなかったぞ。
「ふざけるな!」と、叫びたいところだが、そんな猶予はない。
大急ぎで戻らなければならない。わずか10m先に見える脱衣所に。
しかし「だ、だめだ!」
ものすごい風で、湯だまりを出たとたんに凍り付いてしまいそう。
だがしかし、時間が経てば経つほど状況は悪くなるだけだ。
当たり一面は、スでに真っ白な銀世界に変わっている。
紗江は意を決して、ついに湯船から飛び出した。
そして走った。全速でそして全裸で。
だが、風に阻まれて歩くようなスピードしか出ない。
猛吹雪は『ビョービョー』と、まるで「早く凍ってしまえ」とでも言っているように鳴っている。
でももう少しだ。あと7m、5m、3m・・・
でもでも、ついに足の裏が凍り付いて動けなくなってしまった。
「と、遠い。遠すぎる・・・」
湯だまりから脱衣所までの距離は遠かったのである。
紗江は歩きかけた格好のまま、氷像になってしまった。
次の日、小屋の親父と救助隊がやってきた。ニヤニヤしながらやってきた。
「なんとお気の毒でかわいそうな娘さんだ」
「俺たちがもっと情報を教えておけばよかったのかも」
見事な氷像に合掌しつつ、うれしそうに笑みを浮かべながら泣いている。
じっくりと鑑賞も終わった頃に、
(親父)「こんな事故は、もう二度と起こしてはならないのだ」
(隊員)「そうだそうだ。そのとおりだ!」
と、彼らは決意新たに誓うのだった。
ついでに「早く次の女性が来ないかな」とも、思うのだった。
遠すぎた脱衣所 完
2025 03 23
Written by GreenIce