ザアザアと地面を打つ雨脚はどんどん強くなり、止む気配はない。天気予報では今日は午後から曇りとしかいってなかったが、この時期は天気が変わりやすく、あまり当てにしてはいけないというのは18年間生きてきて学んだ。用心して家を出るときに傘を持ってきた今朝の自分を褒めてあげたい気分だ。よくやった、9時間前の私。
委員会の仕事を終え玄関に向かっていると、見覚えのある後ろ姿が恨めしげに空を見上げているのが視界に入った。ふわりとした色素の薄い茶色い髪の毛は湿気を含んだせいか、普段より跳ねている気がする。そうか、今日は月曜日か。最後に喋ったのはいつだったっけな、と記憶をたどってみるがなかなか出てこない。
家が近所で幼稚園、小学校、中学校、そして高校も同じの私たちはいわゆる幼馴染ってやつだが、それを知っているのは私と及川のその親友の岩泉だけだ。
昔はよく喋るだけでなくお互いの家を行き来するほどの仲だったが、歳を重ねるにつれ疎遠になってしまった。喧嘩をしたわけでもないし、どちらかが恋心を抱いて気まずくなったとかでもない。進学するにつれ互いの世界は広がり、2人で行動する機会が極端に減ったのだと、私は思っている。


「傘、持ってないの?」


急に声をかけたのがいけなかったのか、びくりと大きな身体を震わせる及川は勢いよく此方を振り返る。あまりにも久しぶりに話しかけたせいで少し声が上ずっていたが、バレてないことを祈ろう。


「…そうだけど?」


2秒ほど驚いた表情をみせたあと、私の質問に対しやや偉そうに答える及川に何なんだコイツと思ってしまうが今に始まった事ではない。昔から、私の前では何故かいちいち偉そうな態度をとるのだ。及川徹という男は。


「はい、これあげる」


「……?」


「大会近いんでしょう?風邪ひいたら大変じゃん」



雑貨屋で1080円で買ったネイビーに白のドットが入った傘は180センチオーバーの大男には少し小さいかも知れないが、ないよりはマシだろう。
そう思い、持ってきた傘を差し出すが中々受け取ろうとしない。まさか、こんなダッセェ傘及川サンは使えませ〜んとか思ってるんじゃないだろうなコイツ。


「…お前はどうすんの」


「へ?ああ、大丈夫。私いっつも折り畳み傘カバンに入れてるから。そっち使うよ。折り畳みじゃ及川には小さすぎるだろうし」


ガサゴソと、いつも持ち歩いている折り畳み傘をカバンから出して及川に見せる。いざという時に持ってきていたけど、まさかこんな場面で活躍することになろうとは。


「ふーん、あっそ」


興味なさそうに相槌をうつ及川は、どことなく不服そうに見えた。なんだろう、やっぱ傘の柄が気に入らないのかな?まったく、人の善意にケチをつけるだなんて、どうしてこんな性悪がモテるんだろう世の中の女子はもっと男を見る目を養った方がいいぞ、なんて思いながら折り畳み傘を開き、「じゃあね、」と言ったその矢先だった。

バキン!

玄関のタイルに強く打ち付けられアルミ製の骨が呆気なく折れる音が玄関に響き渡った。突然の出来事に開いた口が塞がらない。えっと、いま、何が起こった?
さっきまで傘だった物はポッキリと折れ、最早その役目を果たせそうにはない。安物とはいえそれなりに気に入っていた傘なのに、って、そうじゃなくて!


「何してんの?!」


「なまえがあげるって言ったんじゃん。俺のものをどうしようが俺の勝手でしょ?」


お前何言ってんの?とでも言いたげな顔の及川にくらりと眩暈がした。ダメだこいつイかれてる。確かに言った、これあげるって、ほんの1分前の私はそう言った。でもそれは、貸してあげるって意味で、giveのほうではない。
普通であれば無茶苦茶な理論で持ち物を壊されて怒る場面なんだろうけど、あまりにも予想の斜め上をいく言動に呆れて何も言葉が出てこない私と、ムスッとした顔で何も喋らない及川、私たちの鼓膜を震わすのは雨の音だけだ。


「で、どうするの?」


先に静寂を破ったのは及川の方だった。どうするのって、それはこっちの台詞なんですけど?と言いたかったがぐっと堪える。


「どうするも何も、私はこの折り畳み傘で帰るから…」


「ふーん、じゃあ俺は雨に濡れて帰れってことか」


な、なんだこいつ…!!人様の傘をぶっ壊したくせに被害者面してやがる!及川徹、末恐ろしい子!って、巫山戯てる場合じゃない。え、なに、折り畳み傘を貸せってことですか?私は濡れて帰れって事ですか?久しぶりに会話したかと思えば、こんなことってあります?


「…こっちは壊さないでね」


とはいえ、私はこの男には昔っから逆らえないのである。それは決して淡い恋心を寄せているからとかいう甘ったるい理由ではない。逆らっても後々倍返しをされるのが目に見えているからだ。
私の手から折り畳み傘をとり、マジマジとそれを見つめる及川はなにを考えているのだろう。まさかまた壊そうとしてるんじゃ…と思ったが、今度はちゃんと傘をひらく及川に安堵した。
学校から駅まで歩いて7分、走って3分、うん、どのみちずぶ濡れだな。こうなったらヤケになって家まで歩きで帰ってやろうかと一瞬考えたが、さすがに風邪をひきそうだし何より周りから「ヤダあの子こんなザアザア降りなのに傘も持たずに…」と冷ややかな目で見られそうなのでこのプランは却下だ。
勿体無いけどコンビニでビニール傘を買うか、それとも部活が終わる友達を待つか…。


「何してんの?帰るよ」


「…へ?」


うんうん悩む私にイラついた声色でそう言ってきた及川を思わず凝視する。大きな身体には不釣り合いな折り畳み傘の下、微妙に空けられたスペースがあるが、まさか、


「こんなちっさい傘、俺1人でも濡れるけど仕方ないからお前も入れてあげるって言ってるの」


「な、なんつー上から目線…!ていうかそれそもそも私の傘だし!」


「煩いな、入るの?入らないの?」


「ぐぬぬっ…」


非常に納得いかないが、このまま雨に濡れて帰るのは嫌なのだしぶしぶ及川の隣へ入る。バラバラと傘を打つ雨の音がヤケに耳につく中、いわゆる相合傘とういものを及川としてしまっている今の状況を誰かに見られはしてないか気が気じゃない私は辺りをキョロキョロと見渡した。よかった、及川ガール的な感じの子は見たところいない。
ポツポツと、傘に収まりきらなかった左肩が雨に濡れてブレザーの色が変わりじわじわと冷たさが伝わってくる。直径1メートルあるかないかの折り畳み傘は高校生の男女、それも片方は180センチ超えの大男が入るにはやはり小さかったようだ。
…はあ、駅までそう遠くないとはいえ気まずいなぁ。普段は馬鹿みたいに饒舌で岩泉にウルセェと罵られてる及川だが、今は採れたての蛤のように口を閉じている。


「…最近どうなの」


くそうなんか喋れよ!焼くぞ!なんていう私の心の声が聞こえたのか、及川はポツリとそう尋ねてきた。当の私は予想外の質問になんと答えるべきかわからないでいた。最近どう、とは。久しぶりに会った友達に同じ質問をされてもスラスラと聞かれてもないようなことを喋るのに全く言葉が出てこない。


「あー…えっと、あ!家のテレビが新しくなった!」


「お前の家の家電事情は興味ないよ。もっと他に話題ないの?」


「なっ、我が家ではここ最近一番のビッグニュースなんだけど!そういう及川はなんかないの?ほら、うわさの彼女とはどうなのさ」


「2日前に別れた」


な、ナンダッテー?!躊躇なく地雷を踏み抜いた自分の失態に頭を抱えたくなった。2日前って、確か付き合いだしたの一ヶ月前とかだったよね?直接本人に聞いたわけではないが、何かと話題を欠かない及川は当事者でもないのにその恋愛事情が耳に入ってくる。とはいえ、別れたのは知らなかった。なんて使えないんだ私の情報網。


「あ〜…そっかそっか〜別れたのかあ。まっ、ドンマイドンマイ!あんた顔だけは抜きん出ていいし、バレーも上手いしまたすぐに彼女くらい出来るって!」


「好きでもない女子と別れたくらいで落ち込むほど馬鹿じゃないから励まさないでくれる?」


「エッ!及川って人を好きになることとかあるの?!」


私の言葉に及川はそれはそれは不服そうに「不本意だけどね」と肯定した。ま、マジか。ズギャーンと全身を雷で打たれたような衝撃が走る。ていうか、この様子からして、及川は今絶賛片想い中なのでは?と名探偵バリの推理力が私の中で働いた。


「なんかそれを聞いて安心したよ。私にできる事なら協力するから」


「…じゃあ俺がソイツと結婚したいっていっても、手伝ってくれる?」


「当たり前じゃん。てか、結婚って、及川気が早すぎでしょ〜」


アッハッハー!と笑いながら逞しい及川の背中を叩く。てっきりウザがられるかと思ったが、何も言わない及川を不審に思い恐る恐る視線を右斜め上にずらす。するとそこには骨の髄まで凍りつかせるような笑みを浮かべた及川がいた。


「その言葉、忘れたとは言わせないから」


本能がエマージェンシーコールを鳴り響かせるが時すでに遅し。

まさかこの四年後、この男に婚姻届にサインを書かされることになろうとは、この時の私は考えもしていなかった。






ALICE+