残響に愛
好きな人が鈴を付けている。
「それでですね! 彼が教室に迎えに来ると、鈴の音がするんです!」
その言葉を聞き、臨也は頬杖をついたままで、ふぅん。と言葉とも微妙な音をこぼした。視線は相変わらずお気に入りのチャット画面を映したままでいる。かくいう声の主も手元のティーカップの中の紅茶の淵を見つめていた。
「だから、鈴の音を聞くと妙にそわそわしちゃって」
聞いてもいないのに嬉しそうに自分の片思いについて話し出す名前は、所謂、臨也の信者の一人だ。相談に乗ってもらうという体で惚気話めいたものをうわ言のように連ねるのはいつものことだった。
自転車通学である想い人が鈴の付いた鍵を片手に名前を迎えに来て、その鈴の音を隣で聞きながら帰路を歩く。そんな話を幾度と無く臨也は聞かされていた。
「あの音は違う、あの音は彼のより低い、あの音は少し彼のと似てるな、なんて」
鈴の音ソムリエにでもなれそうです、なんて名前が冗談めかして笑う。女子高校生特有の脳内お花畑を見せびらかす彼女はあまりにありきたりな存在で、もはや臨也の興味の対象ではなかった。人間全てを愛している臨也にとって、興味の対象ではなく都合の良い観察対象の一人だった。
「鈴といえば、最近私の家と隣の家の間の細い路地を猫が歩くんですよ。その仔も首に鈴を付けてて! 私、猫も好きですし、鈴の音聞くとついつい家を飛び出しちゃうんです」
名前の他愛のない話を聞き流しながら、臨也は何となく鈴を取り出して鳴らしてみた。大した意味は無い、たまたま引き出しで見つけたような陳腐な鈴だ。
りん……と、凪いだ水面に波紋が広がるような音が、狭くはない自身のオフィスに響いた。
もはや条件反射で肩を震わせた名前は、少し驚いたように目を見開いて臨也の方を見てから呆れたように苦笑して「彼のより繊細な音がする」と言った。
「私、臨也さんのことも好きなんですよ」
当たり前だと言うように名前はそう独りごちた。
♂♀
曇天が空を覆い激しい雨がコンクリートを打ち付けている。そんな日。
臨也の高級マンションのインターフォンを鳴らした人物のことを、声を聞くまでもなく臨也は理解していた。嬉しいこと、辛いこと、彼女が何かあった時、無意識にでも自分の元へやってくることを、臨也はよく理解していた。
何も言葉を交わさずにロックを解除してから臨也の元へ辿り着くまでに数分、いつも足取りの軽い名前にしては不自然な程にゆっくりとした訪問だった。
「……臨也、さん」
東京の空にも負けない暗さを纏った声で、表情で。重たい口を開いて名前は臨也の名前を呼んだ。床が濡れるのもお構い無しに、雨を背負って臨也の前に立ち尽くしている。ずぶ濡れになった服や髪から滴る雨水と一緒に、名前の顔にも水滴が伝っていた。
「私、気づいたんです」
臨也には、目の前の少女が何を言い出すのか、おおよそ見当がついていた。けれども何も言わずに、普段であれば胡散臭いと言われる笑みを浮かべ、名前に続きを促した。
「……今日、彼に告白されたんです」
「よかったじゃないか。ずっと彼のこと、好きだったんだろう?」
「はい。彼の目が真剣で、あぁ、この人なら私を大切にしてくれる……って思いました」
要領を得ない、冒頭の台詞との脈絡の無い話を、臨也は黙って聞いていた。
「彼のその、熱の篭った目を見て、嫌だ、って思った」
名前の虚ろな目が、臨也にはどうしようもなく愛おしく思えた。名前は、ただただ臨也の大好きな人間だった。
「嫌だ、気持ち悪い、こんなの彼じゃない……って」
名前はばらばらな感情を集めるように、途切れ途切れに、しかし淡々と言葉を紡ぐ。
「その時、彼の鈴の音がして、」
思わず臨也の口角が上がった。けれども名前はそれに気づくことなく話を続ける。
「私、すっごく安心したんです。でも……」
「君は気がついたんだ。君がずっと好きだったのは彼じゃない」
「……私は、彼に恋をしてたんじゃなかった。彼でも猫でもなく、私が恋していたのは……」
その日初めて名前は臨也を見た。臨也の赤い目が、名前の全てを見透かしているようだった。
「そう、君が愛していたのは彼でも猫でも、そして俺でもない。このどこにでもある、ただの鈴だ」
りん、と臨也がに当てつけのように鳴らした鈴は、以前と違って残響を残すことなくガラスを打ち付ける雨音に染み込んで消えた。
小さな金属がぶつかるだけの、些細な音。それでも名前はその音をずっと求めていた。
ゆっくりと名前の頬を辿っていた涙は、音もなく溢れかえり堰を切ったようにとめどなく流れ落ちていた。
臨也はずっと知っていた。名前が楽しそうに話をしていた頃からずっと、彼女の好意の対象がこのちっぽけな鈴であることを。
それに気がつくことなく、恋心、という言葉で飾って常人のふりをしていた哀れな少女が壊れる時を、今か今かと待ちわびていた。
「臨也さん、私……わたし……」
縋るような目だった。自分の信じていた“愛”を見失い空っぽになってしまった名前の心の中に残ったのは、臨也への崇拝だけだったのだ。
「おかしいんでしょうか、狂って、いるんでしょうか」
それは臨也への問いかけではなく、臨也に救いの言葉を求めていた。例えそれが上っ面だけのものであったとしても、名前にはそれが必要だった。
「君は確かに人とは違う。君の愛は狂っている。でも、」
臨也がもう一度鈴を鳴らした。臨也の手の中に聴いた三度目の鈴の音は、名前の髄に余すことなく反響する。
「俺なら、君を最後まで飼ってあげられる。ずっと君の横で鈴を鳴らしてあげるよ」
臨也が名前の目の前で鳴らす鈴は、まるで猫が与えられた首輪だ。
臨也が与える鈴の形を成した首輪は、名前の愛を閉じ込めるには十分すぎるものだった。
彼女が鈴に向けるその目は、彼女が嫌悪した自分に好意を抱く男と同じものに違いない。臨也はその目が愛おしくて仕方がなかった。
苗字名前はどこにでもある陳腐な鈴を愛していた。
折原臨也はそんな名前を、人間を、心の底から愛していたのだ。
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