春の足跡に落ちる花
彼の、綺麗な目に惹かれた。
初めて彼をこの目で見たのは、少し日差しの出始めたある春の日だった。貧しい流魂街に護廷十三隊、ましてやその隊長が訪れるなんて滅多に無いことで、噂好きの友人に手を引かれ私も見に行ったのだ。
たくさんの野次馬に埋もれながら見たその死神の目は、湖を閉じ込めたかのような翡翠色をしていた。冷たさの奥にしっかりと灯った熱に、彼の目に、私の目はじわりと焦がされてしまった。
*
件の友人に彼の名を尋ねて何年が過ぎたのだろう。尸魂界にいては時間の感覚などとうに薄れてしまっている。
あの日、翡翠色に出会った日、私は死神になることを決意した。一度見ただけで忘れられなくなった彼を追いかけるために、真央霊術院に入ることを決めたのだ。
「“君臨者よ! 血肉の仮面・万象・羽搏き・ヒトの名を冠す者よ! 真理と”……ええと、」
「“節制”」
「“真理と節制、罪知らぬ夢の壁に”……か、壁に……」
「……“僅かに爪を立てよ”」
「わ、“僅かに爪を立てよ! 破道の三十一! 蒼火墜!!”」
ぽす、と空気が抜けたような音がして、構えた手のひらから小さく煙が出た。
「…………あ、あれ?」
「はぁ……“破道の三十三”、だってば」
「うう〜〜全然覚えらんない〜〜!!」
ようやく鬼道を教わるようになった、真央霊術院に入って何度目かの春。自分にここまで才能がないとは思いもしなかった。三十番台ですらこの調子では、詠唱破棄など到底無理だ。
私、霊圧は強い方なんだけどなぁ……と、独りごちながら壁沿いにずるずると座り込んで、髪を飾っていた華奢な簪を引き抜いた。いつから持っていたのかわからない、勿忘草の青い花冠がきらきらと揺れる、私にはとても似合わない綺麗な簪だ。
引き出しにしまっておいて時々気まぐれで持ち出すだけだったこの簪を、あの日からずっとお守りのように肌身離さず持ち歩いていた。
「あんた、霊圧でゴリ押しするタイプだもんね」
「だ、だってぇ」
「十一番隊なら貰ってくれるかもよ?」
「知ってるでしょ!? 私は日番谷隊長のいる十番隊に入りたいの!」
私のわがままと一緒に死神を目指すことに決めたらしい彼女は、昔と変わらず私の隣にいてくれる。彼女には一応感謝しているのだ。彼女があの日手を引いてくれなければ、私が彼を見る機会はきっと一生無かったのだから。
「まぁ、せっかくそのつよ〜い霊圧で一組に入れてもらえたんだから、せめて詠唱の暗記くらい頑張りなさいよ」
入学試験の時に初めてわかった話、私は他の人よりも霊圧が強いらしい。それも、少し、なんて差ではないくらい。死人のくせに人一倍お腹が空きやすい体質を嫌った過去もあるけれど、それも霊圧の強さゆえのものだと聞かされた。おかげで特進クラスである一組に入れてもらうことができたのだから、私の霊圧さまさまだ。ちなみに、この隣の友人は持ち前の器用さで普通に特進クラスに合格している。彼女の霊圧は人並みだが、鬼道のセンスは抜群なのだ。
*
同期の中で一番に斬魄刀の始解を習得したのは私だった。霊圧の強さとそれから、普段から簪に向かって対話めいたものを続けていたのが功を奏したみたいだ。
でも、案の定というか何というか、入隊したのは希望していた十番隊のお隣さん、好戦的なことで有名な十一番隊だった。落胆もしたけれど今は、隣の隊なら彼を偶然目にする機会があるかもしれないな、とポジティブに過ごしている。一緒に護廷十三隊入りした友人は少し遠い四番隊でしばらくの間会えていない。彼女はその器用さが治療を主とする四番隊に買われたようだった。
荒くれ者の集まる十一番隊の雑務は、基本的に平隊員の仕事だ。私は新人ということもあってほとんど毎日書類作業で走り回っている。
「やっほー! 元気してる?」
「! 副隊長、」
「やちるでいいよぉ」
「や、やちるさん」
やちるさんは自隊の副隊長で、可愛い顔してその力はえげつないらしい。と、以前友人から聞いたがその言動を見る限り信じ難いものがある。けれどそんな彼女が副隊長、という肩書きを背負っているのもまた事実だった。
流魂街にいた頃にお世話になっていたおばあちゃんから少し前に金平糖が届いた。偶然通りがかったやちるさんが物欲しそうな目で見てきたので「よければ少し、いりますか?」と尋ねた際に、「いいの!? わーい! 剣ちゃんの分も貰っていい?」「お、お好きなだけどうぞ……!」という会話を交わして以来、どうも私は彼女に気に入られたらしい。
「ひっつーとお話できた?」
「……それが、まだ一度も」
そうなのだ。見かけられたらいいな、とポジティブに過ごしてはいるものの、まだ一度も公的な場以外で彼の姿を目にしていなかった。平隊員の私では隊長格の出席するような会議に呼ばれる機会は万に一つも無い。
一つひとつの規模が大きいこの建物内で隊が違っていては、隊長である彼に会う機会はそう易々とあるものじゃないけれど、これなら演習で遠目にでも目にすることのできた霊術院の頃の方が彼に近かった気さえしてしまう。近頃は彼のことを考える度に髪から抜いた勿忘草を見つめていた。
「そっかぁ。あのね、ゆみちーに聞いたんだけどねぇ。ひっつー流魂街で人を探してるんだって」
「…………え?」
「ずーっと前から時々、ふらふら〜って流魂街にお散歩に行くんだけど、最近すぐにどこかに出かけてっちゃうらしい、って言ってたよ!」
「そうなん、ですか。わざわざありがとうございます」
彼はわざわざ流魂街なんかで、誰を探しているのだろう。私が彼になかなか会えないのは、私と彼で行動範囲が圧倒的にずれているからなのか。
彼に会えない悲しさなのか、それとも別の何かなのか、胸の奥がじくじくと疼いていた。それを誤魔化すように簪を握る手に力を込めた。
*
勿忘草を落とした。ずっとお守りのように身に付けていたそれが手元に無いことに気がつくと、漠然とした不安に襲われた。でもだからといって、涙目になって探すほどの余裕は精神的にも時間的にも無くって、案外ただ数日の間気を落としただけだった。胸にぽっかりと穴が空いたように感じたけれど、物を失くした時は普通こんな感じか、と、とりあえず納得した。
「あんたの好きな日番谷隊長、流魂街で人を探してるんだってね」
久しぶりに会った友人が私にそう言った。彼女の噂好きは、治療に来た色んな隊士の話が聞ける四番隊でさらに助長されたようだった。
「……知ってるよ。やちるさんから聞いた」
「やちるさん、って……副隊長のことそんな風に呼んでんの?」
「へへ、仲良くさせてもらってるんだぁ」
顔を和らげて間延びした返事をすると、どうもそれが不自然だったようで友人は隠す様子もなく顰めた顔をした。
「なんでも、現世の好きな子が死んじゃって、その子を流魂街で探してる……とか」*
「…………そっ、か」
「ショックだった?」
「別に、私は憧れてただけで、片思いしてたとかそんなんじゃないからなぁ」
言ってじくりと心臓が揺らいだ。見栄を張っているとか強がっているわけではないのに、本能的な部分で私は何かを訴えていた。
「じゃあその死んだ目するのやめてよ」
明るいのが取り柄でしょ。なんて、言われなくてもわかってる。
*
「ええっ、本当ですか!?」
「えへへー、嬉しい?」
「それはもちろん!!」
仕事にも慣れて手の抜き方も覚えてきた、穏やかな風の上で桜の舞う麗らかな朝。やちるさんから十番隊移籍を告げられた。あまりに唐突だったことに対する疑問は、容易く彼女の愛嬌にかき消されてしまった。
「で、でも本当にいいんですか? 十一番隊でとてもよくしてもらったのに、親不孝、といいますか……」
「私が推薦してたんだよ〜、剣ちゃんにも手伝ってもらったけど!」
「あ、ありがとうございます!!」
「また遊びに行くねぇ〜」
願掛けしていたのに、あの失くした勿忘草はなんだったのだろう。あれを手放したおかげで運気が舞い込んだのか、それとも運気が舞い込む前触れとして手元を離れて行ったのか。
そんな今となってはどうでもいいことを考えながら、私を満足気に見上げるやちるさんに思わず涙目になった。彼女含め、隊の皆さんには感謝の気持ちしかない。いくら口にしたって足りないくらいだ。
「それで、あの、私はこれからどうすれば…………?」
「えっとねぇ。自分の荷物持って、明日から十番隊で頑張ってね!」
「あ、明日!?!?」
*
初めて訪れた十番隊は十一番隊とは違い少し緊張感が漂っていた。私は新しく霊術院からやってきた子達の一番端に並んで同じように自己紹介をする。自己主義の強い十一番隊のイメージは私に抱くイメージとは違っていたようで少しだけざわついたけれど、気にはならなかった。
「隊長は任務で現世に行ってていないから今のうちに騒いじゃいましょう! ほら、歓迎会よ!」
副隊長である松本乱菊さんが長い髪と豊満な胸を揺らしながら酒瓶を掲げた。彼女はサボり癖が酷くて日番谷隊長が手を焼いているらしい、と友人から聞かされたことがあった。
「あんた、ずっと十番隊に入りたかったんだって?」
既に酔っ払った副隊長が私の方に寄ってきてお猪口を押し付けてきたので、少し頭を下げてそれを受け取った。お酒がとくとくと音を立てて注がれる。
「最近隊長すぐふらふらどこかへ行っちゃうから、今年の新人は私が勝手に承認の判子押しといてやったわ」
「そ、そうなんですか」
「あんたのことも、やちるからもずっと聞いてたしねぇ」
「あ、ありがとうございます!」
やちるさん、推薦したって言ってたけどこんなに直接的に話を通してくださっていたとは! おかげでこうして十番隊に入隊することができたのだから文句は一つも無いけれど。
久しぶりに飲んだアルコールはいつもより回りが早かった。
*
新人の顔合わせに来られなかった日番谷隊長が改めて隊舎を訪れた時、運悪く私は他の隊に書類を受け取りに行っていた。新入りの中で私だけが新人ではないためにそこそこ使いっ走られていたのだ。
ここまで日番谷隊長と出会えないなんてもう呪われているのではないか。ポジティブにも限界が来ていた時、乱菊さんから声をかけられてそんな恨み言は吹っ飛んだ。
日番谷隊長が私に渡す書類があるらしい。おそらく引き継ぎに関するものだろう、と乱菊さんが言っていた。「松本副隊長飲みすぎじゃないですか、大丈夫ですか?」「何よ硬っ苦しいわねぇ、乱菊でいいわよぉ」「ら、乱菊さん、そろそろ一升瓶を手放しましょう……!」と初日のうちに打ち解けた乱菊さんは、どうやら隊長からこっぴどくお叱りを受けたらしくあれ以来話せていなかったのだか、こんな機会を持ち込んでくださるなんて。
逸る気持ちを抑えながら辿たどしい足取りで隊長のいる執務室に向かった。記憶の中の隊長はとっくに薄れていた。けれどもあの目だけは、あの目に捕まった時の感情だけは、ちっとも薄れていなかった。
扉の前で立ち止まって深呼吸をした。心臓がばくばくと胸を叩いている。軽く握った手を持ち上げると、手汗が滲んで恥ずかしくなった。けれど混乱する頭では手なんて末端には命令が届かず、その手は止まることなくそのまま扉を三度鳴らした。
「入ってくれ」
ほとんど初めて聞いた彼の声が、扉越しに私の鼓膜を震わせた。
意を決して扉を開いて中に足を踏み出す。俯いていた視線をあげながら声を絞り出した。
「あの、先日より十一番隊から移籍してきました、」
ことり。
名前を続けるより先に何かの転がった音がした。隊長が書類整理をしているさなかの机を見れば、見覚えのある青色のついた簪が転がっている。
何故、あれがここにあるのか。
不思議に思って隊長に視線を移せば、彼は目を見開いて信じられないものを見たというようにその瞳を揺らしていた。簪は彼の手から落ちたのか、彼の手は宙に浮いたままで静止している。
見開かれた瞼から除いた翡翠色は、あの日と変わらずとても綺麗な色をしていた。
ずっと戦慄いていた彼の口が息を飲んだ。
「 」
彼が私を見つめて初めてこぼした言葉は、私ではない、誰かの名前だった。けれどその響きは決して耳障りな音ではなくて。
「ひ、日番谷隊長……?」
何故か溢れそうになった涙は声を発してして誤魔化した。
彼は、はっと肩を震わせて、それから悲しそうな顔をした。わけがわからない罪悪感が私を襲う。
「い、いや。なんでもない」
我を取り戻したように書類を漁り始めたので、受け取るために私も彼の机に近づいた。
彼に私の影がかかったところで、彼は彼より高い私の目をどこか懐かしそうに見上げた。
小さく開けられた彼の後ろの窓から暖かい風と少しの桜の花びらが舞い込む。
「……これを、受け取ってくれないか。お前に似合うはずだ」
彼は私に、勿忘草の簪を手渡した。泣いてはいないのに、彼のきれいな翡翠色の目は涙をこぼしているように見えた。
私はその花を彼の手から取り、震える手で自らの髪に飾る。
幸せだった。何故かわからないのに、途方もなく幸せだった。涙が止まらないのに、自然と笑顔が溢れるのを抑えることもできなかった。
勿忘草の花言葉が不意に頭をよぎって消えていった。
*
彼が勿忘草の簪をくれた。柔らかい風が頬を撫でる、とても静かな夜だった。
「こんな綺麗なの、私に似合うわけないじゃん」
「似合うに決まってるだろ。お前に買ってきたんだ」
ふぅん、と彼を一瞥して簪に目をやった。
そもそも髪飾りなんて柄じゃないんだ。がさつで飾りっけのない私がこんな綺麗なものを身に付けるのは、あまりにも不釣り合いではないだろうか。
私は少し人より霊感が強いだけの普通の人間で、彼は所謂あの世から来た死神だ。
私のお迎えが来たとかそういうわけではない。幽霊だなんて気がつかずに酷い怪我を負った彼に声をかけて以来、彼は度々私を訪ねてきた。
私は彼が好きだ。それはもちろん恋愛的な意味で。
そしてそれは、彼も同じなんだと感じていた。
彼の言葉で言えば、“現世”と“尸魂界”。言葉の綾でも何でもなく、文字通り“住む世界が違う”のだから、お互い気持ちを声に出して伝えたことは無かった。
携帯の内カメラを鏡替わりにして、適当に簪を刺そうとしたら、彼に髪を掬われた。なんだか心地よくって、切るのが面倒で伸ばしていただけの髪が意味を持ったようだった。
後ろから伸びてきた手に簪を差し出せば、器用に髪がまとめられる。
「似合ってる。綺麗だ」
彼が私を正面から見据えてそう言った。
内カメラにしたままだった携帯を覗き込めば、液晶の端で綺麗な青色が揺れていた。
「……や、やっぱり私にはもったいないって!」
露骨な照れ隠しで自分の頭から簪を引き抜いた私に、彼は不満そうに眉間のしわを刻む。
それを見て私も我に返って、せっかく彼が髪を整えてくれたのにもったいないことをした、と衝動だけで行動した自分を恥じた。
「でもこれ、あ、ありがとね。……これを見る度に、君を思い出せる」
私がどぎまぎしながらそう言うと、彼は顔を綻ばせて私の髪を撫でてくれた。
この恋が幸せなまま続くことは無いのだと思う。それでも今の私は確かに幸せで、その幸せにただただ身を委ねていたかった。
彼が帰った後、思い出したように勿忘草の花言葉を調べてみた。
『真実の愛』『私を忘れないで』
彼が意味を知ってて私にこれを送ったかはわからない。
でももし知ったうえでこの花を選んだのだとすれば。
「だとしたら、可愛いとこあるじゃんね。ねぇ、日番谷くん」
どこにあるのかわからない彼の住む世界を思って、窓辺の星空を見上げた。肌をかすめた春の風が手の中の勿忘草の花を揺らした。
結局、気恥ずかしくて彼の前以外で身に付けることはほとんど無かったけれど、その日からその青い花は私のお守りになったのだ。
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