もし、明日世界が滅ぶとしたら。
フランキーによって造船されたこのサニー号の中心部には大型の水槽、通称"アクアリウムバー"が存在する。強化ガラスの向こう側で優美に泳ぐ多種多様な魚達は、今朝方ルフィとウソップが釣り上げたものだ。その美しい光景は思わず目を奪われるもので、名無しも正しくその1人。蒼い水槽を見上げ、サンジがディナーの時間に呼びに来るまでの小一時間は名無しにとってなくてはならない時間で、毎日のルーティンだ。
例えば、もし世界が滅ぶとしたら。
名無しは悩んでいた。終わりの見えない議題で、普段の彼女なら思いつきもしない事。目を閉じると昼間の光景が思い出される。
グランドラインゆえの気紛れな嵐ばかりで、専ら最近はお預けであった気持ちの良い気候。なのにだ。彼女は暇をしていた。久しぶりの太陽だというのに、する事がない。雨のせいで船内に閉じこめられた二週間だったせいで武器の調整も、コックとお料理も、航海士と恋バナも、狙撃手とババ抜きも、考古学者と船医を愛でる事も、船大工と酒盛りも、音楽家と歌う事も、剣士と昼寝も、船長と海釣りも、全てやり尽くしてしまった。暇だ。サニー号の青い芝生の上で大の字に寝転んで空を仰ぐ。頭上をカモメが喧しく鳴きながら飛び去っていく。なんだかここでサボっている自分を責めているようにも見えて、名無しはため息をついた。
『ひまだ』
思わず呟いた言葉は誰に拾われる事もなく、潮風に流されていく。の、はずだった。
『名無しちゃん』
『うわっ』
右耳に飛び込んできた低い声に飛び退く。目を丸くさせて声の主を見遣ると、そこには船のコック、サンジが心から幸せそうに頬を緩めて…少し恍惚気味に名無しを見つめていた。どちらかというと体格の良い成人男性が両頬杖をついている様は少しばかり、可愛らしい。サンジはンフッと何やらおかしな効果音を喉から漏らしながら、右手に持っていた銀色のトレーを名無しに差し出す。
『わあ』
思わず漏れた感嘆の声。微かに感じる匂いは甘いローズの香り。キラキラしたローズティーゼリーの上には熟した白桃と、その隣にはバニラアイス。仕上げに黄金色のシロップが飾られて、今にも名無しを誘っているようで、名無しは瞳を輝かせる。トレーの上には二つのデザート。そしてサンジの向こう側で幸せそうにデザートを頬張るナミ。
『デザートはいかが?今日のメニューは』
『わあっありがとうサンジくん大好き!あっこのもう一個の方ってロビンの?じゃあ私持っていくね!ロビーン!サンジくんがねー!』
『えっ………お、俺が待って行きたかった…けどそんな名無しちゃんも素敵だーっ!!』
『もし世界が滅ぶなら?』
『ええ。名無しは、何をするの?』
先程まで読んでいた小説を綴じ、ミステリアスな瞳で名無しを見つめるロビンに、名無しは目をパチクリとさせた。ローズティーゼリーに刺そうとしていたスプーンがかちゃりと音を立てる。
もし世界が滅ぶなら。終わりのない題材のように思えて、名無しは首を傾げた。そんな話題になったのも、全てロビンが今綴じた小説の所為である。彼女曰く、有名な小説家によって書かれたそれは、世界の危機に出くわした恋人達が、どう感じて、如何に世界の終わりに向き合っていくか、という内容らしい。世界の終わりなど想像した事のない名無しにとっては、全く見当もつかない話題。名無しは腕を組んで顎に手をあてる。
『え〜、うーん…あまり想像つかないなあ…うーん?あ、ロビンは?ロビンはどうするの?』
『私?そうね…』
突然の可愛い妹分の切り返しにも動じず、ロビンはローズティーゼリーの隣のバニラアイスを崩すと、唇に指を当て妖艶に微笑んだ。
『内緒』
『ええーっ!ずるい!あ、さてはロビンも思い浮かばないんでしょう?』
『ふふ、ええ。そうかもね』
むーっと唇を尖らせる名無しに、ロビンは笑みを深くさせる。ロビンにとって名字名無しという人物は太陽の様な存在だ。芯が強く、嘘や邪念からは程遠い純粋な年下の彼女の事をロビンはいたく気に入っている。
『あっ、よし。これ明日までの課題にしよ!うん!そうしよう!ロビンも考えといてね!わかった?』
『ええ。分かったわ』
『絶対だからね!』
『絶対、ね』
半ば無理やりロビンの小指に小指を絡ませて満足そうに笑った名無しにロビンは慈しみを込めた目で見つめていた。
アクアリウムバーには水槽の中を空気が循環する音しか聞こえない。名無しは美しい魚を目で追いながら、足りない頭で考え抜いた答えに辿り着く。
そうだなあ。本当に世界が滅んじゃうとして。まずはチョッパーをぎゅーって抱きしめて、ウソップに次のマジックの練習に付き合ってもらって、ナミと前に欲しいねって話してた香水を買いに行こう。フランキーとダンスして馬鹿笑いして、笑い疲れたらサンジくんに大好きな唐揚げを作って貰おう。
食後はロビンの膝枕で頭を撫でてもらって、ブルックのバイオリンで気持ち良く眠くなって。ああ、そうだ。我らが船長の太陽みたいな笑顔で1日を終わらせたいなあ。…ゾロ…。ゾロとは…。
『何呆けた顔してんだよ』
厳つい眉毛の突然のドアップに名無しは悲鳴を上げた。
『ぎゃっ、ゾロ!』
『ぎゃ、じゃねえよ。人が何度も話しかけてんのによ』
はーっとため息をついて隣にどかっと座るゾロの横顔は不機嫌そのもので。でも名無しは知っている。彼がとても優しい人間である事を。
『心配してくれてるの?』
くすくす笑う名無しにゾロは不愉快そうに眉毛を上げると、彼女の頭をぐしゃぐしゃと撫でる。『せっかくナミにセットしてもらったのに』『お前が悪い』むすっとした表情で頬杖をついたゾロは、そっぽを向くと、少し沈黙を置いてから口を開いた。
『何考えてた』
名無しは彼の後頭部を見つめながら、息を吐く様に答えた。
『世界が滅ぶ瞬間を考えてた』
『ハア?』
『もし本当に滅んじゃうとしたら、私どうすんのかなあって思って』
『くだらねえ』
『ええ!とても重要な事だよ。あー、ゾロみたいな脳筋には分からないかあ』
『お前な!』
青筋を浮かべながら振り向いた彼に、名無しはなんだか嬉しくなって微笑む。名無しの笑顔に蹴落とされて、ゾロは口をもごつかせる。
『あ、そうだ。ゾロだったら何する?参考にするから』
『お前本当に…ハア。…知らねえよ。そん時考える』
『わあ!さすが大剣豪』
『お前は?』
『え?』
思っていたよりも、真剣な瞳で問いかけてくる彼に名無しは瞳を泳がせる。
『お前は、どうすんだよ』
『私?…私は…』
答えられなかった。私は一体、どうしたいのか。彼と最期を過ごすわたしはどんな顔をしているのか。まるで想像できなかったのだ。
☆☆☆
それは深く記憶に焼き付いているあの日でも変わらなかった。
『ゾロ…!』
黄猿やバーソロミューくま、海軍によって囲まれた状況の中、彼は仲間を背にして立ち上がった。お願い、立ち上がらないで。お願いだから、逃げて!
『旅行するならどこへ行きたい?』
バーソロミューくまの掌が彼に触れる。
『逃げて!ゾロ!!』
叫びは彼には届かなかった。一瞬にして跡形もなく彼が消えてしまったから。元よりそこに存在しなかったと勘違いしてしまうぐらいに。
『ああ、あああ!』
彼が目の前で消えたというのに、わたしは足がすくんで動けなかった。それどころか、闘いの意志が散り、みっともなく地べたに膝をつく。彼が消えてしまった。どうして。怖い。訳が分からない。
巨大なくまの影がわたしの目の前に立ちはだかる。
『名無し!』
ロビンの私を呼ぶ声が聞こえた。
ああ、ねえゾロ。世界の終わりの瞬間なんて、思っていたよりもあっさりくるんだね。
☆☆☆
魚人島への道すがら、名無しはサニー号の後方で海を眺めていた。アクアリウムバーの何倍もの雄大さ、美しさに名無しはため息をつく。泳いでいる魚たちからしたら、今のわたし達も同じようなものなのだろうか。船全体を覆うコーティングに手を伸ばし、触れる。これが弾けたら能力者であるわたしも、一味のみんなだってひとたまりも無いだろう。それともルフィならなんとかしてしまうだろうか。シャボンディ諸島で海軍を一掃させてしまった船長が頭に浮かび、彼女は微笑んだ。みんな、強くなった。肉体的にも精神的にも。わたしは、どうだろうか。この一味に誇れるような、そんな人間になれているだろうか。あの時、恐怖で何もできなかったわたしはこの2年で消えてくれただろうか。
世界の終わりは突然来た。でも終わらなかった。わたしは相変わらずこの船に居て、みんなが居て、ゾロが居る。
『飲まねえのか』
『あ、ゾロ』
『あ、じゃねえよ。アイツら待ってんぞ』
いつの間にかに背後にいたゾロは、酒片手にため息をつくと名無しの頭をぐしゃぐしゃと撫でた。『名無しー!メシだー!全部食っちまうぞー!』『いやもう食ってんじやねえか!お?!美味えなこれ!さすがサンジ!』『名無しー!唐揚げ食べちまうぞー!あ!それオレのだぞルフィ!』『だーおめえら!それは名無しちゃんの分だろうが!!名無しちゅわーーん??!唐揚げありまちゅよ〜!!!』
ゾロの言う通り、騒がしく名無しを呼ぶ彼等の声に名無しが吹き出した。
『ほんとだ』
『行くぞ』
『ゾロ』
踵を返してさっさと歩くゾロを名無しが呼び止める。ゾロは訝しげに振り向く。
『なんだよ』
『あの時の事覚えてる?』
隻眼の瞳が、私を捉える。
ゾロとはね、一緒にご飯食べて、眠って、星を見上げて、お酒をのんで、笑って、泣いて、たまには喧嘩をして、本音を言い合って…手の、体温を。ガサガサなのに、何よりも優しくて暖かい掌に、頬を撫でてもらいたい、貴方の事が確かに、大切だったって、思いながら、終わりを迎えたいと、そう思ったんだよ。…でもね、きっと、あなた達と一緒なら。
『もし、明日世界が滅ぶとしたら…』
end