なんでもない日(前編)



名無しはまだ朝焼けが空を焦がす時刻に瞳を薄く開いた。まだ閉じていたいという欲求が瞼を支配していて、名無しは負けじと数度開いたり閉じたりを繰り返す。そして深く深呼吸をして目元をゴシゴシと擦ると、眠気を振り払うようにだるい身体をベットから起こした。見慣れた女部屋を寝ぼけた瞳で見渡すと、まだベットで眠りの中にいるロビンとナミが目に入る。名無しは一つ小さく欠伸をして、彼女達の眠りを邪魔しないように慎重に前日に用意していたTシャツとタイトなスポーツウェアに身を包んだ。少々運動には邪魔な髪の毛を髪ゴムで縛ると、物音を立てないように甲板へと繋がる扉を開く。

ドアを開けてすぐに感じる嗅ぎ慣れた潮の匂いと、波が船に当たって散る音。そして朝焼けの赤い光が名無しの視界を支配して、名無しは眩しさに目を細めた。

『っあー、…さむ』

シャツ一枚では流石に肌寒かったようで、名無しは身震いした。グランドラインの日々変わる気候だけには未だに慣れない。今からまた逆戻りして上着を取ってくるのも面倒で名無しは二の腕を摩りながら甲板の定位置についた。うん。走れば暖かくなるでしょう。そう決めつけて、彼女は軽く準備運動をすると、深呼吸をしてから足を動かし始めた。


サニー号の外周をランニングする事は彼女の毎日のルーティーンだ。元はサンジの作るご飯を食べすぎて太った事を皮切りに始めたダイエットであったが、いつの間にかに習慣へと変化していた。
はっはっと短く呼吸を繰り返す。この胸が締め付けられる感覚は嫌いではない。呼吸をする度に冷たい冷気が肺に入りこんで、鼻がつーんと痛む。昔はあまり好きでは無かった感覚だが、日々走る内にいつの間にかにやらないと気が済まないものへと変化していて、なんとも不思議な感覚だ。

『名無し〜おはよ〜』
『はあっはっ…っ、おはようチョッパー!』

男部屋から顔を覗かせたチョッパーがショボショボした眼を擦りながら名無しに手を振る。名無しは笑顔で軽く手を振り返す。チョッパーが起きてきたという事は他のメンバーも起き出す時刻だろう。あと一周したら今日はもう終わりにしよう。
階段を駆け上がりながら感じる早朝の潮風は、何とも忘れ難く、心地よいものであった。




『おはようブルック。サンジくん』

ダイニングへの扉を開けると、そこには毎日の習慣の如く優雅に朝のコーヒーを楽しむブルックと、キッチンに立ってモーニングの下拵えをするサンジが居た。名無しの声に勢いよく振り向いたサンジがキッチンから回転しながら飛び出す。ハリケーンみたいだな、と名無しは冷静に思った。

『おはよう名無しちゅわーん!麗しのレディ…今日も俺は君のト・リ・コさ…』
『サンジくんお茶ちょうだい』
『んんっかしこまりました愛しのレディ❤』

名無しを視界に入れた途端目をハートにさせて毎朝のように口説いてくるサンジには慣れたもので、名無しはこれまたルーティーンである飲み物を要求する。ブルックはいつもの光景に何か言うわけでもなく、コーヒーをテーブルに置いた。同時にカチャリ、とカップとソーサーが音を立てる。そして目玉の無いぽっかりと空いた瞳でじっと名無しの顔を見て、意味ありげに口を開いた。

『おはようございます名無しさん。パンツ見せてもらっても宜しいですか?』
『見せるかァ!!!』

 サンジの強烈なツッコミという名の蹴りがブルックの顔にヒットした。名無しはニッコリと笑うと、いつもの台詞を吐く。

『良いよ。今度ね』
『良くねえよ?!』

 ダイニングにサンジの悲痛な悲鳴が轟いた。





『名無しちゃんはカフェラテで良かったかな?』
『うん!ありがとうサンジくん』
『どういたしまして。君のためなら薮の中でも爆撃の中でも例え海軍の中でも届けに行くさ』
『それは自分の身を守って欲しいな』
『名無しちゃんが飲める温度にしておいたから、安心して飲んでくれ』

タバコをふかしながらニカッと笑うサンジに、名無しはへラリ、と緩い笑顔で返す。一味全員の味の好みを把握している上さり気ない気遣いをみせる彼は正直言って魅力的だ。だが普段の彼の言動と行動がその魅力を覆い隠してしまっているのだろう。名無しはキッチンに戻ってゆくサンジの背中を見つめながら、カフェラテをゆっくりと口に付けた。

『美味し』
『それは良かった』

名無しの小さな呟きは、彼に聴こえていたようでキッチン側から頬杖をついてニヒルな笑みを見せるサンジに名無しはホントに、勿体ないなあ、と思うのであった。
 


暫くブルックと談笑した後、名無しがチラッと時計に視線を向けた。そしてあ、と声を上げて緩やかに立ち上がり、ドアへと向かう。

『シャワー浴びてくるね〜』
『…あ!名無しさん!』

ヒラヒラ後ろ手に手を振る名無しに、ブルックが彼女の名前を呼んだ。名無しがきょとん顔で振り向く。

『なあに?』

ブルックはまたしても妙に真面目な雰囲気で、黒い眼で彼女を見つめて低い声で言い放った。

『シャワー…覗かせて頂いてもよろしいですか?』
『良いよ。今度ね』
『ブルックウウウ!!!俺も…!!!俺も連れていけ!!!』

彼等にいつまでも付き合っていたらこの汗臭いまま食卓に並ぶ事になりそうで、名無しはサンジの悲痛な叫びというか、欲望の権化の言葉を背に早足でダイニングから退出した。




必要なものを取りに女子部屋へと入室すると、ベットに座ってまだ眠たそうなナミが掠れた声で『…おはよ』と挨拶してくるので名無しは珍しい彼女の姿が可愛らしくて微笑みながら『おはよう、ナミ』と返す。そういえ昨日は彼女とゾロとフランキーロビン4人組で夜中まで深酒していたのを見かけたな、と昨夜の記憶が過った。そして視線を滑らせると、ぽっかりと空いたもう一つのベットに住民が居ない事に気付いて、名無しは首を傾げた。

『ロビンは?』
『…んー、アクアリウムじゃない?』
『あ、成程』

早起きの彼女の事だ。アクアリウムで本でも読んでいるのであろう。名無しはクローゼットを開けて今日着る服を少し悩んでから取ると、化粧ポーチを持ってナミにシャワーに行く事を告げてから、サニー号の後方にある大浴場へと向かった。




今日のメイクはどんな風に仕上げようか。名無しは脱水場の鏡の前でシャワー上がりの火照った頬に化粧水を叩き込みながら考える。今日の服装は薄ピンクとグレーのグラデーションパーカーに少し肌寒いのでグレーのタイツにスニーカーを選んだ。ならばそれに合うカジュアルなメイクにした方が良いだろう。名無しは鼻歌を歌いながら化粧ポーチを開いた。



『うん!今日も私可愛い!』
最後の仕上げに唇をピンクのリップで飾って、名無しが微笑むと、鏡の中の彼女が同じ様に満足気に笑った。今日のメイクはなかなか上手くいった気がする。良い1日になるかもしれない。一味の誰かが歌っていた気がする曲を口ずさみながら、名無しはドアへと向かう。

ガチャッ

『あ』
『あ』

名無しがドアノブを掴む前に突如開いたドアの向こう側で、唖然とした顔で立っているのは我が一味の剣士ゾロ。上半身肌、蒸気した顔、そして額に汗が滲んでいる様子から見て、ジムで筋トレでもしていたのだろう。週一しか風呂に入らない彼になんだか物珍しくて名無しは首を傾げた。

『おはよゾロ〜シャワー浴びるなんて珍しいね。今空いたよ〜』
『お前な………鍵くらい閉めろよ…』
『えー?どうせ朝だし誰も来ないでしょ?あ、ゾロが来たか〜』

ヘラヘラと笑う名無しにゾロの米神がピクッと動く。名無しは微かな彼の変化に『えっ』と戸惑いの声を上げた。

『お前がそんなんだと…』

感情を蹴落としたような顔でゆったりとした動きで向かって来るゾロに、名無しは慄く。彼が一歩近づく度に彼女も同じ様に背後に下がる。とん、背中にぶつかった壁に名無しが目を瞬かせた時には、ゾロの右腕が彼女の進行方向を妨げて、いよいよ逃げ道を無くしてしまう。

『な、なに…』

正に壁ドンされているような状況に名無しの目が泳ぐ。
ゾロは無表情のまま名無しが逃げない様に彼女の足の間に無理やり足を差し込むと、自動的に彼の身体が更に寄ってきてゾロの汗の匂いが名無しの鼻を掠った。ゾロはいつもにも増して真面目な雰囲気で彼女の頬に触れる。それが擽ったくて、名無しは身じろいだ。

『…っちょ、』
『こうなるかもしれねーぞ』

足の先からくるゾワッとした感覚に名無しが片目を瞑る。ゾロは彼女の耳たぶにも触れると、喉からクッと声を漏らして笑った。

『…は、ブサイク』

心臓に広がるじわーっとくる羞恥心に名無しの顔が染まった。あのゾロに。あのアホなゾロに。こんな方法で。揶揄われた。そう察した名無しは右手に持っていた化粧ポーチでゾロの顎をアッパーカットばりに思い切り殴り飛ばした。『ぐウッ』突然の痛みにゾロが後ずさる。名無しはその隙に彼の包囲網から抜け出すと『変態がーっ!』と捨て台詞を吐くと、シャワールームから飛び出した。

『おい、忘れてんぞ!』

殴り飛ばしたと同時に吹っ飛んだ化粧ポーチと、顎を抑えながら彼女の背中に叫ぶゾロだけが大浴場に取り残された。



続く

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