静かな祈りの声が、古びた修道院の礼拝堂に響く。私はシスターとして、この小さな島で慎ましい日々を送っていた。顔の左頬に残る痘痕を隠すように、いつもヴェールを深く被り、人目を避けて生きてきた。
この島は、古くから海運の要所として栄えてきたため、時折海賊船が立ち寄ることも珍しくなかった。しかし、この島の住人たちは皆、屈強な漁師や元船乗りが多く、結束も固い。海賊といえど、むやみに一般人を襲うようなことは滅多になく、むしろ物資の補給や情報交換のために友好的な関係を築くこともあった。
そんな比較的平穏な日常が、終わりを告げようとしていたある日のことだった。スペード海賊団。船長はポートガス・D・エースという、最近名を上げたばかりのルーキーだと聞いた。若い海賊団であり、島では「少しばかり血気盛んな連中が来た」程度の認識で、過度な警戒をする者はいなかった。
私も普段通り、修道院で祈りを捧げ、信者たちの世話を焼いていた。しかし、街の様子を見に行ったシスターから、若い海賊たちが少しばかり騒がしいという話を聞き、念のため人目を避けて過ごすことにした。顔の痘痕のせいで、余計な騒動に巻き込まれたくなかったからだ。
いつものように人通りの少ない裏道を歩いていると、不意に背後から軽い口笛が聞こえた。振り返ると、そこに立っていたのは、噂に聞いていたスペード海賊団の船長らしき若い男だった。浅黒い肌に、屈託のない笑顔。やや癖のある髪、そばかす。頭にはオレンジ色のテンガロンハットを被っている。
「こんなとこで何してんだ?」
警戒しながらも黙っている私に、エースは不思議そうな目を向けた。そして、私のヴェールに気づいたのだろう。
「なんだ、お前。顔隠してんのか?」
ドキリとした。まさかこんなところで、彼に見つかってしまうなんて。咄嗟にヴェールを深く被り直すと、エースは面白そうにニヤリと笑った。
「そんなに隠すってことは、相当な面だな?」
「……そんなことはありません」
掠れた声でそう答えるのが精一杯だった。エースは興味深そうに私を見つめ、さらに言葉を重ねてきた。
「見せろよ。別に、悪く言うつもりはねえって。俺は見た目なんて気にしねえ主義だ」
それでも私が顔を隠したままでいると、彼は少しだけ真剣な表情になった。「何か、理由があるのか? 嫌なことでもあったのか?」
彼の真っ直ぐな視線に、私は言葉を失った。痘痕のせいで、どれだけの視線に晒されてきただろう。好奇の目、憐みの目、蔑みの目……。もう、そんな思いは二度としたくなかった。
「……醜いからです」
絞り出すような私の言葉に、エースは一瞬驚いたような表情を見せた。しかし、すぐにニカッと笑って言った。「へえ、自分で言うんだな。まあいい。無理には見せろとは言わねえよ。でもよ」彼は少しだけ身を乗り出して、私の目をじっと見つめて言った。「お前さ、隠してる方が損してる顔してるぜ」
その言葉は、私の胸に小さな棘のように突き刺さった。誰にも言われたことのない、そんな言葉。
それからというもの、エースはなぜか毎日のように私のいる場所に現れるようになった。修道院の裏庭だったり、街の静かな波止場だったり。最初は警戒していた私も、彼の飾らない態度と、時折見せる深い優しさに徐々に心を開いていった。彼は自分の生い立ちや、海に出た理由、これから目指す偉大なる航路の話を、熱っぽく語ってくれた。その目は、いつも未来への希望で輝いていた。
ある夜、二人で月明かりの下、静かに話していた時のことだ。エースはふと真剣な表情になり、遠い海を見つめながら言った。「俺はな、いつかこの世界で誰もが知るような大物になるんだ。自由気ままに、自分の信じるままに生きる。それが俺の夢だ」
私は彼の横顔を見つめながら、心の中でそっと呟いた。(彼はきっと、どこへ行っても大丈夫。自分の力で、道を切り開いていく人だわ)
「なあ、名前」
突然、エースが私の名前を呼んだ。ドキリとしながら顔を上げると、彼は少し照れたように笑って言った。「お前と話してると、なんだか不思議な気持ちになるんだ。時々、一緒に海に出るのも悪くないかもって思うんだよ」
彼の予期しない誘いに、私の心は大きく揺れた。でも、すぐに現実が引き戻す。「そんな……私には、無理です。私はここにいるべき人間ですから」
エースは無理強いすることなく、「そっか」と少し寂しそうに笑った。「ま、気が変わったら、いつでも言えよな。俺たちの船は、お前のための席も空けておくぜ」
それから島を離れるまでの間、エースは時間を見つけては私の元に現れ、様々な話をしてくれた。彼の夢、仲間たちのこと、そして、時には私の過去について、そっと尋ねてくることもあった。私は、痘痕のことを含め、少しずつ彼に自分のことを話すようになっていた。彼はいつも、私の言葉に真剣に耳を傾け、そして最後に必ずこう言ってくれた。「お前の過去がどうであろうと、今の名前は名前だ。それでいいんだ」
別れの日は、あっという間にやってきた。エースはいつものように修道院の裏庭に現れると、少し寂しそうに、でもどこか決意を秘めた眼差しで言った。「じゃあな、名前。この島でのことは、決して忘れないぜ」
「……私もです。あなたのことは、きっと……ずっと忘れません」
それが、彼と交わした最後の言葉だった。スペード海賊団の船が港を離れ、水平線の彼方に小さくなっていくのを見送りながら、私の目からはとめどなく涙が溢れた。彼の自由な生き方と、私に向けられた温かい眼差しが、心に深く刻まれていた。いつか、どこかで、もう一度会えるような気がしていた。根拠はないけれど、そう信じたかった。
エースが島を離れてから、何年もの月日が流れた。私は変わらず修道院で働き、祈りの日々を送っていた。しかし、彼のことを忘れることはできなかった。夜になると、彼の屈託のない笑顔や、熱い語り口が鮮やかに蘇り、もう二度と会えないのだと思うと、胸が締め付けられるような思いがした。偉大なる航路を駆け巡る彼は、きっとこの世界で誰もが知るような、立派な海賊になっているだろう。私のような、顔に傷のあるシスターのことなど、とうに忘れてしまったに違いない。それでも、彼の幸せを願わずにはいられなかった。
そんな諦めにも似た感情が、私の心を支配するようになっていたある日のことだった。島に、かつてないほど大きな船が近づいてくるのが見えた。白ひげ海賊団。世界最強と謳われる海賊団の旗が、堂々と風に揺らめいている。
島の人々は、さすがに緊張の色を隠せない。屈強な男たちも、世界の海賊団の登場には警戒を強めていた。まさか、こんな小さな島にまで、白ひげ海賊団がやってくるとは。
不安に駆られながらも、私は信者たちと共に祈りを捧げていた。すると突然、港の方から歓声のような、そして驚きの声のようなものが聞こえてきた。何が起こったのかと外に飛び出すと、信じられない光景が目に飛び込んできた。
港には巨大な海賊船が停泊し、屈強な男たちが悠然と陸に上がってきている。その中で、ひときわ目を引く、見覚えのある後ろ姿があった。オレンジ色のテンガロンハット……
(まさか……本当に、また会えるなんて……)
信じられない思いで息を呑んだ瞬間、その男がゆっくりとこちらを振り返った。数年前よりも逞しく、そしてどこか人々を魅了するような風格を漂わせるようになった顔には、あの頃と変わらない、太陽のような笑顔が、まっすぐに私に向けられた。
「よお、名前」
エースだった。あの時、まだ若いルーキーだった彼は、今は白ひげ海賊団の二番隊隊長として、この世界でその名を知られるようになっていた。
島の人々がざわめき、警戒の色を強める中、エースは悠然と歩み寄り、私の目の前で立ち止まった。そして、あの頃と変わらない、少しばかり照れたような、でも今はより自信に満ちた笑みを浮かべて言った。
「あの時言ったろ? また来るかもなって。それに……」彼は少しだけ顔を近づけ、私の目を深く見つめた。
「俺は海賊だからな。一度この心に火をつけた女は、この世界でどこにいようと、攫いに来るって決めてんだ」
その瞬間、堰を切ったように私の目から熱い涙が溢れ出した。喜び、驚き、そして何よりも、何年も思い続けた彼が、私の目の前に、あの日の約束を胸に抱いて現れてくれたという奇跡。心臓が早鐘のように打ち、全身が震えた。
私は無我夢中でエースに抱き着いた。顔を隠していたヴェールが、勢いで地面に落ちるのも、今日はもうどうでもよかった。
「エース……っ!」
「なんだ、やっぱり……綺麗な瞳してんじゃねえか」
私のヴェールを拾い上げたエースは、そう言って優しく微笑んだ。
「あの時も言っただろ? 隠すんじゃねえよ、勿体ねえ」
涙でぐしゃぐしゃになった私の顔を見て、エースは少し困ったように、でもとても愛おしそうに笑った。
「嬉しい時はどんな顔すれば良いって教えたろ?」
私は、彼と初めて会った日のことを、昨日のことのように鮮明に思い出した。警戒して顔を背ける私に、彼は少し照れながらも、眩しい笑顔を見せてくれた。
「笑ってみろよ。ほら、こうやって」
震える声で、涙声で、でも今日は確かに、私は彼に告げた。
「……私を、攫って、海賊」
エースは、私の言葉を聞くと、力強く頷き、何よりも輝かしい笑顔を見せてくれた。
「ああ、勿論だ!」
彼は私の手をしっかりと握りしめ、振り返ることなく歩き出した。島の人々は驚きと感動が入り混じった表情で、私たちを見送ってくれた。白ひげ海賊団の仲間たちは、温かく、どこへ行っても恐れることなく、私たちを祝福しているように感じた。
もう、過去の小さな島での生活や、顔の痘痕を気にして生きてきた日々は終わる。エースと共に、自由な海へ飛び出していくのだ。彼の隣で、ありのままの自分で生きていく。彼が言ってくれた言葉、「それでいいんだ」という一言が、私の心に深く響いていた。
夕焼け空の下、エースの大きな背中を今は強く感じながら、私は心の中で誓った。この広い海で、彼と共に、誰にも邪魔されることなく、私たちの物語を紡いでいこうと。顔に残る小さな傷跡は、もう私の心を縛る鎖ではない。それは、彼と出会うまでの、私だけの大切な歴史を刻んだ証なのだから。
これからは、彼と共に、この世界でただ一つの、愛の物語を創り上げていく。どこまでも広がる青い海が、私たちの未来を祝福しているようだった。私の頬を伝う涙は、悲しみではなく、これ以上ない喜びの証だった。