◆◇ 「はらわた」主人公と琥太先生
胸のあたりがじわじわとムカついて、呼吸を妨げるように喉の奥はぎゅう、と締めつけられていた。
全身が強張る。
顔は火照りとは違う、カッとした熱さに苛まれている。
吐かないと……吐き出さないと。また、何かが死んでしまうような気がしていた。
廊下を歩いて、早くはやく歩いて、なんとか落ち着こうと息を何度も吸っては吐いてを繰り返す。
目指していた【保健室】のプレートが目に入ると、必死になって抑えている熱が一気に溢れそうになった。それを、やっぱり抑え込む。
トントン、とノックをした。
手は押さえがきかなくて震えていて、その音はなんだか不格好で情けない響きになってしまった。
「失礼します」
震えを抑えて、抑えて、抑え込んで。そうしていつもと同じ言葉を口にする。
ドアを開ければ、いつの間にか馴染み深くなっていた消毒液の匂いが鼻先を撫ぜる。視界の先には雑然とした保健室らしくない光景が広がっていて、その景色は ” 相変わらず ” としてわたしを出迎えていた。
入り口向かいの奥側にあるデスクには、鮮やかな翡翠色がある。その場所にいつも通りに構えるいつもの人の姿を一目目にして、わたしの体からはゆるやかに力が抜けていった。
ああ、ここはわたしにとっての数少ない、安全地帯だ。逃げるように駆け込んできて、また、そう思う。
走っていないのに荒くなった息をゆっくりと整えれば、すぐにわたしに気付いた琥太先生は扱っていた書類から顔を上げる。穏やかな瞳と視線が交わって、そして彼は、その双眸をゆったりと和やかに細めた。
「氷輪か。どうした? 腹でも減ったんなら生憎だが、茶菓子はついさっき切らしたところだぞ」
「べつに、お腹は減ってませんけど……」
「そうか。まあ、いつものことだが適当に好きにしなさい」
「はぁい」
こうやっていつもと同じように穏やかに迎えられると、全身を蝕んでいた緊張は抜けていくのに、熱はどんどんこみ上げてくる。また喉がぎゅっと締まって、苦しくてたまらなくなる。
きっと今のわたしは変な顔をしているんだろうな、と。なんだか他人事のように予想がついた。こちらを見ていた琥太先生が数拍遅れて、わたしの様子がおかしいことに気付いたのか表情が変化する。和らいでいた目も雰囲気も、丸まっていた背中すらもすぐに芯を持ち始めたのがわかる。ああやっぱり、琥太先生はすごい。生徒の不調をすぐに見抜くなんて、教師の ── ひいては養護教諭の鏡みたいだ。
そんな彼が、わたしのことを呼ぶ。氷輪。いつもよりずっと落ち着いた、荒立ったすべてを鎮めるような声で、そうやってわたしを呼ぶ。けれどその無条件な優しさを未だにすんなり受け取れないわたしは、バレているとわかっているのに繕って笑って逃げようとするのだ。この場所に、逃げ込んできたくせに。
「琥太先生、今忙しいんだね。わたし眠いから、ベッド使いますねー」
「こらこらこの不良娘、保健室のベッドを勝手に私物化するんじゃない」
「今許可取ったし、それは琥太先生には一番言う権利がない台詞な気がする……」
「ははは、それは気のせいだ。あと俺は許可申請は聞いたが許可は下ろしてない。残念だったな」
「いや、だって琥太先生忙しいんでしょ? わたし、邪魔しに来たわけじゃないからベッド使わせてくださいよぅ…… 」
形だけでじゃれてはいるが、わたしの視線は先生から背けられているし、表情だってほとんど引きつっていた。
今日の先生のデスクはいつものように書類が広がっていて、けれど雑然としているのではなく仕事中なのがわかるような広がり方をしている。パソコンも分厚い本もたくさん積まれたファイルもあって、忙しく仕事をしていたのだと察するのは簡単なことだった。きっと、本来なら今こうしてわたしと話している暇すらも惜しいんだろう。……それなのに相手の都合を押し退けて自分に構えと宣うほど、図々しい人間にわたしはなれそうになかった。
助けて欲しい手を伸ばすことが怖くなったのは、いつからだったっけ。伸ばした手を払われるんじゃないか、そんなことを考えて怖くなって、いつからか誰かに助けを求めることが上手くできなくなっていた。縋る手を払われることは、痛くて苦しい。だからそうならないように、自分から離れて、予防線を張って。そういう癖がついてしまったのはきっと、哀しいことなんだろう。
わたしは顔を背けてはいるけれど、その自分の顔を琥太先生が見つめているのはわかる。少し気まずくなってちらりと横目で視線を向けてみれば、琥太先生は目を閉じて少し寄せていた眉間の皺をぐいぐいと指で伸ばした。そして深く息を吐くこと、数秒。眉間から指を離して目を開いた琥太先生の顔に浮かんでいたのは、呆れを含ませた困ったような表情だった。
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