◆◇ 安らけし徒花よ




「ねえ。貴方は、伊藤計劃っていう作家を知ってる?」

 そういった声は若さを感じさせる愛嬌がある。けれど、そこに若者特有の浮つきはなかった。
 その言葉を唇から紡いだ人は、二人掛けの広々としたソファの隅で、軽く脚を抱えて座っている。
 流れる黒檀の髪に細く色白な体躯。大人びた顔立ちの中でくるりと丸い空の瞳が、長い睫毛に邪魔されることもなくその斜め前、テーブル越しに座る男を見つめている。

「知らないな。いつの作家かな?」
「一世紀くらい前の人」
「ふうん。……そのあたりの作家はあまり読まないんだ。実りのあるものが、あまりに少ない。手塚治虫や藤子不二雄なんかは別だけれど」
「貴方、本当に好きだねえ」

 目の前の男――白い麗人と和やかに会話を交わす少女は、自分の目には些か異常に映った。義眼の貴方に言われるとは、なんて愉快そうに笑われるイメージが過ぎりながらも、自分の眼が彼女を常人として映すことはない。
 自分の雇い主である彼が難しい御人であるということは、案外知っている人間が少なかったりする。彼女もその口かと思うも、旦那の表情や態度を見るにそうでもないらしいのはすぐにわかった。そもそも、あの御人がセーフハウスとはいえ入ることを許しているということが、まずは自分にとって意外で異様で閃揺なのだから、自分の心情にも理解を頂きたいところである。

「それで。伊藤計劃が、何だって?」
「貴方って、さあ。人としての価値が存在しない人間が嫌いだよねえ」

 若干逸れた話の軌道を戻す彼に、彼女は脚を抱えたままに頬杖をついて要領を得ない返答をする。旦那も多々こういう返しはするが、お嬢の方は相手の支配など考えてもいないただのマイペースだ。それがわかっているのは自分だけではないのか、旦那も慣れたように何も変わらずまた言葉を返している。

「嫌い、とはまた違う。僕は、嘆かわしいと、そう思うのだけど」
「はは、屁理屈だね。嘆かわしかろうと何であろうと、悪感情からの冷酷に繋がるのなら嫌い、と同じだよ。皆、みな、みんな。如何なるものも!」
「そうかい。なら僕は、君のそれは詭弁でしかない、とでも返せば良いのかな」
「やっぱり詭弁に聞こえる?わたしもそう思う」

 旦那の不思議と此方が呑まれるような言葉にこうも真正面から叩きつけにかかる、この場面はいつ見ても感心してしまう。初めの内は落ち着かなくて仕様がなかったが、片手じゃ数え切れない程度見てこればすっかり慣れたものだ。
 お嬢はソファに寄せられたサイドテーブルに置かれていたコーヒーのカップを両手の平で包む。そういえば、あのサイドテーブルはいつの間にか在ってあの場所が定位置になっていた。なんて、どうでも良い事を思い出したがきっとすぐに忘れるだろう。
 装飾の一切ない純白のワンピース一枚だけで本物の豆の苦くて堪らないコーヒーを舌で転がすと、味わい尽くして飲み干した彼女は両目と唇を細めて笑む。不思議の国のアリス、だったかに出てくる猫に似ていると思った。まあ、その猫をはっきりとは憶えていないので定かではないのだが。

「人間は脳細胞だし、水だし、炭素化合物で、とてつもなく長いけれど、ちっぽけなDNAの塊だ。人間は生きているときから物質で、この物質以外に魂を求めたって、そこから倫理や崇高さが出てくるように思うのは欺瞞ですよ、って」
「……それは?」
「伊藤計劃の小説からの受け売り。とある戦士が、そういうことを言ってたの」

 一瞬。文字の通りに一瞬の沈黙が落ちる。そして彼の返答など待たず、彼女は続けた。

「世の中に生きる動物たちの中で人間だけが特別だなんていうのは傲慢だって、わたしは思うの。そう、人間なんてただの物質だよ。死ねばただの肉の塊、とはよく言うけど、そんなもん生きてたって同じじゃない。意識が有るから肉の塊ではない?ナンセンスだね。肉体がなければ何も出来ない意識が、何故そんなにも尊いものとしてあるのか。わたしにはよくわからない。わたしたちは動物である限り、皆等しくただの物なんだよ」

 謡うように謳う彼女は他人に口を挟ませない。旦那は元から最後まで聞き届ける気があっただろうが、彼女の弁舌は堅苦しさはないくせに相手を呑み込むものがあった。普段通りのアルカイックな笑みを湛えて、彼はずっと歳が下の少女の持論を聞いている。

「わたし、強く言うのも決め付けるのも好きじゃないから。他人にこの持論を押し付ける気は全くないんだけどね」
「それは臆病だから?」
「そう、臆病だから。わたしはこれを正義だ正論だと掲げる程の勇ましさも度胸も持っちゃいない。だからいい人みたいなことを言って逃げ道を作るの。『これはただの持論だから、何を考えるかは個人の自由だよ』ってね」
「君のそういう素直なところ、僕は嫌いではないよ」
「素直、か。ただの卑屈だと思ってたけど」
「それにしても君、犯罪係数は酷い有様なんじゃないか?何を思い考えるかは個人の自由、なんてこの世界の神気取りが特に排除したがるものだ」
「さあ、知らなあい。案外貴方みたいに真っ白だったりしてね」
「一概に否定出来ないあたりが君の面白いところだね」

 離れたテーブルで作業をしながら話を聞いていたが、手が止まったのは初めてだった。横目で見るのではなく両目を向けてみれば、麗しい男と愛らしい少女が和やかに小難しい話をしている。二人して、そして特に少女の方は、虫も殺せぬと言われても疑問も湧かない無害であるような表情で、振る舞いで。だからこれはただの出来心だった。自分の端末の簡易色相スキャナをゆっくりと起動させる。

「そうかなあ、わたしは冗談のつもりだったんだけど」

 可笑しそうに、しかし乾いた笑いを浮かべる少女。二人の方へとスキャナを向ければ、手前側に座る旦那の”クリアホワイト”が表示される。そして奥の少女の欄に表示されたのは――

「わたしがクリアカラーなんて有り得ないよ。シビュラにはばっちり補足されてるもの」

 “ノクターン”
 一瞬思考が止まった自分に気が付けば彼女の目が向いている。悪戯に笑んだ彼女は、愉快を隠そうともしない声色を自分に掛けた。

「どうだった、グソンさん?驚いたでしょ」
「槙島の旦那で学んだと思ってたんですがねえ……まだまだ甘かったらしい。本当に、人は見かけによらないもんだ」
「驚かせられたのなら重畳だよ」

 面白そうに笑う少女だが、この色相では犯罪係数はとんでもないことになっているだろう。ふと傍にある旦那のクリアカラーを見てもしこの人のサイコ=パスが普通なのであったらあんな色なのではと思ったが、何度見てもその色相はクリアホワイトであったし、つまらないタラレバの話だと切り捨てた。

「さっきの話だけれど。僕なりに、君の逃げ道に則って考えてみたんだ」

 唐突に、旦那はそう言う。彼女のサイコ=パスに興味などないように。そして彼女もそのことに興味などないように、続きを促す視線を向ける。

「君は、人間が嫌いだな。誰か、という個ではない。人間という種族が嫌いなのだろうね」
「その通り。よくお判りで」
「なら僕は、人間が好きだ。誰か、という個ではない。人間という種族が好きなのだよ」

 再び一瞬落ちた沈黙。続きの言葉を待つ少女に、彼は笑むと望むように続ける。

「人間は進化してきた。知能を取得し、理性を取得し、意志や意識を得た。他の動物が行ってきたのと同様に進化を続け、そして人間は自然界の――といってもこの社会にはもう自然などないに等しいがね、頂点に立ったんだ。君の言う、ただの物質であることも認めよう。しかし人間が自らの進化によって然るべき地位を手に入れたのもまた事実。僕は、そう思うのだけど」
「……ああ、そっか。貴方は人間が好きだから、然る可く人間でない今の社会の人々……シビュラシステムの傀儡、だっけ。それが嫌いなんだね」
「嘆かわしいのだと、言ったはずだけれど」
「それは屁理屈だって言ったはずだよ」
「それは詭弁だと言ったと思うんだが」

 彼の見解を互いの言葉遊びで締め括って、彼らは愉しげに喉を鳴らして笑う。見ているだけなら大変画になるが、あの会話の中には絶対に入りたくないと思う自分は何も可笑しくないだろう。

「ねえグソンさん、どっちが屁理屈でどっちが詭弁だと思う?」
「勘弁してくださいよ、お嬢。俺を巻き込まないでもらいたい」
「付き合いが悪いね、チェ・グソン」
「旦那までやめてくださいよ、まったく……」

 面白がって俺を巻き込もうとする彼女と意外と気の良い旦那が便乗して悪戯に目を細める。彼らの言葉遊びの餌食になるのは御免だと忙しなくキーボードを打ち込みながら深い息を吐き出した。

 こんな世の中だ、潜在犯であり犯罪に加担している自分は勿論のこと、酷いサイコ=パスの彼女もそう長くは生きられないだろう。酷く、惨い……哀しい世界だ。そんな世の中を崩壊させようと笑む彼の御人に、着いていかないわけもない。

「アンタたちのディベートやらディスカッションはね、結構好きなんですよ」

 自分の唐突な告白に、二人は不思議を表情に現す。自分は案外、この人たちといることを好いているらしい。誰かが死ねばそれもまた消える。そう思えば、らしくもなく背筋がシャンとするもんだ。

「……チェ・グソン、次の首尾は?」
「上々ですよ、旦那」

 こちらの感情を見透かしたかのような目で、彼は問う。答えた自分の声は普段よりも活力があった。
 タンッ、と勢いをつけてエンターキーを弾けば、始まってゆく。こんな世の中を崩壊させる為の、次なるイタズラが。

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