普段、クリスの試合を見に行くことはない。
それは興味が無い訳でもなく、行きたくない訳でもなく、勿論彼を愛してないからという訳でもない。
彼から許可が下りないのだ。
国際大会は色々な所に遠征するので、距離が遠いところは流石に私も諦めるが、ヨーロッパ内ならまだ私でも一緒に行く旅費などは出せるのだ。
近くで支えたい、応援したい、と言っても彼は逆に私を一人にすると心配になるからやめて欲しいと言うのだ。

今までその言葉があったので付き合い始めてからクリスの試合をテレビ以外では観戦していない。
また今シーズンもテレビでの観戦に成るだろうと思っていたのだが、グランプリファイナルも近づいてきたある日、クリスから意外な言葉を聞いた。



「名前も一緒に行く?」

「え?いいの?」


クリスから離れないこと、公式練習なども近くにいること、もし離れる時は携帯電話を手放さないこと…
など色々と約束事を守れるならと言われたので、首を大きく縦に振った。
やっとクリスの演技を間近で見ることができる。
仕事は急だったが有給をもらった。
今まであまり使わずに残しておいて良かった。
ワクワクしながら遠征の準備をした。

ホテルや航空券も自分で手配する予定だったが、そこも一緒だからと手配してくれたらしい。
観戦なので自分で手配するところだ。
申し訳なさに駆られながら彼の後ろについて行った。

久しぶりのフライトに疲れてしまった私は、ホテルについてすぐ部屋で眠ってしまった。
部屋はクリスがスケート連盟に頼んで手配したツインルーム。
家ではダブルベットで二人で寝るのだが、試合前だからゆっくりとして欲しいので別の部屋にしようとした。
しかしそれも却下されいつもと同じように同じ部屋にいて欲しいと言われた。
ダブルだとゆっくり足が伸ばせないからせめてツインにしてくれと言う言葉だけは渋々受け入れられた。

その間、クリスはヴィクトルとプールに行っていたらしい。
SNSにあがる彼らの姿を見て流石にバルセロナと言えど冬なのに…と驚いた。
ヴィクトルはコーチだからまだしも明後日に試合を控えている身とは思えなかった。

その日はクリスとホテルのレストランで食事をした。
準礼装の彼は普段から大人っぽいが更に色気や何処か妖しげな雰囲気があった。
隣にいる自分は黒のシックなワンピースを着ているというのに何とも幼く見えた。
手を取りエスコートされるのも妙に照れ臭かった。

二人でワインを飲みながら、明日の事を話していた。
明日は公式練習が終わった後、自由時間だから何処かへ観光へ行こうとクリスは言ってくれた。
試合の前なのに良いのかと聞けば、普段デートもゆっくり出来ないから、と私が退屈しないよう計らってくれた。


「ねぇ、名前…あの、大事な話があるんだけど…」

「え、何??」


彼にしては珍しく神妙な面持ちで私を見た。
少し考えている様な素振りに私も少し不安になる。
そして私の目をジッと見つめてくるので、その美しいジェードの様な瞳から目が離せなくなる。


「…名前…けっ」

「あ!クリスー!」


クリスが何か言いかけた時に元気な声が聞こえた。
私も聞き覚えのある、クリスより少し高いがよく通る独特の甘さのある声。
世界中の女性を虜にし続けている美丈夫、ヴィクトル・二キフォロフだった。
そしてヴィクトルがコーチを務める勝生勇利選手の姿もあった。


「ヴィクトル、クリス話してたじゃん!」

「あ、名前!来てたんだね!久しぶり!」

「ヴィクトル久しぶり。」


クリスはハァ、と明ら様な大きなため息を吐いた。そして少し恨めしそうにヴィクトルを見ている。
しかしヴィクトルは首を傾げながらニコニコしていた。
クリスが何を言いかけていたのかは分からない。
後で聞いてみようと思いながら、勝生勇利選手に挨拶をした。
礼儀正しい日本人らしい挨拶だった。
ヴィクトルは私とクリスの様子を見てニコニコしながら話していた。


「名前が試合の応援に来るなんて珍しいね。」

「クリスが今回は一緒に来ても良いって言ってくれたから」

「名前とクリスが付き合う前に会って以来だから本当に久しぶりだね!」


話しをしていたら、レストランのスタッフさんが気を使い席を移動してくれた。
そして4人で食事をとることになる。
ヴィクトルはワインを飲み、終始機嫌が良かった。
コーチの酒癖の悪さを知ってか、勝生勇利選手がセーブをかけている。
クリスはというと、先ほどから笑ってはいるが少し不機嫌気味だった。

食事も終わり、明日の公式練習も朝が早いので、早めの解散となった。
部屋に戻る時に、クリスに何を言おうとしたのか尋ねてもはぐらかされ、教えてはくれなかった。



次の日、公式練習も終わり、クリスの着替えが済むとそのままバルセロナに繰り出した。
ランチにスペイン料理を食べ、手を繋ぎ街を歩く。勿論クリスは変装していた。
けれど、スイスにいる時はあまり二人でゆっくりとデートも出来なかったので少し緊張する。
異国の不思議な色の建物が並ぶ中をクリスと歩くのは夢の中にいる様な気持ちだった。

二人で買い物をしながらクリスマスマーケットを見て歩いた。
露店に並ぶ可愛らしいクリスマスオーナメントを見て、帰ったら家に飾ろうと話しながら二人で笑いあった。
幸せだ。何だかこの後に試合があるのが不思議なくらいだ。
ふと、教会の前でクリスが立ち止まる。
私もつられて立ち止まり、クリスの方を見た。
また昨日の様に、普段のクリスとは違うどこか切なげな表情だった。


「クリス??」

「名前…」


クリスが私の手を優しく握りなおした。そして私の頬に手を添えて微笑んだ。
その表情に心臓が大きく鳴った。
頬に触れた掌から体温が伝わる。
そして昨日の様に私の目をジッと見つめる。私は彼から目が離せなかった。長い睫毛が光に透けている


「名前…今シーズンが終わったら、けっ」

「あ、クリスだー!」


そしてまたクリスが何か言いかけた時に声がした。
明るく、朗らかで弾む様な声。そこにはタイのピチット選手がいた。
一人なのか自撮りをする棒を持って歩いている。
彼のSNSにはたまにクリスも映っていたりするので、会うのは初めてだが見たことがある。


「クリスが女の人連れてるなんて珍しいね!」

「遠征とかは基本一人だからね…」


クリスは笑っていたが、少し悲しそうな目をしていた。
そしてピチット選手は私を覗き込みながら笑顔で挨拶をしてくれた。


「クリスの彼女さん?初めまして、ピチットです!」

「初めまして、ピチット選手。名前です。」

「ピチットで大丈夫だよ!」


人好きのする笑顔を見せてくれた。
目が大きく、表情豊かで、明るい太陽みたいな子だなと彼につられて笑顔で返した。
その時、掴まれたままの手にクリスが力を込めた。
何かと思いクリスを見ると、また悲しそうな笑顔だった。
やはりそんなクリスに違和感を感じながら、手を握り返す。


「邪魔しちゃってごめんね!折角だから、教会の前で3人で撮ろうよ!2人だけのも撮ってあげる!」

「ありがとう。私のはSNSにあげないでもらえると嬉しいな。」

「あ、そうだね!色々と大変だもんね!」

「クリスとピチットくんの二人のも撮って、それをあげるのは?ね、クリス?」

「ああ…そうだね、それが良いと思う。」


3人で撮り、私とクリスの写真も撮ってもらい、最後に私がクリスとピチットくんの2人を撮った。
そしてすぐに携帯をいじり始めたピチットくんは先ほど撮った写真を全て加工してクリスにメッセージで送ってくれたらしい。
そしてSNSにアップし始めた。
手馴れた様子で写真と文章を打ち込む。
そして満足したのか彼は次の絵になりそうな場所目指して行ってしまった。


「クリス、今シーズンが終わったらの続きって何??」

「うん、また後で言うよ…」


またはぐらかされ、買い物の続きに向かってしまった。
日が沈むと、流石に冷えてくるので、一度荷物を置きに戻りディナーに行こうと話していた。
ホテルに着き、部屋に荷物を置いたところでクリスの携帯が鳴った。


「あぁ、勇利?どうしたの?」


どうやら勝生選手からの電話らしい。
私は荷物を置き、ベットに腰掛けてクリスの様子を見ていた。


「え?今から??」


そう言って私の方を見た。
何かあったのか、クリスは困った顔をしていた。
そして、一度電話をかけ直すと言って切り、小さく溜息をついた。


「名前、勇利とヴィクトルが一緒に食事しないかって。他にも何人かいるみたいなんだけど…」

「そうなの?じゃあクリス行って来なよ、私はルームサービスでも食べてるよ。」

「え?名前はいかないの?」

「友達との集まりに恋人連れて行ったらハメ外せないでしょう?」


その方が楽しく話せるだろうと思い、気を使ったつもりだった。
いろんな国の選手との交流は年に何度もあるわけではない。それもプライベートな集まりなんて中々出来るものでもない。
あと、ずっとスケートで繋がってきた人達の中に自分は入る事は出来ないと思ってしまったのもあった。


「名前が行かないなら行かないよ」

「年に何度も会えるわけではないでしょ?私とはいつでも会えるから。折角だし、ね?」

「名前…」


クリスの背中を押しながらドアの方へ連れて行く。
そして、ドアの前で軽く頬にキスをして彼を送り出した。最後まで納得してないような顔をしていたけれど、クリスは私の頭を撫でて出て行った。


お腹は少し空いていたが、ルームサービスのメニューを見てもピンとくるものが無かったので、部屋にいると言ったが近くのスーパーまで買いに行くことにした。
ホテルからすぐなので、特に気にせずお金と携帯とカードキーだけ持って部屋を出た。


海外のスーパーはその国の特性があって面白いから好きだった。ついでに友人用のお菓子も買って帰ろうと辺りを見た。
夕食はサンドウィッチとサラダを買って、友人用の小分けになったお菓子も買った。
お菓子以外にも可愛い雑貨やキッチン小物などもつい買ってしまった。
そんな事をしていたら結構時間が過ぎていることに気がついた。
鞄から携帯を出して見るとクリスからの着信やメッセージが届いていた。
心配かけないようにすぐに電話をする。


「あ、クリス!?ごめんね!すぐ戻るね!」

「名前!?今どこ!?」

「近くのスーパー。買い物してたら時間経っちゃって…」

「迎えに行くから、そこから動かないで!」

「え!?いいよ!直ぐそこだし…」


言い切る前に電話が切れていた。
夕食は明日に備えて直ぐに終わったようで、クリスの着信は30分ほど前から続いていた。
これは勝手に動くとまたクリスを心配させてしまう。そう思い彼が来るのを待った。

ほんの数分で彼はやってきた。
しかも走ってきたのか髪が乱れていた。
アスリートだけあって呼吸は乱れていなかったが、髪や服装が乱れているのが稀なので、少し見惚れてしまった。


「なんで何も言わないの?心配するでしょ。」

「ごめんね…そんなに長居する予定じゃなかったんだけど…」

「電話も出ないし、何かあったんじゃないかって気が気じゃなかった…」

「ごめんね…」


クリスは私の手をとって歩き始めた。
ホテルとは違う方向だ。
クリスをこんなに心配させてしまうとは思ってもおらず、クリスにどんな声をかけていいかも分からず、ただ手を引かれながら歩いた。

波の音が聞こえてくる。
海に向かっているのだろう。
只々、無言で歩いている私達の沈黙を波が消してくれていた。
途中から街灯が少なくなり、程なく海が見えてきた。月の明かりが海に反射して道のようになっている。
クリスは砂浜の上で立ち止まった。


「名前…さっきは怒ったりしてごめん。」

「私こそ勝手な事してごめんね。」

「心配したよ。」

「クリスにあんなに怒られると思ってなくて。私も浮かれてた。ごめんね。」


クリスは私を抱き締め、安心したように息を吐いた。
暖かいクリスの体温と、少し甘くて爽やかな香りを体で受け止める。
外ではあまりこういう事をしないクリスが少し苦しいくらい抱き締めてくる。余程心配させてしまったのだと反省した。
暫く抱き合い、クリスが顔を上げて、そろそろ戻ろうと言った。
風が強くなってきた。
最後にもう一度二人で海を眺める。


「クリス、海が綺麗だね。」

「スイスでは海は見れないしね。」


綺麗な景色を二人で共有できる事が嬉しくて、クリスの手をまた握った。
それに応えるようにクリスも握り返してくれる。
またこんな風に二人で色々なところへ行き、思い出を作りたい。
時間の許す限り時間を共有したい。


「またこうやって二人で色んなところに行きたいね。」

「そうだね。」

「ねぇ、クリス…結婚しようか?…なんて」


異国の地にいると開放的になるからか、そんな言葉が思わずポロっと溢れるように出てしまった。
流石に重たいかと思い、最後は誤魔化してしまったが、二人でずっと一緒にいたい気持ちは本当だ。


「あーもう!」

「え??」


クリスは顔を押さえてその場にしゃがみ込んでしまった。
そして大きくため息を吐いて、私を見た。
やはり結婚は禁止ワードだったのだろうか…
不安に思いクリスの顔を覗くと、クリスの腕が後頭部に周りそのままクリスに唇を奪われてしまった。
唇同士がしっかりと隙間なく触れ合う。
ただそれだけのキスだった。


「人の気も知らないで…最初はヴィクトルと勇利に邪魔されて、次はピチット、今日のディナーもダメだったのに、最後は名前に邪魔されるなんて思わなかったよ…」

「どういうこと??」

「女性に先を越されるなんてこんな不名誉なこと無いね。本当はうんとロマンチックにやる予定だったのに。」


私の手を取りクリスが立ち上がる。
そしてコートのポケットから何かを取り出した。
そして私の手を取りゆっくりと指にリングをはめた。
それが何なのか分からないほどバカでは無いつもりだが、一瞬呆気にとられ何が起こっているのか分からなかった。
唖然としている私の薬指へとキスを落とす。


「名前…今シーズンが終わったら結婚しよう。」


返事より先に彼の胸に抱かれ、沢山のキスを受けた。
返事なんて必要なかった。



2017.5.3