彼はよくこのカフェに足を運ぶ様になった。
最初は会わない時間もあったが、その内私のシフトを把握してきたのか、私のいる時間には殆どいる様になった。
私の事をニコニコと見つめ、時間が来ると去っていく。
来る時間は大体夕方、又は朝早く。
未だに警戒の解けない私は彼には極力近づかない様に、他のバイトの人にお願いしながら彼を避けた。
ある日、随分お店が混み、更にはレジの金額が合わず、帰りが遅くなってしまった日があった。
他のスタッフは先に帰宅。マスターと二人で必死に仕事を終わらせた。
マスターは明日の仕込みがあるから、と気を使って私を先に帰してくれた。
スタッフ用の通用口から外へ出て、細い裏道から大きな通りを歩き始めた瞬間後ろから腕を掴まれた。


「っ!!」

「驚かせちゃったかな?俺だよ。」


誰かもわからぬ人に突然腕を掴まれ、恐ろしくて声も出せず、身体のみが反応した。
振り返るとそこにはヴィクトル・二キフォロフが立っていた。
安心はしていないが、顔がわかったことで少し落ち着いた。
しかし、何故彼が此処にいるのか。
今日はお店には来ていなかった。しかも閉店時間はとっくに過ぎている。


「どうしたんですか、こんな時間にこんな所で…」

「偶然通りかかったら君が出てきたから。夜道は危ないし送っていくよ。」


そんな偶然があるのだろうか。
そして何より私はこの男を信用していない。
それこそ家までついて来られた方が追々面倒なことになりそうだ。
しかし、彼は断ってそう簡単に引き下がる人間ではない。
どの様に言うか、そこがとても大切になる。


「今日はこの近くに住む友人の家に泊まるので、大丈夫ですよ。」

「そう…じゃあその友達の家まで送るよ」


そう言って彼は私の横を歩き始めた。
咄嗟に出た嘘だとバレないようにしなければ。
近くの適当なマンションの入り口まで行き、ここで大丈夫だと告げる。
彼はまた私の目を眺めて微笑んだ。


「じゃあね、おやすみ。」

「おやすみなさい。気をつけて。」


彼の後姿を見送り、見えなくなったところで大通りに戻りタクシーを拾って帰った。
なんだか嫌なものを見た気分だ。
早く寝て忘れてしまおう。


次の日もまた彼はカフェにやって来た。
今日は練習終わりなのか、夕方から。
そして私の仕事が終わると同時に彼はお店を出た。
そしてまた、裏口から出てきた私を呼び止める。


「やぁ!」

「っ…こんばんは…」

「仕事終わりでお腹減ってるだろ?一緒に食事でもどうかな?」

「あー…今日は疲れているので早く帰って休もうかと…」

「…ふふ」



彼は私の返答を聞いて小さく微笑んだ。
目は合っているのに、自分の中を弄られているような感覚に陥る。
その笑顔がどこか恐ろしくなって嫌な汗が出た。
彼が一歩距離を詰める。
頭では逃げなければと理解していても体が言うことを聞かなかった。


「そんな顔しないで。ほんの少し付き合ってくれるだけでいいんだから。」

彼はいつの間にか私の手を掴んでいた。
逃げられないとでも言うように少し痛みを感じるような強さで私の手を握る。


「あの…離してください。」

「離して欲しかったら初めてあった時みたいに振り解きなよ。」


この様に強く握られていては、振り解けないとわかっていて言っていると彼の笑顔を見て察した。なんてタチが悪い。
この状況を変えるには、彼を振り解く程の力をつけるか、この誘いを受けるかのどちらかだろう。
勿論私にそのような力は無いので、ここでYESと言うしか無い。


「…はぁ…わかりました。」

「本当!?そしたら美味しいレストランが近くにあるんだ!行こう!」


先ほどよりも弾んだ声をあげ、私の手を掴んだまま街を歩き始めた。
彼は長い脚を軽快に動かし、前へ進んでいく。
私はそれに引きづられるように重い足をなんとか動かした。

近いと言っていた通り、レストランへは程なくして到着した。
彼の事を気にしてか、店員は店の奥にある個室の様な所へ私達を通した。

彼はオススメな物をあれこれ話し、私にも何か食べたいものはないか、と聞く。
この時点で疲れ果てて何も考えたくないと思い、オススメを…と彼へ託した。
彼はオススメを頼んでくれた。勿論ワインも。運ばれて来た物は確かにどれも美味しそうで、仕事終わりなのもあり、随分と魅力的に見えた。


「食べよう、美味しいよ。」

「あ、はい…」


彼のことを警戒しながら、少しずつ口へ運ぶ。
ワインは飲み過ぎないようにすること。
隙を見せてはいけない。


「君はどうしてロシアにいるの?」

「え…」

「東洋の子は珍しいから。日本人かな?」

「日本人です…写真で見たこの街が綺麗だったから来ました。」


彼はその返答を聞くと興味深そうに私の目を覗く。
そして、ワインを一口飲む。


「じゃあここにずっといるの?」

「いつかは帰らないといけません。でもこの街はとても好きなのでもう少し居たいです。」

「そう。」


目を伏せながら彼はまた一口。彼はお酒のペースが早い。
私はそれに合わせないようにゆっくりと一口を含む。


「なら早めに食事に誘っておいてよかった。」

「え?」

「君をここから逃さずに済む。」

「何を言ってるんですか?」


そう言って机の上にあった手に大きな手が重なった。
顔を上げられずにその手を眺めて先程の言葉を少しずつ反芻していく。


「俺は君をロシアに留めたい。」

「貴方が私を引き留める理由がありません。」

「理由?この状況でそれが分からないほど君はお子様なのかな?」


口説かれているにしては随分張り詰めた空気だった。
重なった手がずっしりと重量を増す様に感じた。
触れる手の指がすっと私の手の甲を撫でていく。


「貴方はお客様で、お互いの事を殆ど何も知らない。それなのに私を引き留める理由がないと言う意味です。」

「寂しい事を言うね。これだけアプローチしてるのに。」

「ヴィクトル・ニキフォロフがアプローチすれば全ての女が落ちると思わない事ですね。」

「ふーん…じゃあ俺には興味ない?」

「申し訳ないですが。」


早くこの手を離して欲しかった。
個室とは言え誰が見ているかも分からない。
手を引いても彼の手がそれを許そうとしない。


「食事し辛いので離していただけますか?」

「ダメ。俺を見てくれないと嫌だ。」


嗚呼…あの時無理にでも振り解けばよかった。
後悔先に立たず、とはこの事だった。
騒げば人が来てくれるかもしれない。
しかし、その後どうするのか。
彼の事を警察に伝えるにしても、法に触れる事をしてない上に証拠もない。
掴まれた手からじわりじわりと伝わる熱の気持ち悪さがさらに気分を落とした。

取り敢えず、この場から逃げる為にどうすれば良いか。
上手く言いくるめてこの場をやり過ごす。
私が今出来ることはこれくらいだった。

大きく息を吐き、彼の目を見る。
黙っていれば本当に美しい男なのに。


「やっと俺のことを見てくれた。」

「早く離してください。」


彼を睨んだが、効果が無い。
何せ彼はそんな私を嬉しそうに目を細めて見ているからだ。


「ロシアに残って俺と一緒に居てくれるなら良いよ。」

「は…?」

「好きなんだ、君のことが」

「そ、んなの…私が物珍しかっただけでしょう…?」


彼は掴んでいた私の手を、今度は慈しむ様に両手で包みはじめた。
そして先程と打って変わって、真剣な眼差しで私を見ている。


「初めはそうだった。でも気付いたら目で追っていた…常連の人と話してたり、他のスタッフとのやりとりを見て、俺も君を笑わせたいって思ったんだ。」


彼は小さくため息を吐いて、目を伏せた。
握られた手をゆっくりと離された。
先程までの体温が消えて、テーブルのヒヤリとした冷たさを直に感じる。


「そう思っていたんだけど怖がらせてしまったみたいだね。ごめん。」


彼の悲しそうな表情に罪悪感が生まれる。
第一印象が悪すぎてこの人を誤解していたのかもしれない。
そして、この溢れる才能と関わることを恐れていただけかもしれない。
自分を好いてくれる人に対して、あまりに厳しく当たりすぎていた。

彼は、さぁ食べよう!とまた明るい雰囲気を作ろうと眉尻を下げながら笑っている。
体と心が合わさっていない、そんな顔をしていた。
その様子に胸の痛みはより強くなる。


「こちらこそごめんなさい…最初の印象を引き摺って失礼な態度を取っていました。」


彼は宝石のような瞳が溢れそうなほど目を見開く。
電球の光が灯り、更に輝きを増す。
そしてハッとしたように頬を片手で抑えた。
まるで少女の様に恥ずかしがるので思わず見入ってしまった。
この人もこの様に照れるのかと。

先程の重苦しい空気が嘘の様に柔らかくなる。
そこで一つ気づいた事があった。
そうか、この人は人を好きになる事があまり無いから距離感が掴めないのかと。
そして格好つけようとから回ってしまうのかと。
あの貼り付けた様な微笑みではなく、喜びを隠しきれない顔をしている。
その普段との差が意外で、なんだか笑えてきてしまった。
そしてふと、この人に言われたことを思い出した。
自分だって同じなのに、あんな事を言ったのかと少し悔しくなり、意地悪な事を言ってしまった。


「貴方に言われたことそのままお返しします。もっと沢山の顔を見せて欲しいです。」


そう言って伝えると、彼は何とも言えない、照れてる様な恥ずかしがってる様な悔しがってる様な顔をして私を見た。
その顔がまた面白くて、そして少しの優越感を沸かせ、思わず彼と目を合わせて笑ってしまった。
熱を持つ私達とは裏腹に、頼んだ食事は少し冷めていた。



2018.05.19 10000hit thanks