遂にこの日が来てしまった。
何とか予定が合わないように工面していたのだが、どうにか予定を合わせようとしてくる彼に私が折れた。一度会えば満足するだろうと思い、放課後彼の家に遊びに行く事にした。
一応手土産にお菓子を買い、指定された駅まで来た。学校から少し離れた駅で、私の家の少し手前の駅だった。
そこには帽子とメガネをした彼が立っていた。
心ばかりの変装に、気を使っている事が伝わった。
笑顔でこちらに手を振って、駆け寄ってきた彼は普段とは少し違った空気を纏っていた。
「よかった、来てくれた。」
「流石に人との約束は破らないよ」
「とても嬉しいよ。ありがとう。」
彼はまた嬉しそうに笑って、私の手を取り歩き出した。
突然の事に驚き、手を引こうとしたが、思いの外彼の力が強く、そのまま引っ張られる様に彼に連れて行かれた。
駅から程近い場所に彼の家があった。
オートロックのついた、綺麗なマンションだった。
オートロックのついたマンションはまだ少なく、彼への安全を考慮されて国から与えられたものなのであろう。
流石、国を背負っている人は違うなとその新しいマンションを眺めた。
「着いたよ。」
「お邪魔します…」
彼が鍵を開けたのは、最上階にある部屋だった。
玄関を見て、その広さに驚いた。
この段階で広いということは、中はもっと凄いのだろう。
玄関には他の人の靴が脱がれていなかった。
そして奥から人の気配もない。
嫌な予感がした。
「あ、この家は俺一人だからそんなにかしこまらなくて大丈夫だよ。」
そうか、中等教育の年齢ともなると親元を離れて一人暮らすことも出来るのか。
親がいるから変なことはしないだろうという私の淡い期待は早々に打ち砕かれた。
気を抜いてはいけない、と警戒が強くなる。
「そこ座って待ってて。」
案内されたリビングのソファを指定される。
部屋の中もやはり広く、どうも落ち着かない。
辺りを見回すと、家具やカーテン、壁紙など全てにおいてセンスのあるものだなと感じる。
そして、部屋の隅の棚にはトロフィーやメダル、賞状などが乱雑に詰め込まれていた。
他の選手が喉から手が出るほど欲しているものをあの様に雑に扱えるのもジュニア時代から負けなしが故なのだろう。
彼はこんな広い部屋に一人で住んでいて寂しくないのか。
そんな事を考えながら窓際をふと眺めると、スタンダードプードルが寝ていた。
余りにも可愛くて、そっと近づき眺める。
焦げ茶色の毛がふわふわとしていて、とても気持ちよさそうだった。
近づいても全く起きない。よく眠っている。
「可愛いでしょ?俺の相棒」
「大きいワンちゃん。よく寝てるね。」
「撫でてあげて。喜ぶから。」
彼はお茶とお菓子を運んできて、リビングのローテーブルに置いていた。
撫でる許可を貰ったので、茶色の毛に触れる。
暖かく、柔らかで、手入れも行き届いている。撫でても穏やかに眠っている。彼から愛されているんだなと感じる。
「可愛いね。」
「マッカチンと仲良くなれそう?」
「この子とはね。」
「俺とも仲良くしてね」
私の隣にしゃがみ込み、一緒に撫で始める。
窓から射す光で彼の長く美しい銀髪が輝いて見える。
穏やかで美しい空間だった。
その犬の名前はマッカチンと言うらしい。
暫く眠るマッカチンの話を聞いた。
食いしん坊で、よく眠る。普段は練習であまり一緒にいれないが、休みの日は一緒に公園に遊びに行く。
大切な家族だと言っていた。
彼はこうして見ていると思っていたより普通の人の様だ。
教室でされた事は今思い出しても腹立たしいが、
マッカチンを撫でる手や目はとても優しく穏やかだった。
「次は名前の事を教えて。家族はどんな人?兄弟は?」
「え?うーん…家族はそうだな…」
そして今度は私の家族の話をする。交代でお互いの話をした。
床は冷えるからとソファに座ってお茶をしながら他愛もない話をする。
彼のよく通る声が心地よく響く。
話しているとマッカチンが起きてきて、彼の膝元にやってきた。
「おはよう、マッカチン。」
「はじめまして。」
マッカチンは私の手の匂いを嗅いで、ぺろっと手を舐めた。
そして撫でてあげると気持ちよさそうに目を細めた。
「いいなーマッカチンは。俺も撫でてもらいたいなー」
「撫でてくれる人なんて沢山居るでしょう?」
「名前に撫でてもらいたいなー」
「…なんで?」
「…わからない?」
マッカチンを撫でていた手を上から掴まれる。
そのまま彼が私の手に頬を寄せた。
滑らかな肌と温もりが手からじわじわと伝わってくる。
突然の事に呆然としていたら、私の手をさらに強く押し付ける。
そして私をアクアマリンの様な美しい瞳で見つめ、口角をあげる。
「日直も偶然だと思った?」
「…え?」
「人の事はよく見てるのに自分の事は鈍感なんだね。」
そのまま滑らす様に頬にあった手を口元へ運び、掌にキスを落とす。
柔らかな感触に驚き手を思いっきり引くが、彼の手はそれを許してくれなかった。
掌の次は手首に。
「掌にキスをする意味知ってる?」
「は、離して…」
「懇願のキスだよ。」
途端に怖くなった。油断していた。
彼は尚も手首へ口付けを続けている。
彼が得体の知れない物に感じ、寒気がする。
「離してっ!」
強く言うと彼はすっと手を離してくれた。
そして私を見据える。
縛られた様に動けなくなってしまい、見つめ合ったまま少しの時が過ぎた。
「何を懇願しているか、わかってくれたかな?」
「わかった。でも気持ちには答えられない。」
「何故?」
目の色は澄んでいるのに、瞳に宿す光はどこか冷たかった。
逃げられないよ、とでも言われている様だった。
何故か目を反らせず、逃げようにも逃げられない。
「私は平和に暮らしたいから。」
「…君は可笑しな事を言うね。君の平和は俺の掌の中にあるけど。」
「脅しで付き合って楽しいの?」
「名前が手に入るなら何でもいい。」
「気持ちも無いのに…」
罪悪感が込み上げてくる。私は悪く無いのに。
彼は少し微笑んで、私の頬に手を添える。
恐怖で肩が揺れてしまった。
「今、申し訳ないって思ったでしょ?それは俺の事嫌いじゃないって事だね。嫌いだったら嫌悪しか生まれない。」
慈しむ様に私に微笑み、私の頬を撫でる。
彼の瞳から目が離せない。
その青に吸い込まれていく様な錯覚に陥る。
この不思議な感覚は何だろうか。
彼を拒否する事が出来なくなってしまった。
彼の顔がとても近くにある。
「早く俺の事好きになるおまじない」
彼の唇が私の唇に触れている。
頭では逃げろと言っているのに、体が動かなかった。
頬と後頭部に手を添えられて、優しく触れる彼の唇。そしてふわりと肌を擽る銀色の髪。
キラキラと光る睫毛が視界に入る。
恐らく数秒の事だが、余りに長く触れていた様に感じる。
「もう日が暮れるね、危なくなる前に帰った方がいい。また遊ぼう。」
「…こんな事されたら、もう貴方には会えない。」
「そう。なら帰してあげられないな。」
「離して…」
「また遊んでくれるって約束してくれるなら」
頭が正常に働かない。もう上手く逃げる選択肢は残ってない様に思えた。
手錠をかけられた様だった。
「わかった。約束する。」
「ありがとう。これからもずっと仲良くしていようね。」
彼は満面の笑みを私に向ける。
そして私を玄関までエスコートしてくれた。
送ると言う彼に駅までの道は覚えているから大丈夫だ、と断る。
そして逃げる様にドアの外に出た。
外の空気に触れ、正常に戻っていく様に感じた。
「あ、名前。次までの宿題。手首へのキスの意味をちゃんと調べておいてね。」
唇に人差し指を当て、美しい笑顔を浮かべる。
男性とは思えない様な彼がドアの近くに立っている。
彼とその家が昔見た童話の世界の魔女と深い闇の森みたいだった。
2017.2.21