彼の隣は偶然の重なりだった。
今となっては神様からのプレゼントであるように思う。
私のようなごく普通の人間が、何故彼の隣にいることを許されているのか、20年以上経つが解らない。
彼とはヴィクトル・ニキフォロフ。
世界中で彼の事を全く知らない、と言う人は少ないのではないだろうか。
フィギュアスケートで数々の世界大会を制し、オリンピックなどでも華々しい成績を残している。
ロシアの宝、リビングレジェンド、皇帝、などなど…
スーパーアスリート様である。
フィギュアスケートの成績でも十分同じ人類なのかと疑いたくなるレベルだが、彼こそ神に愛されていいるのだろう、容姿もそれはそれは美しい男なのだ。
銀色に輝く髪、透けるような白い肌、綺麗に通った鼻筋、宝石のようなアクアブルーの瞳、すらりと高い背と長い手足。
私の至らない語彙力で表現するとこのような感じだ。
そのように美しく、しなやかで、人間国宝のような存在が何故か、何故だか、私の幼馴染である。
家が隣で、親同士も仲がいい。
典型的な幼馴染である。
お前は産まれた瞬間に全ての運をそこに使ったなと、様々な友人から言われる。
確かに、この様な人に普通に接せられるのは、同じアスリート、またはスケートに関わる人、だろう。
私はスケートのセンスが全くなかった。
彼とは基本一般教育までは同じ学校だった。
登校は一緒だったが、下校は別々だった。
彼はどんどん頭角を現し、学校に来る機会も減り、授業が終わったら急いでリンクに向かっていた。
中等教育に上る頃には彼はサンクトペテルブルクで本格的にスケートをやる為にフェルツマンコーチの家に住む事になったのだった。
そこで彼とは離れ離れになった。
それからしばらく彼とは顔を会わせることがなかった。
これと言って秀でたものがない私は高等教育を受けるために必死で勉強をした。
そして無事に唯一合格した大学に通うためにサンクトペテルブルクに出てきて、必死の就活の末、やっと受かったサンクトペテルブルクにある会社に就職した。
私はよくいる普通のOLなのだ。
そして普通のOLは今日も仕事に行く。
目覚まし時計が鳴り響く。
あと5分…そんな気持ちを押さえ込み体を起こそうとした。
が、腰に巻きつく腕により身動きが取れなかった。
「んっ…」
自室があるにも関わらず私のベッドに入り、私と共に寝る男がいる。しかも全裸。恋人でもない。
この男、ヴィクトル・ニキフォロフは何故か私の家にいる。
大学に通うに当たり、一人暮らしを始めようと家を借りたのだが…
まぁ、この話はまたいずれ…
腰に巻きついた腕を外して起き上がり、目覚まし時計を止める。
最初は驚きのあまり、叫んでしまい、お隣の人に多大な迷惑をかけた。
今では慣れたもので、起こさないように自分だけ起き上がる術を身につけた。
慣れとは怖いものだ。
よく眠る男を横目ににテキパキと身支度を済ませ、キッチンに向かう。
トーストとスープ、コーヒーと簡単に朝食をとっていると、家を出る15分前だった。
食器を片付け、歯を磨き、コートを羽織っていた時だった。
バタバタと足音が聞こえる。
「名前ーなんで起こしてくれないの!!」
「ヴィーチャ、いい大人は自分で起きるべきじゃない?」
「酷いよ!何の為に一緒に寝てると思ってるの!?」
「ルームメイトの部屋に無断で入ってきて何言ってるの…朝の強いファンの子かリンクメイトに頼んでモーニングコールでもして貰えばいいじゃない。」
「わぁお…名前ってば20年以上も付き合いのある俺を見捨てるんだね…」
「はいはい、私仕事行くから。フェルツマンコーチに迷惑かけないようにね。」
彼がいると賑やかになる。
私はそんな彼に背を向けて、机の横で眠っていたマッカチンの頭を撫でてドアに手をかけた。
「ねぇ、俺にもそれやってよ」
いつの間にか距離を詰められて、ドアに手をついて抑えながらこちらを覗き込んできた。
「はいはい、寝癖くらいは直しなさいね」
腕を上げて頭をぐしゃぐしゃと撫でる。
サラサラと銀色の意図が指に絡むみたいだった。
細くて、滑らかな髪についた寝癖をおさえた。
「なんか違う…」
「マッカチンみたいに可愛くはないからなー」
「名前ひどい!」
「ほら、遅刻しちゃうからそこどいて。ヴィーチャも早く準備しないと」
彼の腕を退かそうとした時、腕を引かれバランスを崩した。
彼の腕の中にいる事を頭で理解するのに時間がかかった。
そして頬に柔らかな温もりを感じた。
「いってらっしゃい」
「…いってきます」
「はい、名前もして?」
「え?」
「はい」
背の高い彼が腰をかがめて頬を突き出してくる。
女性同士ではよくこの様な挨拶をするが、恋人ではなく、ただの幼馴染がこの様に挨拶するか…
ちなみに、2人で暮らし始めてからこんな事を言われたのは初めてだ。
彼は一度言い始めたら聞かないので、おそらく頬にキスしないと家を出させてもらえないだろう。
いつも出勤は余裕を持ってする様にしているが、なんだかんだ時間も過ぎている。
正直、世界のヴィクトル・ニキフォロフにこの様な事をして1日悪い事など起きずに無事に帰れるか不安になる。
誰も見ていないが、神様が見ているのでどこかでバランスを取るために悪いことでも起こるのではないか、と。
彼はまだかと視線をこちらによこす。
そろそろ家を出ないとダメな時間だ。
覚悟を決めて彼の白い透き通る様な頬に唇を当てた。
彼はニコッと笑ってドアを開けてくれた。
「これから毎朝やってね」
はっきり聞こえたが、風の音で聞こえなかったふりをしよう。
彼の気まぐれに付き合うとろくな事がない。
心臓がもたないのでこれっきりにしたい。
明日からの上手なかわし方を考えながら早足で会社へ向かった。
2017.1.20