それは私が休みの日。
彼は朝から眠いだの俺も休むだの何だの言いながら練習に向かった。
最近、少し元気のない彼を心配しつつ送り出した。
私はというと、久しぶりに一人なので、朝からどこかに出かけようとヴィーチャが出かけて暫くしてから家を出た。
買い物はいつもヴィーチャに連れ回され、自分の趣味は一切無視で、彼のセンスで私にあらゆる物を与えられる。
食事は彼のオススメのレストランへ、彼の食べたいものを気分で頼まれる。
映画は彼の見たいものを。
自分の好きな事を忘れてしまいそうになる。
なので、彼のいない今日は自分の好きな事をすると決めていた。
「まずは買い物、それに久しぶりにファーストフードでも食べちゃおう!後は映画見て、公園散歩して…」
あれこれ考えていると、携帯に着信があった。
誰だ、と思い画面を見ると、そこにはヴィーチャと言う文字が見えた。
何やら嫌な予感がする。
私は画面を眺めたまま、どうするか考えていた。
考えている間に振動が収まってしまった。
あ、と思ったが、せっかくのんびりと自分の時間を過ごせるのだから、気づかなかった振りをしようと考え、携帯をバッグにしまった。
そのままショッピングモールへ向かう。
久しぶりに自分の好きな物を買える。
洋服、靴、ピアス、小物類、メイク道具…
ヴィーチャが買い与えてくれるのは有難いとは思いつつ、本当は買いたかったものが沢山あった。
幸い、ヴィーチャが買ってくれていたのでお金を使う事がなく、ボーナスから何から殆ど残っていた。
「あ、これ…!欲しかったやつ!ヴィーチャに貰ったあの服にも合いそうだし…」
「名前?」
「え…?あ!わぁ!久しぶり!」
好きなブランドで買い物をしていたら、大学時代の友人に会った。
思わず声が大きくなってしまう。
彼女は学生時代よりも大人びていて、美しくなっていた。
「名前、なんだか全然違う人みたいで、声かけていいか悩んじゃったわよ。」
「そう?変わってる私??」
「服もメイクも洗練された感じ。なんか凄く素敵になった!」
友人の言葉にハッとした。
彼と恋人関係になってから、服など大量に買い与えられていて、それをよく着ていたせいか、と。
自分の中に彼を沢山感じて、何だか恥ずかしくなってしまった。
口をもごつかせて、片手で熱を持った顔を隠し、何と言うか悩んでいると、友人はニヤッと笑って私を見た。
「あぁ、彼氏の趣味ね!」
「えっ、あっ、いや…その…」
「貴女の事、これだけ変えられるんだから、彼は名前の事が大好きなのね。」
ふふっと笑って彼女は私の肩を叩く。
恥ずかしくなり、また何も言えなくなってしまった。
彼女はサロンを予約していると、直ぐに行ってしまった。
私は先程の彼女の言葉に気恥ずかしさを残したまま、次のお店に向かった。
彼は私の事が大好き…か、と一人で照れていると、また着信を知らせるバイブレーションが動き出す。
相手は予想通りヴィーチャ。
先程は自分の時間をと思い無視してしまったが、友人の言葉もあり、今度は出る事にした。
「はい?」
『あ!名前!?今どこ!?』
「今はショッピングモールで買い物中」
『なんでさっき電話出てくれなかったの!俺心配で!!』
「ごめんね、友達に会って話してたら気付かなくて。」
『…男じゃないよね』
「違うよ」
『練習終わったから迎えに行く。あの大きいショッピングモールでしょ?動かないでね!』
一人の時間は直ぐに終わりを迎えてしまった。
私は、ツーツーと通話の切れたスマホを持ちながら少し残念な気持ちでいた。
彼がリンクからここまで来るのに恐らく車で30分程度であろう。
それまで残りわずかとなった一人の時間を過ごす事にした。
程無くしてもう一度電話があり、何処にいるかと聞かれ、見ていた店名を答えた。
そして、サングラスと帽子で変装している彼がやってきた。
そして、その表情は少し曇っている。
「何買ったの?」
「洋服とピアスかな」
「俺が買ったのに…」
「偶には自分が可愛いなって思うもの買いたくて…」
「俺の選んだものは可愛くないって事?」
恐らく電話に出なかったあたりから彼は拗ねていた。
更に私が自分が可愛いと思ったものを買いたいと言ってしまったものだから、更に傷つけてしまったに違いない。
面倒な事になってしまった。
「そんな訳ないでしょ。ヴィーチャの選んでくれた物はどれも素敵だよ。私が、私のお金で、いいなって思った物を買うのがストレス発散になるんだよ」
「…じゃあ今までの買い物は俺に付き合わされてただけって事?」
「違うよ、ヴィーチャの選んでくれるものはどれも新鮮で、買い物も楽しかったよ!」
「…名前…」
そう言って私に抱きつこうとして来る。
公共の場で彼と接近すると、パパラッチが何処にいるか分からないから気を付けろとフェルツマンコーチに言われている。
背の高い彼を手で制する。
すると、彼の顔が見る見る間に曇って行く。
「名前…もう俺の事…」
これはマズイ。普段は自信に溢れている彼は何故か私の事になると些細な事で落ち込んだり、面倒臭かったりする。
一度家に帰って落ち着かせるしかない。
私はヴィーチャの手を取り、一度ここから離れようと説得する。
何とか手を引いて車の方まで連れて行く。
しかし、この調子だと彼に運転を任せるのが不安だったので、私が運転する事にした。
彼はマンションの駐車場に着く頃には、泣きそうな顔になっていた。
私も焦ってしまい、兎に角家に入ろうと早足になる。
部屋の中に入り、彼をソファーに座らせると、目は涙で濡れていた。
落ち着かせようと何か飲み物を取りに行こうとしたら、彼に手首を掴まれ動けなくなった。
「ヴィーチャ…ごめんね…」
「それは何についてのごめん?俺の事もう好きじゃないごめん?それとも俺の事拒否するごめん?」
「どっちも違うよ…」
「やっぱり別れたいの!?」
これは…何とも面倒な事になってしまった。
落ち着かせるにはどうすればいいか…
彼は俯いたまま、私の手首をしっかり握っている。
私が取り繕おうとすると、彼を余計に刺激してしまう。
「不安にさせてしまってごめんね、って意味のごめんだよ。」
そのまましゃがみ込み、ソファーに座っている彼を下から覗き込む。
先程まではまだ溢れていなかった涙がポタポタと彼の膝を濡らした。
付き合う際に、彼を泣かせてしまった事があったが、あの時とは違う。
罪悪感が押し寄せ、普段とは違う様子に驚いた。
彼はこんな事で泣くような人ではない。
「ヴィーチャ、大丈夫だよ。好きだよ。」
「…うん…」
「何が悲しかったか教えて?」
「名前が悪いんじゃないんだ…俺のせいなんだ…いつもは許せる事が悲しいんだ。なんでだろう。」
「ヴィーチャ、疲れてるんじゃないかな?今シーズン終わったばかりなのに、もう新しい振り付け始めてるし…」
「やってないと不安なんだ…」
そう言って手を引かれ、腕の中に閉じ込められる。
いつもは自信もあって、華やかで、そんなヴィーチャがここまで不安になっている…
スランプなのだろうか。精神的なものが大きくてスケート選手じゃない私には到底理解できなかった。
私が彼にしてあげられる事は何だろうか。
「ヴィーチャ、私が出来ることある?」
「ずっと側にいてほしい。」
「わかった。私、明日から仕事しばらく休むね!」
「え…でも…」
「今は仕事忙しくないし、休みも残ってるし!ヴィーチャが練習してるところ久し振りに見たいな。」
そう言うと、彼は嬉しそうに私の事を眺めて、ぎゅっと腕の力を強めた。
そんな彼を抱きしめ返して、背中を軽く叩きながら宥める。
初めて見る彼の姿に、私の心にも何か小さな黒い滲みが広がっていく感覚があった。
2018.05.23