彼と住むようになった日の事を今でも覚えている。
忘れもしない、8月頭の事だ。
試験も無事終わり、サンクトペテルブルクに住むために家を探しに行かなければならなかった。
父と母は用事があり、1人で探しに行くことになった。
父と母の出す条件に合う家を探すのは中々骨が折れた。
歩き疲れて、カフェに入りアイスコーヒーを飲む。サンクトペテルブルクにしては珍しく、少し汗ばむ陽気だ。
カフェでぼんやりと不動産屋さんを調べていた。
どこか一つは妥協していいか両親へメールをする。
今日は見つからないかと、少し諦め気味で帰りの電車の事を考えた。
「名前??」
「え?」
名前を呼ばれ、顔を上げればそこには幼馴染のヴィクトル・ニキフォロフが立っていた。
以前から伸ばしていた髪がまた長くなり、背も高くなっている。
より美しくなっていたが、テレビで活躍を見ていたので彼で間違いなかった。
中等教育に上がるときにスケートに専念するため、サンクトペテルブルクへ旅立って以来、3年ぶりに彼にあったのだ。
「いつこっちへ来たの!?久しぶりだね!今日はどうしたの??観光かな??言ってくれたら案内したのに!」
「あ、うん…」
捲し立てられ、呆然としてしまう。
久しぶりに再会したので、どうしていいかわからなかった。
彼は持っていたコーヒーをテーブルに置き、向かいにあった椅子に腰掛け、私の手を取った。
「3年ぶりだね、会いたかった。」
「そうだね、テレビで活躍見てたよ。凄いね。」
「ありがとう、俺のこと見ててくれて。それにしても名前がこんなに綺麗になってるなんて驚いたよ。」
「こっちでお世辞も学べたのね、ありがと」
「本心だよ」
そう言って彼はニコニコ笑っていた。
背格好や声は大人になってしまったのに、笑顔や性格は変わらず、優しいままだ。
そんな彼の様子に少し安心して、つられて笑ってしまった。
「それにしてもどうしたんだい?急にこっちに来て。」
「家を探してるの、大学こっちになったから」
「…え?」
「一人暮らしをしながら大学に通うつもりなの。今日はパーパもマーマも用事で来れなくて…一人で色々と見て、疲れたから休憩してたの」
「なんで…」
「え??」
「なんでそんな大事なこと言わないんだ!!」
店に声が響く。
彼にしては珍しく、大きな声だった。
私は驚き、美しい顔を歪めた幼馴染を見ることしかできなかった。
「そういう大事な事、なんで連絡しないんだ?」
先ほどより落ち着いた声でもう一度言われた。
相変わらず眉間に皺がよっている。
こんな彼を見たことが無かったので、どうしていいかわからずに、テーブルに目を伏せてしまった。
「あの、ヴィーチャごめんね…スケート忙しいだろうから、あまり連絡はしない方がいいかなって…」
「なんだいそれ?俺はそんなに器が小さく見える?」
「そうじゃなくて、私が気にしてるだけ」
「…昔からそうだ。名前の事はあまり教えてもらえなかった。」
「そんな事…」
「…電話貸して…」
彼は私の携帯電話を奪い、電話をかけ始めた。
私が驚いていると、電話がつながった様で彼が話し始めた。
どこにかけたのか親しそうに話している。
「お久しぶりです!ヴィクトルです。今大丈夫ですか??ええ、そうなんです。偶然会って。今は僕もこっちのリンクで活動してて。ええ、はい。ありがとうございます。」
私はその様子を唯々眺めていた。
何故そんなに怒っているのか?
誰に電話しているのか?
疲れた頭に、追い打ちをかける様に起こっているこの事態は何なのか。
「はい、聞きました。それで、提案なんですが、僕も丁度新居を探していて。はい。そうなんですよ。新しい人も沢山来ているので。そろそろ出ようかと思ってたので。はい、そうですね。」
彼の話を聞いていて、驚く事ばかりだった。
彼はフェルツマンコーチの家を出るつもりらしい。
「何より心配じゃないですか?はい、そうですよね…僕もそう思って…その方が安心だし、いい家に住めるし、家賃も安く上がると思うんですよね。はい。僕は大丈夫です!任せてください!はい、ありがとうございます!帰った時にまた伺いますね!ではまた!」
そう言って電話を切った彼は私に携帯を返してくれた。
そして、話疲れたのかコーヒーを飲んでいる。
そして、カップを机に置き、私が机に開いていた、父と母の出した条件を眺めていた。
「あの、ヴィーチャ?」
「あ、おじさんの許可は貰ったよ?」
「え?」
「え?って2人で暮らす許可貰ったよ」
何を言っているのか、一瞬わからなかった。
2人で住む?ヴィクトル・ニキフォロフと?
私は彼をまじまじと見てしまった。
それは無理だ。
「いや、無理!そんなの無理!」
「何故?ずっと一緒に過ごしてきたじゃないか」
「いや!そうじゃなくて!パーパも何考えてんの!?年頃の娘を男と住まわすって何!?」
「大丈夫だよ、昔はよく一緒にお風呂も入ったし、一緒に寝たし、何するにも一緒だったじゃないか。」
「いつの話してるの!?」
あ、ここ良さそう。なんて彼はスマホをいじりながら物件を探している様だった。
もう聞いていない。
私の意見はまるで無視。
昔からこうと決めたら、私の話なんて聞いてくれないのだ。
「ほら、早くそれ飲んで!この家見に行こう!」
「は!?」
「ほら行こう!」
そうして、あれよあれよと私たちの住む家は決まった。
その日のうちにヴィクトルが敷金礼金その他諸々を支払い、ハウスクリーニングを頼み、更には2人分の家具まで買い揃えてしまった。
日が沈む頃には、私はヘトヘトになりながらとも帰りの電車に乗るためヴィクトルと共に駅へ向かった。
「じゃあ、引っ越すときは連絡してね」
「うん…わかった。」
「あ、そうだこれ」
そう言って彼は私の手に鍵を握らせ、両手でその手を包んだ。
そして耳元に顔を近づけて来た。
「逃げたりしたら唯じゃおかないからね」
そう言って私の手を離し、またね、と言って去っていった。
3年会わなかった幼馴染とまたこうして近い距離で過ごす事になった。
最後の脅しに何も言えずに、その日は帰路に着いた。
彼との暮らしを案じながら。
2017.1.20