家に着くと、電気は点いているのにやけに静かだった。
出迎えてくれたのはマッカチンだけで、彼はリビングにはいなかった。
恐らく部屋にいるのだろう、人の居る気配だけはあった。
ソファにコートと鞄を置きながら、同僚との3つの約束を一つずつ頭に浮かべる。
彼に逃げ出した事を謝る事。さっきの女の人が誰かきちんと確認する事。自分の気持ちを伝える事。
再認識すると途端に怖くなった。
謝る事は出来ても、あの女の人は誰なのか、自分の気持ちを伝えても大丈夫なのか…
もう手遅れなのではないか…
そう思ったら動けなくなってしまった。
動かない私を不思議に思ったのか、マッカチンが私の手を舐めた。
勇気付けられている気がして、マッカチンの頭を撫でた。
そうだ、どちらにせよ今の状態ではいられない。
彼ときちんと向き合わなければ。
深呼吸して、彼の部屋の前に立つ。
小さくノックをして、彼の様子を伺った。
「名前?」
「ごめん、ヴィーチャ…今大丈夫?」
「あ…うん…入って。」
彼はドアから顔を出さずに、部屋の中で入室を許可した。
ドアノブに手をかける。心臓が早い。
ドアを開けると、彼はベッドの上に座っていた。
「ごめんね、急に…」
「あぁ…大丈夫だよ。」
俯いている彼と目が合わない。少し悲しげな顔をしていた。
私も彼と目を合わせられず、ベッドの近くまで行き、彼の髪を眺めていた。
「ヴィーチャ…今日は朝から避けたり、さっきも逃げてしまってごめんなさい。」
「いや、無理もないよ。それなりの事を俺はしたから。」
「違うの…ヴィーチャが怖かったんじゃないの…私が自分の気持ちと向き合うのが怖かっただけなの。」
そう言うと、彼は顔を上げて私の顔を覗き込んだ。
不安そうな顔はここ数年見ていなかった。
過去に一度だけ、サンクトペテルブルクに発つ日の朝に私に向けた顔と同じだった。
「ヴィーチャが女の人と歩いてて、凄く悲しかったの…そんな風に感じる資格は私には無いのに。ヴィーチャ、あの赤髪の綺麗な女の人は新しい恋人さん?」
「っ違うよ!あれはリンクメイトがふざけて…俺が今日の練習で失敗ばかりするから、皆でご飯を食べに行こうって…あの後ろに他のメンバーも居たんだ…」
彼の瞳が揺れる。信じて、と宝石のような目がこちらを見ていた。
現に彼は私よりも早く家に居た。
本当の事だったのだろう。
「そっか…よかった…」
「…え??」
「私ね、ヴィーチャの事は意識してはいけないと勝手に思ってて、自分の気持ちに蓋をしてたみたい。」
彼の手を取り、しっかりと握った。
そして彼の目を見る。
心臓が痛いくらいだ。今までこんな風になった事がなくて、言葉が中々出てこない。
彼は私の言葉を待ってくれている。
伝えなければ。
「ヴィーチャの気持ちに気付けずにごめんね。私もヴィーチャが好き。」
そう伝えた瞬間に、彼に腰を引き寄せられた。
座っていた彼が私の腹部に顔を埋めて、私の腰を強く抱いている。
思わず、彼の頭を撫でてしまった。
「ヴィーチャ?」
「待って…今はこのままで居させて…」
少し鼻声の彼の声が聞こえる。泣いているのか、鼻をすする音もする。
彼をこんな風に不安にさせてしまっていた事を反省した。
しばらくそのまま、彼が落ち着くまで彼の頭を撫でていた。
「名前…」
顔を上げた彼と目が合う。
まだ少し赤い目を見て、微笑んでしまう。
こんな彼を見るのが久し振りで、少し懐かしい。
「待たせてごめんね、ヴィーチャ」
「名前が好き。ずっと一緒居て欲しい。」
彼の腕が一度私の腰を離す。
そして立ち上がった彼が今度は私の頭を抱き寄せる。
彼の胸に頭を預けると彼の匂いがした。
彼が長年使っている香水の香りと、彼自身の陽だまりのような香り。
今まで気付けずにいた、温もりを今は感じる。
彼の背に腕を回すと、更に力を込められきつく抱きしめられた。
「やっと俺のものになってくれた。もう離したくない。」
散々抱き着かれたり、頬にキスされていたのに、恋人同士になったとわかった瞬間に、物凄く恥ずかしいものに変わってしまった。
私が反応しないのが気になったのか、彼が一度腕の力を緩めて、私の顔を覗き込む。
嬉しい様な恥ずかしい様な、しかも恥ずかしさで顔に熱が集まる。なんとも言えない顔を治す事ができず、顔を見えない様に背けていた。
それが面白くなかったのか、彼は私の両頬頬を掴み無理矢理自分の方へ向けた。
「…こんな可愛い顔今まで見せてもらってないな。」
「ヴィーチャ、離して…」
「ダメ。もっと良く見せて。」
彼と視線が交わる。目を合わせているのすら恥ずかしくて、思わず目を閉じた。
小さく笑う声がしたと思ったら、唇に暖かいものが触れる。
驚いて目を開けると、彼が笑っていた。
「なっ…何して…」
「名前が可愛くてつい。」
初めてではないのに、今までのどの瞬間よりも恥ずかしかった。
掴まれたままの頬が益々熱くなっていく。
このまま溶けるのではないかと思った。
その後も暫く、彼からのキスが降ってきた。
耐えきれずやっとの思いで彼の腕から抜け出し、もう眠る準備をすると逃げる様にバスルームへ向かった。
シャワーを浴びて、髪を乾かしてから部屋へ戻る。
さも当然の様に、彼が私のベッドへ入っていた。
そしてニコニコと微笑みながら、布団を上げて此処だよ、と言うように自分の横を叩く。
恋人同士になったのに拒否する訳にもいかず、恥ずかしさと少しの悔しさを感じながらベッドへ入る。
そのまま体に腕が巻き付き、逃げられなくなった。
今までも彼は私のベッドへ入ってきていたが、それは私が寝た後に勝手に入ってきていたので、眠れはしたが…
この状態で眠れというのは中々難しかった。
「名前緊張してる?」
「い、今までとは違うから…」
「心臓が速いね。俺の事意識してくれてて嬉しい。ほら俺もドキドキしてる。」
そう言って彼の胸に顔を押し付けられる。
確かに速い。顔を上げて彼を見ると頬に赤みが差していた。
「これじゃあ寝られないよ」
「その通りだね。でも本当に幸せなんだ。だから今日だけはずっと離れずにそばにいて。」
そう言ってまた抱きしめられた。
眠れないので、2人で懐かしい話をした。
あの時どう思っていたか、あの時はこうだったとか。答え合わせするみたいに。
次第に緊張も解れ、昨晩も眠っていない影響で、少しずつ心地よい眠気がやって来る。
目を閉じる瞬間まで彼がいるのも幸せだと感じて眠りについた。
2017.2.8