夜の底
彼が仮眠室でしばらく休息をとった後だった。クレンメが待機している部屋の扉を開き、ヴルカは驚きに目を見開く。
散らばったファイル、いくらか曲がった書類、倒れた椅子。誰かが荒らしでもしたような様子が、まず目に入った。
「……クレンメ先生?」
物盗りにでも入られたのかと、ヴルカの背に一瞬の緊張がはしる。
しかしよく見てみれば荒れているのはただ一箇所で、ヴルカのデスクはもちろん、ほとんどのデスクには変わりが無かった。荒れているのは――クレンメのデスク、ただひとつだ。
「クレンメ先生?」
もう一度、慎重に声をかける。何が起こったのか判断がつかなかった。まずはデスクの側に寄ろうとしたところで、ヴルカの耳が小さな息遣いを捉えた。
デスクの陰を覗き込む。昼間はきっちりとまとめられていた、緑の髪が見えた。顔を伏せ、力が抜けたように座り込んでいる。
「! 先生、」
咄嗟に駆け寄り、しゃがみこむ。伏せられたクレンメの表情は、髪に隠れてうかがうことができない。
ヴルカは髪の向こうへ目を合わせようとしながら、クレンメへ声をかけた。
「先生、何があったんですか」
体調が悪いようなら、今日は私一人で大丈夫です。
そう話そうとした口からは、しかし言葉は出なかった。
クレンメが顔を上げる。髪は乱れ、瞳がひどく揺れているのが見えた。憔悴しているような、それとも何かにひどく怯えているような様子だった。
「ヴルカ、」
は、と細い音が聞こえる。息を吐く間隔はあまりに短く、視線は揺れておぼつかない。
「はい、ヴルカです。……大丈夫ですか」
ゆっくりと、できるだけ柔らかに。ヴルカは声をかけながら、彼女に何があったのか全く見当がつかずに内心唇を噛んだ。
知らないのだ、何も。背を追ってきて、それだけで彼女のことを知った気でいた。口の中に、苦い味が広がった気がした。
どうしたら、落ち着いてくれるのか。どう声をかければ、彼女は安心してくれるのか。
正解は見つからない。
「先生、大丈夫です。私が……僕が、ここにいますから。貴女が落ち着くまで、ずっと」
後で怒られるかもしれないな。
そう思いながらクレンメの背へ両の手を伸ばし、抱きしめる。
不安な時、悲しい時、ヴルカの縁者や親しい友人たちは、こうして抱きしめてくれる人が多かった。今のヴルカにとっては、これが最適解だった。
「ヴルカ、」
「はい、ヴルカです。しばらく、このままでいます。……すみません」
できるだけ早く、彼女が安心を得られればいいと願う。
時計の針の音が、ヴルカにはやけに遠く聞こえた。
かけのさんのイラストから