人魚姫にはなれない
子どもたちの夢を侵し、時に現実すらも侵す病『ナイトメア』。それを治療する施設――獏病院を退院して、かなりの月日が経つ。
ニコラインは親元を離れ、海辺の街で暮らしていた。白を中心とした壁は太陽の光を受けて輝き、建物の間を爽やかな風が通り抜ける。良い街だ。
この街に住むようになって一年。街のどこに何があるのか、ニコラインにもようやく把握できてきた。
紙袋を抱え、市場から帰る。こぢんまりとした、白いアパートメント。海のよく見える三階が、ニコラインの住まいだ。
階段を上り、ドアの鍵を探す。鍵を開けようとしたところで、ドアノブにかかる袋に気づいた。
「これ……」
紙袋の中を覗いて、ニコラインは驚く。いつだったか、干している間に飛ばされてしまっていたカーディガンが入っていた。どこへ飛ばされたのかもわからず、新しいものを買おうかと考えていたところだ。
どこかもわからない場所へ飛ばされたというのに、汚れもなく綺麗に畳まれたカーディガン。誰が届けてくれたのか――ニコラインには、ひとつだけ心当たりがあった。
「……『魔法使い』が届けてくれたのね、たぶん」
『魔法使い』。ここ最近身の回りで起こるようになった不思議なことを、ニコラインは『魔法使い』がやってくれたのだと考えていた。
誰かに話したことはほとんどない。話したことがあるのは、以前住まいを訪ねてきてくれたクライトだけだ。
きっと、彼はニコラインの意図に気づいているのだろう。特に何も言わなかったが、ニコラインが「待っている」ことに、彼はおそらく気づいていた。
――幼い頃、ニコラインはスタッフであるエリックのことを時折『魔法使いの王子様』と呼んだ。彼の行動はおとぎ話の王子様のようで、なおかつ魔法のように思えることがあったからだ。
獏病院がその門を閉じてから、エリックに会ったのは退院直後の一、二度だ。この街に越してからは消息もわからない。クライトは何か知っている風だったが、無理に聞き出すこともできずにそのままでいる。
ただ、時折起こる不思議なことは、エリックの『魔法』なのではないかと思えて仕方なかった。
もしかすると、違うのかもしれない。全てはニコラインの思い込みで、幸運な偶然が続いているだけなのかもしれない。
それでも、ニコラインはそう信じていたかった。
比喩であることにはとうに気づいているが、未だにニコラインは彼を「王子様」と呼んでいた。
ただ、幼い頃とはまた意味合いが変わっていることを、ニコラインは理解していた。おとぎ話の王子様に重ね、その姿に憧れる――もうそれだけではない。純粋な憧れだけではなく、そこには願望と独りよがりの期待が混じっていることを、ニコラインはよく知っている。
――会いに行ける『脚』があれば、きっと会いに行くのに。
小さな呟きは、潮の匂いがする風にさらわれる。
カーディガンの入った紙袋を持って、ニコラインは部屋に入った。
意味の違いを自覚した上で、今もそう呼んでいる話