渡り鳥へ


 踵を上げ、ニコラインは枝へ赤い布を結んだ。
 白い海辺の街には、古くから続く習慣がある。それは夏の終わり、渡り鳥たちが街を発つ頃のもので、かつては枝でなく、彼らの脚に直接布を括りつけていたという。そうすれば、渡り鳥たちが悪いものを遠くへ持ち去ってくれると、信じられていたのだ。
 現在では、渡り鳥の脚に布を括りつけることは、動物の虐待に通じるとして禁じられてしまっている。しかし、その代わりに枝へ布を括りつけるようになったのだと、ニコラインは隣に住む老婆から教わった。

「……」

 そよそよと吹く風が、かすかに肌寒さを運んでくる。ニコラインたちが衣替えを行う前に、きっと渡り鳥たちは街を発つのだ。
 布をしっかりと結んだことを確認して、ニコラインは色とりどりの布が揺れる大木をあとにした。



 市場に寄った後、もう慣れて久しい道を通ってドアの鍵を開ける。部屋へ入ると、座る白い背中が見えた。

「ただいま……エリックさん?」

 テーブルに紙袋を起き、エリックの顔を覗き込む。頬杖をついた姿は、どうやら眠っているようだった。
 どこか幼げに見える姿が微笑ましく、ニコラインは心の安らぎを感じていた。
 ふと視線を移した先に、エリックの手の甲が映る。蛇の刺青と、それを真っ二つに裂くようにはしる、掌までを貫く傷跡。
 それだけ深い傷が痛まないはずはないとニコラインは思っていたが、エリックが痛むような素振りをみせないために、痛みの有無はわからないままでいる。傷跡のことだけではない。こうして共に暮らすに至るまでに多くの「知らないこと」が存在することを、ニコラインは知っていた。
 エリックが話さないのであれば、それは知らないままでいいことなのだろう。そう納得はしている。それでも、ふとした瞬間に漠然とした不安を感じてしまう。

「……もし、あなたに痛みがあるのなら。どうか、渡り鳥たちが遠くへ持ち去ってくれますように」

 あくまでこれはニコラインの自己満足であって、エリックにとって良いことであるとは限らないが、それでも願いをこめてニコラインは呟いた。

「――エリック」



名前を呼びたかった話。着地点を見失ってしまっている感じはあります。