「いらっしゃいませ」

 丑三つ時。仕事が終わり、店で少し時間を潰した伊奘冉一二三はとある行きつけのバーへと足を運んだ。店内に入り、カウンターに立つ目当ての人物と目が合うと一二三は釈然となり、軽い足取りで彼のもとへと歩いていった。

「いつもの、くれるかい?」
「かしこまりました」

 空いているカウンターの席に座り注文すれば、間を置かずに作られていく酒。その動作は無駄なく機敏、且つ流麗であった。何度目にしてもうっとりと見入ってしまい、溜息も思わず出てしまうその姿に一二三は衝動に逆らわず目を細める。

「どうぞ」

 今日まで何度も頼み、飲み慣れたそれ。伊奘冉がいつもそれ頼むから作るの得意になった、と目の前で柔和に笑む彼が言っていた日をふと思い出して、一二三は笑みを深めた。

「ありがとう」

 慣れた手つきでグラスを傾け、酒を口に含む。口内に広がる、想像を裏切らぬ香りと味に満足しながら小さく頷いた。
 ふと、テーブルに影がかかる。一二三が顔を上げれば、バーテンダーが眉を僅かに下げて口を開いた。

「ごめん、今日ちょっと遅くなりそう」
「大丈夫だよ、待ってる」

 小声で伝えられた言葉は良くない知らせの筈なのに、その内容に反して一二三は言いようのない幸福感に包まれた。表情にもそれは出ていたが特に隠さないまま、再びグラスに口付けていく。

 バーテンダーである彼、ナマエと一二三は高校時代の同級生だった。当時ナマエは観音坂独歩と三年間ずっとクラスが同じであり、隣の席同士にもなったことがある。すると必然的にナマエと独歩は、どちらも口数は少ないながらも話し合う仲になり、休み時間になると独歩を訪ねてくる一二三とも次第に顔馴染みとなっていった。
 重度の女性恐怖症である一二三と、過度にネガティブな独歩。この二人のことをナマエは特に腫れ物扱いするわけでもなく、ましてや邪険にするわけでもなく。近過ぎず遠過ぎず、ほどほどの距離感で二人と接していた。二人もその距離感が心地よかったのか、話し合う仲になってからは学生時代よく一緒にいた。
 高校卒業後、日が経つにつれて連絡もしなくなりナマエは二人と疎遠になっていたのだが、バーテンダーとして働き始めてからはまた変わった。

「あれ、伊奘冉?」
「え……ナマエ、君?」

 一二三がまだNo.1ホストになる前のこと。彼が客とのアフターに選んだ場所、そこはナマエの勤めるバーだった。数年間連絡をとらず、ましてや顔を合わせることなどなかったが両者とも顔つきはそう変わっていなかったので、顔を合わせればお互いにすぐ気付いた。ナマエはスーツ姿の一二三を見て、学生時代とは随分キャラが違うなと思ったが後々理由を聞いてからは納得した。ジャケット一つでそんなに変われるものなのかと思ったりもしたが、ジャケットだけでなく本人の努力もあるだろうし深くは考えないことにした。

「ごめん、お待たせ」

 一二三がお互い社会人になってから再会した時のことを思い出していれば、仕事着から私服に身を包んだナマエが傍に立っていた。グラスが片付けられたのは覚えているが、過去を思い出してぼんやりしていた一二三はぱちりと瞬きをして我に返った。

「お疲れ、ナマエ君」
「伊奘冉もね」

 疲れてるのに待たせてごめん、とナマエが再び謝ると、気にしてないように一二三が首を横に振った。実際気にしておらず、一二三からすると一緒に帰れることが只々嬉しかった。
 ナマエ達は店から出、すぐさまタクシーを捕まえるために道路を見やった。タイミングよく通りかかるタクシーに合図を送り、目の前で停まった車体に二人が乗り込む。

「今日は俺の所でいいの?」
「ああ。独歩君には連絡したから」
「そっか」

 社会人として再会して以来、ナマエと一二三はよく会うようになった。お互い生活リズムもほぼ同じであり、学生時代に仲が良かったとなるとそれは必然とも言える。以降はホストクラブよりもバーの閉店時間が遅いので、ホストクラブの閉店後に一二三はバーへと赴いてナマエの仕事終わりを待つ、というのが日常と化していた。
 タクシーがナマエの住むマンションの前に着く。車から降りると二人は足早に部屋へと移動した。

「どーぞ」
「ナマエちんありがと〜〜!!」

 部屋に着くや否やジャケットを脱いだ伊奘冉にナマエは、何度見てもこの変わりようは見飽きないなと破顔した。
 アウターを脱いだりスーツをハンガーに掛けたりし、ようやく腰を落ち着かせる頃になると一二三がおもむろに口を開いた。

「今日一緒にお風呂入んねぇ?」
「えー……狭くない?」
「ナマエちんのトコのお風呂広いから余裕っしょ!」

 ね? と首を傾げてくる一二三にナマエは悩ましげな声を上げた。実際は何も考えてはなく、すでに断るのは諦めていたのだが。何せ空はもう白み始めている時間であり、眠気と疲労とで思考はあまり働かない。悩ましげな声は惰性から出た、特に意味のない音でしかなかった。

「まぁいっか」
「やりー! お礼に明日のブランチ頑張るから期待してて!」
「それはフツーに楽しみ」

 談笑しながら入浴の準備を進めるナマエに一二三も元々弛んでいた頬が更に弛む。

「ナマエちんパジャマ貸して〜!」
「適当に取ってってー」
「パンツも貸してくれる??」
「新品の無い」
「新品じゃなくていいから!」
「それ伊奘冉が嫌じゃない?」
「嫌じゃない!」
「あ、そう……?」
「だから借りるね〜」

 まぁ伊奘冉が良いなら良いけど……と若干投げやりに言うナマエを横目に、一二三は鼻歌交じりにナマエのクローゼットから下着を手に取った。その頬や耳は先程よりほんのりと赤く染まっている。
 人とほどほどの距離感を保って交流してきたナマエの処世術は今も変わらない。その心地良い関係に一二三も前まで満足していたが、今は違う。

「(ナマエちん好き。だーい好き! はやく、早くナマエちんも俺っちを好きになって。俺っちを特別にして)」

 一二三はとろけるような表情を浮かべてナマエの横顔を見つめる。その目線もこれまでの言動もナマエは特に気にするでもなく、入浴の準備ができたので風呂場へと歩いていった。

「(まずは名前呼びからかなぁ……)」

 その体質故にこれまでまともに恋愛をしてこなかった一二三。ナマエの後ろ姿を見ながら、ぺろりと舌なめずりをした。


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