比叡が幸せになる
とても静かな海だ。いつもと変わらないまま、朝日を浴びてきらきらと輝いているだけなのに、不思議とそう思えた。
「司令、おはようございます!」
「おはよう、比叡。艤装外してもらったんだね」
私たち人類は、謎の深海棲艦を撃破し、平和な海を取り戻した。彼女たちの謎はまだまだ解明されていないが、どうやら新たに出現することはないようだ。もしかしたら、ということを考えて全ての鎮守府の司令と艦娘が解任されるわけではないが、ほとんどの鎮守府は解体との連絡が先日全国に行き渡った。ここ数日、まったくもって波風を立てない海は、少しだけ寂しく思うが、とても幸せだという気持ちのほうが大きい。
「そうなんです! もう一生背負えないって思うと、ちょっと寂しいんですけどね。司令は、書類整理ですか? お手伝いしますよ」
はじめて艤装を背負い、砲撃を打ったあの日の恐怖が、夢のようだ。あんなにも怖いと思っていたのに、今では恋しくて、手元にないのが少しだけ悲しい。普通の女の子として生きていたら、あんな物を背負うことも、油まみれになりながら整備をしたり、大きな傷を負うこともなかった。そう思うと、すこしだけ贅沢者のように思えて、普通の子よりも劣っているようにも感じる。
「この景色も、もうすぐ忘れちゃうんですね。ちゃんと、目に焼き付けておかないと!」
「どうせ消えちゃうのに?」
「仕方ないことじゃないですか! 今できることはそれぐらいですよ。司令は覚えているからいいんでしょうけど!」
「ごめんごめん。別に自慢しているわけじゃないんだよ。逆に、私だけが覚えているなんて悲しいじゃん。だって、これから先、比叡に会ったときも、声をかけちゃいけないんだよ? いずれはそんな未来が来ることはわかってたけれど、やっぱり受け入れられないものなんだね」
司令はそう言って、瞳を伏せた。朝日は眩しく、この部屋を明るく照らしている。私たちのこれからの未来を祝福するかのように。
「よし! 終わりましたね! それじゃあ私、着替えてきます。きっと司令、驚くと思いますよ! 榛名が私のために選んでくれた素敵な服なんですから!」
ほんの少しの名残惜しさと、悲しみを打ち消すように、明るい声を出す。あなたと過ごしたこの部屋を、幸せな気分で去りたかったから。
「司令、どうですか! 似合いますか?」
少し前に、榛名と出かけた時に買った服を身につける。本当は晴れ着姿を司令に見せたかったけど、そんな時間もお金も無い。こんなにも幸福で、こんなにも悲しい別れの日なんて、きっとこれから先の人生で訪れるはずなんてないのに、一番着飾った私を見せられないのはとても残念だ。
「うん。すごく似合ってるよ。お化粧もした? ちょっといつもと違う感じがする」
「はい! 紅を塗ってもらったんです!」
貴女の記憶に残りたかった。美しい比叡として。煤と油にまみれた比叡ではなく、戦艦としての比叡ではなく、ひとりの比叡という女として。
「それじゃあ、行こっか」
「はい!」
他の艦娘たちは、もう先に目的地に向かってしまった。きっと、もう私たちのことも、海の匂いも、戦いの知恵も、この場所で学んだ全てのことを忘れて、両親に会っていたり、友達と買い物に行っているのかもしれない。そう考えると、少しだけ寂しいけれども、出会えたことが素晴らしいことのようにも思える。
「比叡、この海も最後だね。目に焼き付けなきゃ」
「さっき、私も言いましたよ! もうずっと見てたんですから、目を閉じてもわかりますよ」
毎日のように海を見つめ、毎日のように海に触れてきた。その青さも、深さも、何もかも身体に染み付いているのだ。忘れるはずがない。
「そっか。よかったよかった。私は今後来るかもしれないけど、比叡は来ないかもしれないからね。今だけでも、私といた海を覚えてくれてたら嬉しいよ」
こんな時に話すことなんて、別れのことぐらいしかないことはわかっている。それでも、どうしても司令の運転する車の中には冷たくて湿った空気が流れてしまうのは、耐え難いことだ。これから先会うこともないというのに、悲しい思いでいたくない。司令と過ごした鎮守府での日々が、全て幸せだったと、貴女と違う道を歩むことを私は何も恐れないと、そんな気持ちでいたいのだ。
「比叡、ちょっと待っててくれる? というか、ちょっと待ってて!」
いつのまにか、私と司令はパーキングエリアに着いていた。鎮守府から見えた海はとうに過ぎてしまったようだ。もちろん、見えなくたって、匂いがしなくたって、水の感触がなくたって、あの海の全てを覚えているけれど。
「比叡、ごめんね、待たせちゃって。実は買いたいものがあって……はい、これ!」
そういって、司令が手にしたのは青っぽい花束だった。
「どうしたんですか、これ?」
「私は比叡のご両親には会えないじゃない? だから、今までの比叡とご両親への感謝の気持ちとしてこれを渡しておいてほしいの。本当は贈り物とかは形に残っちゃうから、あんまりよくないんだろうけど、何もプレゼントしてあげることができないのは悲しいから……」
「本当ですか!! ありがとうございます! きっとお母さんたちも喜びますね!」
「比叡の実家はお花屋さんだって聞いたから……喜んでもらえると嬉しいよ」
照れくさそうに、私に花束を押し付けると、司令はエンジンをかけた。日が落ちた少し後の海ような花からは、少しだけ甘い香りがする。司令の匂いと良く似た、甘い香り。
「ねえ、比叡。」
司令が、私に声をかけた。目的の場所に着いたから、エンジンは切ってしまったようで、車内には司令の声だけが響く。妙に真剣な表情をしていたから、私も少しだけ肩に力が入った。
「私のことを比叡が忘れちゃっても、私は私だし、比叡は比叡だよ……だからさ、私がいなくても、比叡は比叡らしく生きてね。艦娘として与えられた名前だけど、比叡らしくいてね。私との約束」
「私らしく、ですか……?」
「そう! 比叡らしく、笑って、幸せになりなさい! それが、司令からの最後の司令よ」
「…………わかりました! この比叡、司令の名に恥じないよう、精一杯頑張らせていただきます!」
「比叡に悲しい顔は似合わないからね! さあ、いってらっしゃい」
「は、はい! 気合! 入れて! 行ってきます!」
光が瞼を通して見える。がさごそという音も、左から聞こえた。
「あら、起きたの。おはよう」
「お、おはよう。お母さん。ここって……?」
真っ白な部屋だ。どこか懐かしい、甘い香りがする。窓の外には、穏やかな青い海と青い空が見えた。