紅茶に浮遊する愛の死に柄

地獄の業火に焼かれて死ぬさんに参加させていただいた作品です
P←ドル描写あり、ミリアドの設定を使用しています。


館は毎日が冬の明け方のように、乾いた静けさで満たされている。人々が幽霊屋敷と呼ぶこの洋館には、不思議な吸血鬼が住んでいた。

「百合子さん、紅茶ですよ」
「ありがとう。なまえちゃんの淹れる紅茶はいつも美味しいから本当に助かってるんだ。なまえちゃんが出ていったらどうしようかと思うぐらい」
百合子さんは、この館の主、吸血鬼である。彼女が言うにはもう数年は人の血ではなく動物の血で生きているらしい。私は、まあここで生活させてもらっている身のもの。別に一人暮らしをしようと思えばできるし、実家にだって帰れるけれど、彼女が心配で気づいたらここに住んでいた。
「なんの本、読んでるんですか?」
「なまえちゃんには難しいかもね」
「そうみたいですね、どこの国の本か全然わからないし……」
難しそうな、明らかに日本語ではない文字が描かれた表紙をちらりと覗き込む。私だって別に馬鹿なわけじゃないけど、何千年とこの世界で生きている百合子さんと比べたら、そりゃあ知識量は劣るに決まってる。でも百合子さんは私のことを馬鹿にしようとしているわけじゃなくて、語りだしたら止まらないし、私がその話をきちんと理解してあげられるわけじゃないから配慮してくれているのだ。
「あれ、この本……」
手持ち無沙汰になった私は、私でも読めるような本がないか探すことにした。この館は壁一面が本棚になっていて、びっしりと百合子さんが世界各地から集めてきた様々な本が詰まっている。イタリアとかアメリカとか、いろんな国のいろんなジャンルの本で埋められた壁は一つの絵画のような迫力がある。色とか、材質とか、芸術には詳しくないけど、何も考えずに眺めているだけでも楽しいのだ。そんな中に紛れ込んだ不可思議な本は、なんだか自家製本されたような少しだけ安っぽい感じがする。とてもじゃないけど、百合子さんが集めそうにない種類だと思う。
「百合子さん、この本なんですか? 百合子さんの趣味じゃない感じがするんですけど……」
「あ、そっそれ!」
ソファに優雅に座ってお淑やかに紅茶を嗜んでいたはずの百合子さんは、その15歳の姿とよく似合った活発さで立ち上がって手元の本を奪い取った。大切で、なくしちゃいけない思い出みたいに、優しく甘やかに抱きしめると、私を見て恥ずかしそうに口を開く。
「これは、ちょっと読ませられないや……。は、はずかしいから……」
気づかないふりをする。彼女が何千年とこの世に存在している吸血鬼ではなく、ただの恋をする女の子に戻った瞬間に。
「え〜? どうしてですか? 中身が読めないんなら、どういうものなのか教えてください! じゃなきゃ力づくで奪って読んじゃいます!」
「そんな! で、でもなまえちゃん案外諦め悪いしな……」
「百合子さん? 教えてくれないんですか?」
「わかった、わかった! 教えるよ! こ、これは私が書いた本なの。その、プロデューサーさんとのこ、恋、物語を、書いた……」
彼女は人間だった時期がある。でもそれは、もともと人間として生まれて吸血鬼になった、というわけではない。何百年前、吸血鬼だった記憶はすべて消して、5年間だけアイドルをしていた時期があったらしい。私はその瞬間を知らないけれども、時々ある歌を口ずさむ彼女を見ていたらそれが真実だということはわかった。5年間という彼女が生きる永遠にとっては短すぎる時間は、人間であったということだけですべてが塗り替わる。吸血鬼として生まれてきた百合子さんには、本来訪れないはずの人間である時間。そのひとときを、百合子さんは時々幸せそうに私に語る。まるでそれ以上の時など永遠に来ないかのように。ううん。本当に、来ないんだと思う。百合子さんにとってはそのアイドルだったとき以上に幸せで、忘れがたくて、大切な瞬間なんてないんだ。百合子さんが恋をした瞬間。人として生きた瞬間。その時百合子さんに出会っていたら、私たちはどんな関係だったのだろうか。
「……大切な本、なんですね。二冊目もあったりするんですか?」
「そんなにやにやして、からかわないでよ! そういうなまえちゃんは、好きな人はいないの?」
「いませんよ。百合子さんのお世話だけで手一杯です」
「も〜! でも本当に、負担ならこんな古びた館なんて出ていってもかまわないから。今まで何千年と、一人で生きてきたわけだし……」
「そんなこといって、さっき私の紅茶がなくなったら〜なんて言ってたのは誰ですか?」
「やっぱりなまえちゃんは口が達者だ……勝てる気がしないよ……」

***

紺色の表紙を撫でる。この洋館は森のなかにあるからなのか、太陽が出ていても薄暗く気味が悪い。それでも本にとってはいい状態らしく、目立った日焼けは見られなかった。この中に、百合子さんの恋心が詰まっていると思うと、読むのが少し億劫になる。でも中身が気になるのも事実。一息置いてから、ページを捲る。百合子さんのお風呂がいつ終わるかわからないから、じっくり読んでいる暇なんてない。目を通すぐらいのスピードで読まなきゃ。何百年前の紙に百合子さんのキラキラとした恋の気持ちが並べられている。インクはブラックだけど、もっとやさしい、水色のほうがずっと彼女の文章に似合う気がした。
「なまえちゃん。面白いことでも書いてあった?」
「百合子さん!」
とっさに本を背中に隠す。もう百合子さんは私が本を読んでいたことを知っているのに。さすがは不老不死の吸血鬼。気配を消すのがすごくうまい……私が、読むのに夢中になってただけなんだけど。
「読ませられない、っていったけど、きっとなまえちゃんならそんなのも振り払って読むんだろうなってわかったよ。さすがに目の前では恥ずかしいから、止めただけ。そんなに焦んなくてもいいのに」
「ご、ごめんなさい……その、百合子さんの好きな人が気になっちゃって……」
「それじゃあ、暇だし少し話でもしようか。美味しい紅茶、お願いしても良い?」
「は、はい!」

爽やかな香りが部屋を満たす。この館はずいぶんと開けていると言うか、吹き抜けが多い。本当に、映画やゲームに出てきそうな雰囲気なのだ。そんなところに住んでいるのは、夢みたいで毎日が楽しい。百合子さんとふたりだということも大きいと思うけど。
「その、私が人間だった頃の話は何度もしたよね。5年間だけ、吸血鬼として生きてきた記憶を全部消して、本当に人として生きていた時期。アイドルをやっていたの。それが人として生きる条件だった」
百合子さんはゆっくりと語りだす。彼女はアイドルであった日々を詳しく語ることはあったが、彼女の恋する相手が話題にのぼることはあまりなかった。甘い紅茶は口をゆるくさせる。私はまだ手を付けられないでいた。
「その時、プロデューサーに出会ったの。あんなにも親身になって寄り添って、私のことを考えてくれて、私だけを見てくれる人は、あの人だけだった。それはきっと、みんなも同じ。あの劇場にいたみんなも。あの人は優しすぎたの。だからみんな、彼に恋した。プロデューサーの特別になりたいと願った。私もその一人」
百合子さんは思っていることが顔に出やすい。今だってそう。頬を赤く染めて、上の空な瞳。誰だって彼に恋をしているのがわかってしまう。かわいらしい人。あなたに想われている彼が羨ましくて、憎くてたまらない。
「彼と結ばれなくても良い。普通の女の子として、彼のそばにいられるなら吸血鬼になんてなりたくなかった。永遠の命も、闇の世界に生きることも、どれも彼と歩むアイドルとしての日々にはかなわないの」
彼女のカップの中にはもう紅茶はない。私はタイミングがわからなくてまだ一口も飲んでいないというのに。紺の表紙はするするとやわらかな指に撫でられ、ほこりがのけられていく。愛おしそうな仕草。記憶の中の彼の輪郭をなぞる。私は何もかもをしらない。
「この本は、人間として生きる私と、プロデューサーの恋のお話。永遠を生きる吸血鬼にもかなえられることのできなかった物語。どう? 読みたくなった?」
私に笑いかける百合子さん。人を愛する百合子さん。人間になれない百合子さん。かわいそうだと思う。百合子さんはずっと、ずうっとかなわない恋をしているのだ。そんな百合子さんを好きになった私も、また不毛な感情を抱いている。私は、百合子さんのその何百年と重ねてきた思いを覆すほどの恋を彼女とできるとは思っていない。彼女と生活する中で節々に感じる彼の気配。朝の習慣や、きっと人間であったときに染み付いた癖。彼を忘れないために行う儀式。それらのすべてが、私ではかなわないのだと思わせる。ひとつひとつの言葉に、彼の姿が見えるのだ。彼女の生活を支配する彼にどう対抗すればいいのだろう。私にとってすべてが百合子さんに行き着くように、きっと百合子さんのすべても彼に行き着いてしまう。
「ものすごく興味がわきましたけど、読まないでおきます! だって私も恋人がほしくなっちゃうと思うんです。そんなに熱烈な恋をした感情を知ったら。だから、今は控えておきます。恋をする気はまだないんです! またいつか機会があれば読ませてくださいね。それじゃあ、紅茶のおかわり淹れてきます!」

館は毎日が冬の明け方のように、乾いた静けさで満たされている。人々が幽霊屋敷と呼ぶこの洋館には、恋に狂わされたふたりが暮らしていた。

title by 毒と魚