この心臓が動く理由がほしい
「なまえさん、帰りたくない」
桃子がこんなにも自分の意思をはっきりと口に出したのは、もしかしてなまえさんの前でははじめてかもしれない。でも、それくらい嫌だった。家ではお母さんとお父さんが互いをいないもののように扱いながら生活している。顔を合わせれば嫌悪をあらわにして言葉を荒くする。息苦しくてたまらない。桃子に同意を求めてるように愚痴をつぶやくお母さんも、何も知らないという顔で桃子に話しかけてくるお父さんも、全部嫌なのだ。安心できる場所が劇場にしか無い気がする。お兄ちゃんと、みんなのそばでしかうまく気持ちを言葉にできない。
「じゃあこのまま、逃げちゃう?」
「どこに……?」
「どこだろうね」
なまえさんは、にこにこ笑いながら桃子の手を取る。あたたかい手のひらだと思った。
「きっとこのままここにいてもプロデューサーに捕まってお家に返されちゃうと思うの。もう撮影も終わったし、今から外に行かない? あとでプロデューサーには私から言っておくから!」
「う、うん……」
なんだか悪いことをしているみたいだ。なまえさんは早々に荷物を持って、桃子の手を握ったまま、お疲れ様でしたとスタッフさんたちに声をかけている。誰にもこれから先のことはバレちゃいけない気がして、心臓がどくどくしていた。
「そ〜しんっと! それから電源オフ! これでどれだけプロデューサーから電話がこようと関係ないぞ〜!」
「いいの? それ……」
「よくないよ」
「え……?」
「悪いこと。でも逃げるからには徹底的にやらなくちゃ」
「そ、そうなの?」
「……これは、ふたりだけの秘密。誰にも本当のことは言わない。だから、安心して」
「……わかった」
桃子の手をぎゅっと強い力で握られて、ちょっとだけ怖くなった。でも桃子は子どもじゃないからわかる。悪いことをふたりでしようとしているけど、なまえさんが責任を負ってくれていることに。
「なまえさんっ……は、はやいよ!」
「誰かに見つかって、追いかけられちゃうかもしれないから、急がなくちゃ」
「ちょ、ちょっと休憩……! 桃子、これ以上はむり……」
よくわからない街並みを駆け足で通り過ぎていく。いつもは車の中からながめていた景色たちは、逃げる桃子たちを世界から隠そうとしているように思えた。
「ふふっ……桃子、こんなにっ……こんなに走ったの……はぁ……はじめて……!」
身体が重い。肺は空気をうまく吸えていない。息を整えるにも時間がかかってしまう。子役として芸能界に入ってから、外に出て全力で遊ぶことはなくなってしまった。それどころか、友だちすらできなかったのだ。だから、こんなにも本気で走ったのははじめてで、とても新鮮だった。心臓が痛いほど動いている。脇腹がきりきりと痛い。こんなにも苦しいのに、楽しいのはどうしてなのだろう。
「…………ばかみたい」
駆け足だった鼓動はゆるくスピードを落としていく。なまえさんの手を強く握ると、涙はぽろぽろあふれてきた。息をするのもつらいのに、涙まで出てきちゃうなんて。本当はどこにも逃げる場所なんてないことはわかってた。どれだけ居心地が悪くても家に帰らなくちゃいけないこともわかってた。桃子は子どもじゃないから。全部わかってたつもりなのに。夜の冷たい風が熱を持った身体を冷やしていく。桃子はしゃがみこんで泣いていた。なまえさんと手をつなぎながら。
「知ってる。お家に帰らなきゃいけないことも。お兄ちゃんはお母さんたちに連絡入れてるだろうし、きっと桃子すごく怒られちゃうね。これでまた喧嘩しちゃったらどうしよう……どうすれば、よかったと思う……? なまえさん」
少しだけ顔を上げて、桃子と同じようにしゃがんでいるなまえさんの顔を見る。眉毛を少し下げて、なまえさんは桃子から視線をそらした。だから桃子はなまえさんに頼んだのだ。なまえさんはうそをつけない。ううん。きっとつけるんだろうけど、桃子に対してあんまりにも無責任なうそは絶対につかないのだ。きっとやさしいひとなら桃子に対して、ちゃんと謝れば許してくれるよ、とか怒られないよ、とかそういう言葉をかけるかもしれないけど、なまえさんは違う。なまえさんは……ざんこくなひと。桃子はまやかしの言葉なんていらない。やさしくてあまいだけの言葉だって必要ない。桃子は子どもじゃないから。
「なまえさん、帰ろうよ」
「うん」
「今から連絡したら、お兄ちゃんむかえに来てくれるかな」
「心配性だからね。私にすんごく怒ると思うけど、来てくれるよ」
なまえさんは桃子の涙をぬぐいながら、あいまいにわらって、やさしく手を握り返してきた。この人はうそをつくことを知らない。
title by 毒と魚