僕の手の届かないところで
幸せにならないで
アラームの音がする。うるさい。もっとねてたい。だけれども、今日は一年のうちで一番、いちばん特別な日だから、二度寝はやめることにした。
ホームボタンを押すと、画面に現れる11月6日の文字。大好きな、あの子の誕生日。いつもと同じように彼女の誕生日を入力すると解除されるロック。すこしだけ、本当にほんのすこしだけ期待をしてしまう。今日、ゲームを開いたらまたあの画面に戻れるんじゃないかって。ログインしたらあの子のフラッシュが流れて、私の分身は誕生日をお祝いするんじゃないのかって。
そう思っても現実は無常で、いつもどおりのエラー表示。
ため息を吐き、朝の支度をはじめる。もう半年以上経っているのに、未だに信じられない。悪い夢を見ている気もするけれど、あまりにも長過ぎる。悲しみはあとを引き、私の背中にいつもくっついていた。全く違う世界の、私の好きなあの子ではないあの子。好きだという気持ちと、私が今まで大切にしてきた彼女の口からこぼれた言葉たちが消えていく気がして、苦しい。まわりの人々は過去を忘れてしまったのだろうか。今でも私のいない劇場に取り残さているあの子達はもうこの世界には存在していないのだろうか。私の桃子は、どこにいるのだろう。

ぐるぐると煮え切らない思いを胸に宿しながら仕事を終えた。胸にはしこりがあって、胃には未消化のなにかが残っている。駅前のケーキ屋さんで彼女みたいに甘いスイーツを眺めながら、ゆっくりと息を吐いた。
「これとこれ、ください」
可愛らしいショートケーキと、ただのチーズケーキ。ふたつのケーキは向かい合わせに詰められていく。プレートは買わない。桃子を祝うのは私だけでいい。

家の中は暗い。あいかわらず一人で生きている。桃子がいたときはどんなふうに帰っていたのだろうか。あまり記憶がない。思い出したくないのかもしれない。幸せだった日々を。

「お兄ちゃん、おかえり」
ぱちりと電気をつけて、発光ダイオードは部屋を照らす。面白みのない私の部屋の中心には、140cmの、黄色いチュニックの、周防桃子がいた。
「な、な……」
なんで、って声にならない言葉が消える。何度瞬きしても、目をこすっても、目の前にはVRで現実に投影したみたいに3Dの、息をしている、脈のある、心臓の動いている桃子がいる。
ケーキを持っているてを落としそうになりながらも、ゆっくりと目の前にいる桃子に触れてみる。やわらかい頬。人の温度がある。無機質な画面の向こうの冷たさじゃない。
「……お兄ちゃん、なにか桃子に言うことは?」
いつものとおりに、すました顔で私の部屋のソファに座っている。まるでここが彼女の家みたいに。
「誕生日、おめでとう……」
手に力の入らない私は、ケーキを床において、滑らすように渡した。あまいあまいショートケーキを。

夢みたいだと思う。桃子が冷蔵庫の残り物で作った夕ご飯を私と並びながら食べている姿も、録画していた月9を一緒に見ているのも。スマートフォンの中に閉じ込められていた彼女が目の前にいるのが、本当に現実なのだろうか。もしかして連日出勤に疲れすぎて幻覚を見ているんじゃないのかな。
そう思っても、隣には熱を持った人間がいて、それはとても私の理想のあの子によく似ている。ゲームの中で何度も見た姿と寸分違わずにここにいる。
「ケーキ食べようか」
「うん。オレンジジュースある?」
「あ、ごめん。ジュースは置いてないや……」
「そっか……まあ今日は許してあげる」
器用にケーキに張り付いたセロファンをフォークに巻きつけていく。小さな口は赤いいちごを頬張るといっぱいいっぱいなように見える。桃子は、私が思っていた以上に小さい。手のひらだって、身体だって。スマホではわからなかったことだ。

「ねえ、お兄ちゃん」
ケーキ以外、何一つとしてプレゼントを用意していなかったことを嘆いていたら、ふと気がついた。
「お、お兄ちゃんって……私、女なのに」
桃子が、あの甘ったるいメープルシロップみたいな声で私を呼ぶのは、お兄ちゃんという言葉だったこと。優しくて、甘くて、幸せな響き。どうしようもなくゲームをプレイしている最中に焦がれていた。自分が女だということも、自分がプロデューサーのような出来た人間ではないということもわかっていたけれども、それでも彼女のお兄ちゃんという呼び名が大好きだったのだ。泣きたくなった。お兄ちゃんと呼ばれたいと思うこと、お兄ちゃんと呼ばれることは叶わないと思っていたから。今日という日に、桃子が生まれた日に、桃子の姿で、桃子の唇から優しく紡がれるその音に、心が奪われていく。私は泣いていた。
「なんで泣いてるの? 桃子がいるっていうのに」
「ごめん……」
好きだ。何年経っても、会えなくても、新しい姿を知らなくても、どうしようもないくらいに好きなのだ。
「私、あの人みたいになれない……あの人みたいに、桃子のこと大切にしてあげられない。正しい道にも導いてあげられないよ……」
ずっとずっと、現実の自分とゲームの中にいる私との解離に悩まされていた。私のはずなのに、私ではない誰かが桃子に触れていた。私ではない誰かを桃子は求めていた。それがとてもつらかった。私はこんなにも桃子が好きで、桃子が特別だというのに、桃子にとっては私なんて視界にも入らないものなんだと思い知らされているようで。
「そんなこと気にしてたの、お兄ちゃん。桃子にとってのお兄ちゃんは、なまえさんだけなんだよ」
「そんなこと……私以外のお兄ちゃんはたくさんいるよ。私よりももっとまっとうに生きている人は、大勢いるのに……」
「桃子が出会ったのは、お兄ちゃんだけだよ。おしゃれなミュールをくれたのも、ガーベラの花束をくれたのも、お兄ちゃんだけ」
「桃子……」
夢見たいだ。ほんとうに、この子は桃子なのだろうか。あまりにも私が求めていた言葉を知りすぎている。私の全てを満たす、私の欲のままの女の子。私がなにもかもを操れてしまいそう。少しだけ怖くて、それでもこの夢に溺れていたい。

「今年はなにをくれるの? かわいいチョウチョのヘアゴム? リボンの付いた小花柄のワンピース? それとも、桃子によく似合うコーラルレッドのリップ?」
ケーキを食べ終わった桃子は、瞳をきらきらさせながら私に問いかける。私は彼女へのアクセスの仕方をもう忘れてしまった。桃子を祝うURLを知らない。彼女に会えない。
「……ううん。物は、べつにいらないよ。お兄ちゃんがお祝いしてくれるだけでいい。おめでとうって、言ってほしいの」
「ごめん。ごめんね。できないよ」
温度のある手を握る。小さな手。私が救うことができないもの。
「知ってる。もう桃子には居場所がないんでしょ? お兄ちゃんに会える場所、消えちゃったから、もう桃子とは会えないもんね」
どれだけタップしても反応しない画面。“システムエラーです”その言葉だけが表示される。何十回、何百回とあなたとの再会を求めたところで、システムには抗えなかった。私には、この桃子しかいなかった。私には、今目の前にいる桃子だけが全てだった。

優しくて、甘くて、私の嫌なところも醜い部分もすべてを包み込んでしまいそう。そういう笑顔で、桃子は私の涙を拭った。
「また来年、会いに来てあげる。今度は素敵なデートプランを用意して。映画を見て、おしゃれなレストランに行って、たくさんショッピングしよう。桃子を世界で一番かわいい女の子にして。トップアイドルを夢見る桃子を、誰も追いつかない場所に、お兄ちゃんの手で導いてよ」

そう言い残すと、桃子はしゅるしゅると煙のように消えていってしまった。桃子は無いページの劇場でずっと待っている。そこでいつものように輝きながら暮らしている。私はそこへのアクセスの仕方を知らない。私はあなたのお兄ちゃんにはなれない。私の手のひらにあったぬるい温度はきえる。またひとり。桃子だけが特別だった。桃子との世界を愛していた。私の光はそこにしかない。

title by 毒と魚