愛をなぞった剥製
私が進学した大学は今まで住んでいた家とは少し遠くて、亡くなった祖母の古い家屋からはとても近い。だから私は、祖母の家での一人暮らしを始めることになった。
祖母の家は不思議な匂いがする。なんとも言えない、甘くてふるめかしい匂い。私はそれが結構好きだ。曖昧な記憶の中の祖母が私のそばにいるみたいで、ひとりきりの家でもさびしさは少しだけ紛れる。

記憶の奥底にいる祖母は、私に素敵なネックレスをくれた。アンティーク調の鍵のついたものは、でかけるときはいつもお守りのように持っていた。私にとってそれは大人になるための一歩でもあって、大切なアクセサリーでもある。祖母は、誰にもこのネックレスのことは言ってはいけないと私に教えた。幼い私にとって、その秘密はとても甘美で、母にすら内緒のことがあるという事実が、私をさらに大人にさせているように思えた。

この屋敷には、開かない扉がある。よくわからない豪奢な柄が施されている、ひときわ特別な朱色の扉。鍵がかかっているようで、その部屋には一生入れないものだと思っていた。けれどもふとした時に祖母からの鍵を差し込めば、いとも簡単に扉は開いてしまった。

そこは、祖母が大切に集めていたドールのコレクション部屋だった。くすんだグリーンの壁紙と、薄いレースのカーテンで遮られる日光。明かりがなくてもほのかに部屋が見渡せる。たくさんのドール、色とりどりの小さなドレスやシューズにアクセサリー。色あせたその部屋には、ひときわ大きな球体人形が置かれていた。母から聞いたことがある。昔々、祖母は大金を払ってうつくしい人形を買ったということを。物に執着をあまり示さない祖母が唯一興味を持った人形。生前の祖母の生きがいとなったものたちが、この部屋には詰め込まれていた。

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ありさは人形だった。人ではないもので人をかたどったもの。ありさの肌は硬いプラスチック、瞳は硝子玉、髪は絹。
あの人がいなくなってからどれくらいたったのだろうか。どれくらいこの部屋の扉が閉じたままなのか、ありさには人間と違って時間というものの感覚がないからわからないけれども、それでもとても長い年月が経っていることは理解できた。
ずっとさびしいままだったこの屋敷に、人の音が交じるようになって少し経つ。なんだかあの人が戻ってきたみたいで嬉しい。そのままこの扉を開けて、ありさを見つけてくれれば良いのに。あの人みたいに、ありさを愛してくれたらどれだけ幸せだろう。

鍵を開ける音が聞こえた。くもったままの空気が、抜けていく気がする。部屋の真ん中に鎮座するありさを見つけたその子は、ありさを買ってくれたあの人によく似ていた。

すこしの恐怖と、それを勝る好奇心。ありさをみつける瞬間でさえあの人と同じ表情をしている。なんて幸運なのだろう。ありさはもう一度、ありさを愛してくれる人間に出会えたのだ。そろりとこの部屋に足を踏み入れて、それからゆっくりと近づいてくる。きっと触れ方も同じだ。ありさに魅了される瞬間も、ありさを生きがいにする瞬間も、同じだ。

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あの部屋に入ってから、あの人形を見つけてから、夜にあまり眠れなくなった。気づいたらあの扉の前に立っていることもある。人になりそこなったものが鎮座する部屋。彼女をかたどるものはなにひとつとして生きているわけではないのに、私を見つめるその姿は人間そのものだった。美しい少女は私の夢にも出てくる。なにもかもを支配されているようで、布団をかぶっても目を閉じられない。紅い髪、紅い瞳、紅い爪に紅と黒を基調としたゴシックドレス。紅がまぶたから離れない。
夢ではあの部屋の中に私がいて、人形はじっとりと私をみつめてくる。その瞳をみつめていると吸い込まれそうで、瞬きや視線を逸らしてなんとかたえる。昼下がりの陽射し。心地の良い風は部屋を通り抜けてどこかへ消えてしまう。金縛りにあったかのように動けないでいた体に感覚が戻ってくる瞬間、私は目を覚ましているのだ。
祖母は何を思ってあの鍵を渡したのだろうか。この鍵のネックレスをくれたとき、なにか言っていたような気もする。あまりにも昔のことすぎて覚えていない。ただ、それは私と祖母だけの秘密であるということだけしか。どうして母には教えられなかったのだろう。
睡眠不足がたたり、大学生活に支障が出てきた。あの人形を、捨てるしかないのだろうか。目を閉じると炎に、紅に包まれる人形が想像できる。そんなことでもしたら呪われてしまいそうだと思いながら、数週間ぶりにあの扉を開いた。ドアノブにかける手は震えていた。

夢と同じだ。人形は私をじっとりとみつめていて、私は金縛りにあったかのように動けない。その瞳に吸い込まれそうになって、すんでのところでかぶりをふった。身体は動く。これは夢ではない。近づくと等身はほとんど人間と同じで、真っ白な肌に浮かぶ球体人形特有の関節がなければ、一目見ただけでこれを人形だとは思わないだろう。
「……亜利沙」
そばに落ちていた紙には紅いインクでこの人形の名前が書かれていた。祖母はそうとう入れ込んでいたのだ。名前をつけて、こんな部屋を作ってしまうぐらいには。

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ありさを長い間放っておいた末、あの子は何かを恐れながらこの部屋の扉を開けた。まるでありさが呪いの人形だとでも言うかのような怯えきった表情は鮮明に思い出せる。あの人もそうだった。人間と寸分狂わず作られたありさを見て、怖がっていたのだ。
あの日はすぐに部屋を出ていってしまったけれども、それから度々この部屋を訪れるようになった。この部屋で作業をしたり、四角い何かを触ったり。人が暮らしている音を聞くだけでも幸せだったが、誰かがいるという感覚はより一層心地がよかった。あの子はありさを恐れていて、ありさを求めている。あの子のさびしさを埋めてあげられるのはこの屋敷にはありさしかいない。ありさを気にかける視線がくすぐったくて、はやく胸の底にある感情に気づいてしまえばいいのに。

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今日は散々だった。提出するはずのレポートを忘れて、バイトでミスばかりして、電車を乗り間違えて……。家についたときにはもうへろへろだ。重い玄関を開けても、一人暮らしだから温かいご飯もお風呂もなにもなくて、ため息ばかり。苦しい。息苦しい。この家はさびしい。なにも音がしない。誰もいないみたい。ひとりでいると、なにも報われない気がしてしまう。最近はずっとこんなふうに落ち込んでばかりいる。家に帰っても何もできずに、コンビニでご飯を買って、シャワーを浴びて、ベッドにはいる。そんな毎日。だから数ヶ月前まで私を悩ませていたあの人形のことなんて、頭から離れていってしまっていたのだ。

夜中に唐突にまぶたが開いた。外の雨音が嫌に気になって、目はつむれそうにない。サイドテーブルに置いてあった祖母からのネックレスが目に入ると、私はそれを掴み取っていた。

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ガチャリと扉の開く音がする。時間の感覚もないし、音が生まれたこの屋敷なら、ありさはいくらだって待てるつもりだったけど、あの子は会いに来てくれたみたい。ありさの足元で小さくなるその姿。すすり泣く声が聞こえる。
「……わたしは、なまえ」
ちいさなちいさな、外の雨音に飲み込まれて消えてしまいそうな声。わたしの名前は、ありさだよ。
「きょうは…………きょうは、すごく大変で……」
そういって言葉に詰まるなまえ。たくさん時間をおいて、なんでもないと口にした。表情は見えないけれども、感情は手に取るようにわかる。ありさたちはさびしさの中に生きている。
「この家は静かだね……ひとりだとよくわかる」
ありさも、誰もいない屋敷で長い間過ごしていたから、なまえのいいたいことはすぐに理解できた。きっとなまえはここに来る前はもっと多くの人と共に暮らしていたのだろう。内側から音がしないと、外側の音が聞こえてくる。エンジンのうなり、動物たちの息遣い、人の足音。外の音だけしかないと、空っぽの家に住んでいるように思えてくるのだ。
「あなたが人だったら、もう少し違ったのかな」
なまえは眉を寄せて笑った。ありさはその表情が、言葉がひどく印象に残って、それらに気を取られているうちに、なまえは自分の部屋へと帰ってしまったみたいだ。

ありさはずっと、人間に愛されたかった。ありさを買ってくれたあの人とすごした日々が忘れられないから。ありさを見つめる熱のこもった視線、ありさにやさしく触れる指先。この世界で一番愛されていたのだ。だから、なまえにも同じようにしてほしかった。ありさを一番のお人形さんにしてほしかった。それなのに……なのに……ありさが人だったら、どうなっていたのだろう。ありさの心臓は脈うち、肌は温かく、声は高く響く。ありさの心は言葉となり、なまえにとどくようになるのだ。そんなこと、想像したこともなかった。ありさも、あの人と同じようになまえを愛せることができるのだろうか。人の器があれば、音のない屋敷に住む、さびしさを抱えたなまえと生きていくことが出来るのだろうか。

この部屋の扉が開かれる。なまえはゆらゆらとおぼつかない足取りでありさの前に来ると、そのまま座り込んだ。今日もまた、なまえはひとりさびしく泣いている。人になれないありさは、その涙を拭えないまま。

人形の館イベのときの亜利沙がモデル。タイトルは毒と魚さまから。