島村卯月の笑顔は花だった

オリジナル要素はそれなりにあって、卯月と恋愛してます。名前変換は少しだけでちょいと長くなりました。遅くなってごめんね。卯月ちゃんお誕生日おめでとう。




1
 養成所のドアをゆっくりと開ける。少々古臭いこの場所は、私の夢の入り口なのだ。

「なまえちゃん、おはようございます!」
「卯月、おはよう。今日も早い時間から来て練習してたんでしょ?えらいね」

 彼女は同期の島村卯月。可愛くて、頑張り屋さんで、それでいて一生懸命な女の子。養成所の研究生の中では一番アイドルのことを考えていて、いつも尊敬している。

「そんなことありませんよ。私まだまだみんなに追いつけていないから、少しでも練習したいなって」
「私の方こそ、踊りとかも全然出来ないし、もっと早く来てレッスンしたほうがいいのかも。卯月とならサボらないと思うし……」
「ホントですか? 私、なまえちゃんと一緒にレッスンしたいです!」

 にこにこと愛らしい笑顔を見せながら卯月は私のそばに駆け寄ってくる。柴犬みたいだな、なんて考えながら見えない犬耳を撫でた。

「明日からでも早めに来て一緒にレッスンしてもいいかな?」
「はい! よろしくおねがいしますね」


 その後、先生や他の研究生が来る前に少しだけ、私達は自主練習をした。寒い冬だけれども、少しの運動だけでも体温は上がる。だから、座った時のフローリングの冷たさは痛かった。

「あのさ、卯月はどうしてアイドルになりたいって思ったの?」

 前々から気になっていたこと。自分が曖昧にしていることをなんとなく聞いておきたかった。

「私、ですか?」
「うん。だって、卯月は他の子よりも人一倍レッスン頑張ってるでしょ? だから、絶対に叶えたいこととか、アイドルになってやりたいことでもあるのかなって」
「…………私、キラキラしたいんです。キラキラした何かになりたいって、ずっとずっと夢見てるんです」

 キラキラしたなにかって、一体何なんだろう。

「なまえちゃんはどうしてスクールに?」
「う〜んっと、私は普通に気まぐれで……えへへ」

 ちょっとだけ、恥ずかしかった。卯月は、叶えたい夢があってこの場所にいるのに、私はまだここで甘えている。もともと、スクールに入ったのは好奇心と、家族とか、勉強とか、そういうしがらみから逃げるためだった。嘘をついたのは、悪いとは思ってる。それでも、本当のことを話すことはできなかった。

「卯月は、すぐにデビュー出来ちゃいそうだね。この前のオーディションだっていい感じだったんでしょ? もうすぐ最終審査だ〜って言ってたよね」
「ほ、ほんとですか? なまえちゃんに褒められちゃうとなんでもできそうな気がしてきちゃいますね。でも、絶対、なまえちゃんだってデビューできますよ!」
「そんな、私はやる気もないし、卯月みたいな子のほうがアイドルに向いてるよ」

 このまま同じことを話していれば墓穴を掘りそうだ、なんて考えて話題を変えたはずなのに。卯月のキラキラとした、純粋な瞳を見ていると、どうしようもなく自分が嫌になる。こんなに強く当たりたいわけじゃないのに。卯月は、純粋に私がアイドルになれると言ってくれてるんだ。わかっている。嘘を吐くとか、お世辞とかそんなことができる子ではないのだ。

「……私、なまえちゃんと一緒にステージに立ちたいんです。一緒に歌いたいんです。一緒に踊りたいんです。一緒に、キラキラしたいんです」

 卯月は、優しいなあ。私の弱いところも、悪いところも全部赦してくれちゃう。優しくて、それがすごく痛い。みんなは、私の心の傷を見て見ぬふりをするのに、卯月はそこに無意識で優しいキスをしてくれるのだ。甘くて苦い、そんな言葉がよく似合うような感覚で、私は何も言えなかった。

「わがままだってわかってます。勝手なんです。でも、叶えたいんです、この夢」

 私の手を握る。その力は強くて、少しだけ痛かった。こんなにも真剣な顔を見せることは、はじめてだ。いつも穏やかでニコニコ笑顔を振りまいているのに、それほどまで、私という人間に過信するのかと疑問が湧いてきた。怖かったというのが、本音だ。気圧されたとでも言えばいいのだろうか。もしもここで断ってしまったら、なんて頭に思い浮かんだが、すぐに振りほどいた。友情に亀裂が入るわけでもないし、彼女が怒るなんてこともありえないはずなのに、もしかしたら、と考えていたのだ。

「卯月さ、な、なんで、私なの」
「理由なんて、ありません。なまえちゃんにしか出来ないことなんです。……えへへ、ちょっと照れくさい、ですね」

はにかみ、頬を染めながら瞳を三日月のようにしている卯月を見て、私の心にあったいつもとは違う卯月に対する感情が消え去ったような気がした。彼女は、本気で私に隣に立って欲しいと言ってくれたのだ、純粋な気持ちで、ただただ私を求めてくれているだけなのだ。照れくさそうな夢見る少女に少しでも近づきたくて、もしかしたら自分も、不純な思いも混じっているけれども、卯月みたいになれるかもしれない、なんて。

「……わ、私じゃ、卯月のキラキラしたいって夢をかなえられるかは、わかんないよ。それでも、いいの?」
「なまえちゃんが、いいんです。なまえちゃんじゃなきゃダメなんです!」

まるで花が咲くようだった、卯月の笑顔は。ときめくとか、高鳴るとか、息苦しいとか、そんな気持ちが駆け巡る。どうしようもなく憧れていた。全部が全部、好きだって、やっとわかった。

「ありがと」

もっと、笑っていてほしい。あの瞬間の笑顔を閉じ込めておくことは出来ないから、せめてでも瞼の裏に焼き付くように、瞳を閉じれば花開くように。だから、アイドルになろうって、隣で笑顔をずっと見ていたいって思ったんだ。



夢を見ていた。懐かしい夢を。

 私は、約三ヶ月前、スクールをやめた。アイドルに夢を見ていられるほど、私は強くなかったし、時間も足りなかったのだ。本音を言えば、あの場所でもっと卯月の笑顔を見ていたかった。この想いは、あっさりと捨てられるほどのものではなかったはずなのに。ほんの一瞬で、好きだって、一目惚れに近いようなものだったけれども。
 どうしてか、なんて聞かれてしまえば答えられるのは大学受験を控えているから。そんな言葉しか出てこない。あの時確かに私は、卯月に恋をしていたのだ。けれども、私の親は良い高校に入学して、良い大学に入って、良い就職先をみつけて、良い結婚相手を見つけなさいとうるさかった。別にそれが、悪いことだとは言わない。自分たちが叶えられなかった、世間一般的な勝ち組の人生を娘に送ってもらいたいだけなのかもしれないし、少なくとも親にたくさんの迷惑をかけながら生きてきた私には、彼らが言う良い高校に入学して、良い大学に入って、良い就職先をみつけて、良い結婚相手を見つけることが、精一杯の親孝行なんじゃないかと思った。だから、残り少ない高校生活を捧げてしまおうと決めたのだ。恋心を捨てるぐらいの、感謝があったはずだから。

 偶然だった。私は、たまたま、アイドルという夢を叶えた想い人、島村卯月を見つけていたのだ。受験勉強の息抜きと、このデパートに来たのは間違いだったのかもしれない。だけれども、ステージの上に立つ卯月から、私は目を離すことが決して出来なかった。諦めた夢が、胸の奥で火を灯そうとしていたけれども、気づかないふりをした。この想いを知ってしまえば、軽い決意はいとも簡単に崩れ去ってしまうからだ。気づいた恋心を無視しようとしたいのに、なんて神様は残酷なのだろう。こんなにも、苦しいのならいっそ彼女と出会わなければよかった。どうしてなのだろう。親に感謝はある。いくらしても足りないくらいにあるはずなのだ。だからこそ、私は島村卯月との、夢も想いも全部全部捨ててしまおうとしたのだ。でも、いざ彼女がそこにいると感じると、ほんの少しだけ勇気を出したならば触れられる距離にいて、私にあの日の笑顔がもう一度見られるかもしれないと、無謀なことを考えてしまう。私から、離れていったはずなのに。
 お世辞にも、うまいと言えないようなステージだったと思う。だけど、卯月が夢を叶えた。あの子が願ってやまなかったアイドルになって、目指した場所にいた。私にとって、アイドルになるというのは恋をしてからは彼女の笑顔を見るための口実になってしまった。それが卯月に気づかれてしまえば、優しいから私のことを赦してくれるかもしれないが、もう二度とあの笑顔が見られないのかもしれないとなんとなくだけどわかっていた。それが、私には耐えられなかった。私にとって、島村卯月は、彼女の笑顔はあの日から私の生きるための希望とか、夢とか、そういうものだった。
 もしも、もしもだ。あの時、私がスクールを辞めなかったら、卯月の隣で、彼女の笑顔を焼き付けながら夢を見続けていたら、今この瞬間、どうなっていた?私が、卯月のそばで、隣で、歌って、キラキラ輝く眩しいあの花が咲くような笑顔を何度だって私に見せていてくれたかもしれない。アイドルに、なっていたのかも、しれない。たらればなんて、想像にすぎない。あの時たしかに私で、親のために、自分のためにやめて、卯月への想いを絶ったのだ。だから、戻ることなんてできやしない。夢をもう一度、見ることなんて無理なことなのだ。
 
 そう思っていたはずなのに。いつのまにか、私はここにいる。自分が意志の弱い人間なのを再確認しながら、もう一度夢の入口のドアノブに力を加えた。


2
 いつもの時間、いつもどおりの曜日にスクールの扉を開ける。けれども、その先には誰もいない。あの日のように、卯月が早く来て個人練習をしているわけではないし、他のスクール生も交えて談笑するレッスン後の時間もない。先生から聞いただけだが、私がやめた一ヶ月後には卯月しかいなかったという。それでも、彼女はこの場所でただ一人でアイドルとして輝ける日を待っていたのだから、アイドルになりたいという気持ちは並大抵のものではないのがわかった。
 私は、スクールを出ると真っ先に自宅に向かう。もう一度スクールに戻る事を両親が許してくれたのは、勉学もきちんと励む事を約束したからだ。否定的な言葉は、もちろん出てきた。当たり前だろう。私だって、自分の子供がアイドルという不安定な職業に就くことを一旦やめたというのに、また目指したいなんて。それでも、あの時、あの瞬間に、夢を叶えた島村卯月に憧れた。再度ステージに立つことを夢見た私は、頑なに。すぐにとは行かなかったが、それでも、なんとかこの場所に戻ってくることができた理由は、私が両親の選んだ大学に必ず入学するということを約束したから。大変だっていうことは、よくわかっているつもりだし、アイドル活動との両立が難しいことも承知の上で首を振ったんだ。間違っているなんて思ってもいないし、今だって辛いけど、投げ出したりなんて、したくなかった。
 私は、スクールに戻ったけれども、オーディションには出ないことにしている。先生には何度も何度も受けなくて良いのかと聞かれたが、大丈夫だからと笑顔で全て断っていた。理由は、そうだな、私は、待っているのかも。卯月がいつか、私の名前を優しい声で呼んで、私の手をしっかりと握ってくれて、一緒に笑顔でステージに上ってくれることを。まるで童話の世界のお姫様のようだと、自分勝手すぎる願いに笑みをこぼさずにはいられない。白馬の王子さまが私を迎えに来てくれるのを待っているなんて、ばかみたい。私には、王子さまを待つのも、お姫様になるのも資格が無いというのに。
 
 卯月の所属する346プロダクションが開催した、サマーフェスティバルに私は来ていた。なぜかと理由を問われるならば、卯月の近況を知りたかったからというのと、同じ場所で何度も足踏みをしている私と、卯月の差がどれくらいあるのかを実感するためだ。今のままではいけないことはわかっているが、オーディションを受けないという意志は変えたくないし、これ以上何もすることがなかった。何かしらの新しい刺激を受けて、自分の目指す道が開けたら、なんて思いながらここまできたのだ。
 あの日、私がもう一度スクールに戻ろうと考えた時、卯月は笑顔ではなかった。それでも、私にはあの子がステージの上で輝いて見えた。だから、私はアイドルになりたいって、アイドルになって、卯月にもっと輝いてほしい。あわよくば、隣で笑っていて欲しいって思ったんだ。
 雨だ。ぽつりぽつり、なんて優しい雨ではなく、夏特有のゲリラ雨。降水確率はゼロだと、胡散臭い笑顔を浮かべながらアナウンサーは言っていたはずなのに。濡れないようにとテントに避難してから、鞄の中を見つめる。中にはイベントのパンフレットや、財布、飲み物とか、なんてことない普通のものばかり。会場に目を向けると、ほんの少しの人しか入っていない。いつ再開するかはわからない。雨が止むのを待っていたら、その前に卯月たちはステージに立ってしまうかもしれない。私は、卯月の姿を見るためにここに来たんだ。はやく、もどらないと。雨具をかばんの中から取り出すと、私はすぐさま雨の中走りだした。
 雨が少し弱まった頃、ニュージェネレーションは舞台に上がった。あの日と同じ衣装を着て。あの日と同じ曲で。あの日と同じメンバーで。あの日とは違う笑顔で。

「ありがとうございました!」

 花が咲くようだった。卯月の笑顔は、私の暗い心を照らしてくれる。キラキラに輝いて、歌って踊って、そんな今日の卯月はアイドルだった。あの日話してくれた、キラキラした何かになりたい、その夢を確かに現実にしていた。
 私は、本当に卯月とともにアイドルになれるのだろうか。卯月の笑顔が見たくて戻ってきたのに、自分じゃその笑顔が見れなかったら? 卯月の望むキラキラとしたアイドルに私は邪魔だったら? 今、ニュージェネレーションの島村卯月として、卯月は笑っている。彼女の隣には、本田未央さんと渋谷凛さんがいる。もしかしたら、他にも346プロダクションのお友達がいるのかもしれない。そんな中で私だけが隣りにいて、卯月は笑ってくれるだろうか。あの日の笑顔を、私とともに夢を叶えたいと言ってくれた笑顔を私に見せてくれるのだろうか。


3
 私は、あの日から一層レッスンに励んだ。無我夢中、一心不乱。そんなテロップがつきそうなほど、レッスンだけを繰り返していた。理由は、なにも覚えてない。ただ私はサマーフェスが終わった後、自分が卯月の隣に立てないかもしれないと心の奥底で感じていた。でも、そのことを頭に浮かべて、ニュージェネレーションの卯月を見るだけで、寒気がして、自分がなにを見つめていて、夢見ていて、目指していたのかがわからなくなっていた。卯月のことを見つめていた。卯月の笑顔を夢見ていた。卯月の隣に並んで、一緒にステージで歌って笑ってくれることを目指していた。それなのに、私には何もかもが見えなくなって、何も考えずにレッスンだけをしていた。そのことが、すごく怖くて、自分が自分じゃないみたいだった。1人の女の子の笑顔のためだけにここまで振り回されるのはばかばかしいとも感じている。でも、私はあの子になりたいと思ってしまった。あの子だったら、隣にいれた。あの子だったら、卯月の悲しみも喜びも、全部、ぜんぶ、わけあえたはずなのに。
 最近は、泣いてばかりの毎日だった。ベットに潜り込んで、あの日あの時の卯月の笑顔を思い出して、不毛なことを何度でも考えてしまう。自分が見たかったものがあのステージにはあったはずなのに、どこで私は道を踏み出して純粋な気持ちで彼女の笑った姿を見られなくなってしまったのだろう。私には、それがわからなかった。涙を流しては眠りにつき、ふとした時に起きてしまう。すこしもしないうちに目が覚める者だから、睡眠は十分に取れていなかった。朝日を浴びながらまぶたをこじ開けるのは苦痛で、休日は昼過ぎまで寝ていることなんてざらにある。レッスンは夕方からが主だから、そのことはあまり深くは気にしていない。だけれども、不健康な毎日を送っていれば、生活に支障が出るのも時間の問題で、最近は学校の保健室にお世話になってばかりだ。こんなの、やめたいなんて何十回も思っていた。それでも、私の心の傷は想像以上に深く、傷口は塞がることを知らないとでも言うかのように、日に日に痛みが増してい行くだけ。今までなら、卯月が私の傷口にそっと触れて、優しく抱きしめて、痛みなんて忘れさせてくれていたのに。夢への歩みは、一歩も動くことはなかったのだ。

 私は、夢を見ていたんだと想う。馬鹿らしくて笑ってしまうような夢を。もう一度スクールに戻れば、レッスンをたくさん受ければ、卯月と同じ舞台に立てると思い込んでいた。でも、それはただの想像でしか無くて、その道は険しすぎる。ううん、卯月が遠い場所にいて、私の手の届く場所にいたのに、今はもう後ろ姿さえ見えない。あの日のあの時、私の隣にいて、私の名前を読んで、私に夢を語って、私に手を差し伸べて笑ってくれた卯月は、もうどこにもいない。私が立ち止まっていた時間を、あの子はただひたすらに、がむしゃらに進んでいたのだ。そんな場所に手を伸ばしたって、届くはずがない。無理なんだ。
 それでも、無理だとわかっていながらもやめられないものがある。それが、今の私の状況。卯月に手が届かなくとも、たとえその姿が一瞬たりとも見えなくても、私はこの舞台を降りることは出来ない。降りることは、したくない。親に頭を下げてこの場所に戻ってきて、つらくてもやめたくても、ずっとずっと続けていたんだ。最低でも、卯月への思いに自分なりの答えをきちんと見つけられるまで、私は当分スクールに通わなくては。もう少しだけ、きらきらの夢を見ていたかったということは、誰にも内緒だ。


4
運命の悪戯はいつも突然に、みたいなことを何かで聞いたような気がする。確かに、その通りで私がいつもどおりにスクールの扉を開けると、卯月はそこにいた。

「う、うづき……」
「……どうして、どうしてなまえちゃんが」
「わたし、私は、諦めたくなかった!卯月との、夢を叶えたかったの。だから、戻ってきた」

 本当は、いいたくなかった。卯月が私との約束を忘却の彼方に葬り去ってくれるのなら、そのままで良いと。これ以上、卯月に迷惑をかけたり、わがままをいって困らせることなんてできないから。私の個人的な気持ちで、振り回したくない。もしも覚えていてくれたとしても、卯月には帰るべき場所がある。

「……卯月は、なんでここに?」
「わ、私ですか!? あ、の、その……」
「あっ、別に無理に聞きたいわけじゃないの。卯月がいいたくないんだったら、いわなくていいよ」
「ごめんなさい……」

 俯きながら謝る卯月は、数カ月前のスクールでの姿とも、ほんの数日前テレビで見た卯月とも違っていた。人が変わったようで、怖くなった。

「あの、なまえちゃんはどうして、アイドルになりたいんですか?」
「ずっと前は、嫌なことから逃げたくて入ってたの。でも、今は違くてね。あの人の笑顔が見たくて、この場所にいるんだ」
「……えがお」
「そう、笑顔。とはいったものの、私がアイドルになって、その人の隣に絶対立てるわけじゃないし、その人が笑ってくれるかどうかはわかんないんだけどさ」

笑えていただろうか。自然に、いつもどおりに。卯月は鈍感だけど、もしも気づいてしまったらなんて考えてしまう。知らなくていい。

「…………私、わからないんです。どうしてアイドルになったのかも、これからどうしたらいいのかも、ぜんぶわかんないんです」

 卯月の声が震えているのは、わかってしまった。緊張か、恐怖か、はたまたなにかか。卯月がこのことを話してくれたのは、私が頼りになるから、なんてことはなくただの部外者だからなのだろう。あの子は抱え込みすぎて潰れてしまうタイプだから、きっとこのことは一切メンバーには話していないのだろう。自分にだけというのが、特別なように感じて少しだけ嬉しくなる。それと同時に、自分があの子のことを何一つ知らないのが悲しくなる。

「私には、卯月が何を悩んでいるのかはわからないよ。でもね、こうして一緒に隣にいて、話を何時間でも聞いてあげられる。卯月の悩みは、私ではどうにもならないことだと思うし、もっと言うと手を出しちゃいけないことなんじゃないのかな。だから、今は卯月が寂しくならないように、隣で笑ってあげる。隣で面白い話をしてあげる。隣で頑張ってレッスンしてあげる。……私には、それしか出来ないんだ」

 私なりの精一杯だった。もやもやとした気持ちで、大好きな卯月に笑ってほしかったから、なんとか頭を振り絞って考えた言葉。私は、今の卯月のことを知らないから、卯月がその問題を誰かにしゃべりたかったのか、共感してもらいたかったのか、きちんと解決してほしかったのか。どれが正解でどれが間違えなんてわからないなりに、いろいろと選んでみたのだ。私にできることを。

「なまえちゃん……」
「さあ、今日はもうこんな時間だよ。親御さんも心配するだろうし、帰ろう。ね」

 窓の外は暗闇に閉ざされている。まるで今の卯月みたいだ、なんて。

 卯月は何かを伝えようとしていたけど、それを遮るように言葉を紡ぐ。続きは聞きたくなかった。私には解決できないことを相談されて、必死に強がって返答したというのに。あの子には、素敵な仲間と頼るべき人がいる。このことをその人達に話せる日まで、私は彼女の隣りにいることが許されるのかもしれない。なににって、そりゃあね。


「卯月、おはよう」
「なまえちゃん、おはようございます! 今日も一緒に頑張りましょうね」

 卯月がこの場所に戻ってきてから、数日が経っていた。あの日以来、アイドルについての話はしていない。あれ以上深いところまで触れられたら、私は泣いてしまうかもしれない。気を抜いたら、涙が溢れ出てきそうなほどに我慢をしていたから、気を使ってくれているのかは分からないが、今の状態は心地が良いのだ。
 卯月はいつも帰るのが遅い。誰も声をかけなかったら日付が変わるまでレッスンをしていそうなほど、時間への感覚が薄くなるまで打ち込んでいる。きっと、早く仲間のもとに戻ろうと急いでいるのだろう。一時的に基礎レッスンをやり直そうとこの場所に来たのだから、いつかは元の世界に帰ってしまうのだ。今ここで、私の手が触れる位置にいて、私と話をして、私に隣にいるなんて夢みたいなこと。卯月が私に笑いかけてくれるなんて、儚く消えてしまう幻のようなものだった。


 その日はいつも以上に帰りが遅くなってしまい、スクールについたのは夕方頃だ。日が沈みかける前に、卯月が部屋全体が夕日に染まって綺麗だと言っていたことを思い出して、今日も卯月は来ているんだろうなとなんとなくだけど確信していた。

「あれ……」

 古臭くて壊れそうな音をたてて開いた扉の向こう側には、サマーフェスティバルで見たサイリウムのオレンジに染まった室内だけしかない。部屋は静まり返り、時が止まったかのように思えた。私以外すべてのものがキラキラしていて、幻想的だ。
 さっぱりとしたスクールのレッスンスタジオは、以前の部屋に戻ったかのように卯月がいた形跡はなかった。いつかのように写真に残しているわけでもなく、あの子と数日間していたのは形に残らないレッスンか会話だけ。本当は島村卯月はスクールには戻ってきていなくて、ただの体調不良で仕事は休んでいて、私が見たものは全部幻だったんじゃないか……なんてありえないことを考えてしまうくらいには、気が動転していた。
 ガチャリと音がして、もしかしたら卯月がなんて思った私は馬鹿だ。後ろを振り向いて見えたのは先生の顔で、ため息が出そうになるのを必死に堪える。俯いていた私の肩を叩いて渡したのはニュージェネレーションのクリスマスライブのチケットだった。


5
 先生に無理やり握らされたチケットは、今も手の中にある。どうやって会場まで来たかは覚えていないが、もう片方の手にはサイリウムがあって、頭が痛くなった。無意識のうちに、スイッチを入れる。かちり。卯月にピッタリの可愛らしいピンク色で、キラキラと瞬いている。卯月の笑顔のようで、いつの間にか涙が溢れて、頬を濡らしていた。必死にこらえようとしても、止まることを知らないかのよう。
 私は、いつの間にかあの子のことが好きなことを忘れていた。あの子の歌う姿が好きで、踊る姿が好きで、頑張る姿が愛しくて、私を励ます笑顔はキラキラと輝いていた。全部が全部、好きなんだ。

「……島村卯月、頑張ります!」

 私が見たかったものは、あの子の笑顔。私が好きなのは、あの子の全部。あの子がこれから先、どんなことがあっても歌って、踊って、頑張って、笑ってくれる。それだけでいいんだ。