矢吹可奈と歌の無い世界
 ぴぴぴ……ぴぴぴ……ぴぴぴ……
 いつも通りの朝。オレンジ色のカーテンから透けて差し込む朝日が暖かくて、少し肌寒く感じる春には気持ちいい。このまま寝ていたい気分だけど、どうしまぶたか瞼はぱちりと開いた。変なの。いつもはお母さんが起こしに来るまで起きないのに。まぶたは閉じないけど、頭は起きてないし、何より布団の中がとっても幸せ。だから起き上がる気持ちなんてなかった。
「可奈、朝よ」
 ドアを叩く音がする。
「うん。起きてる。おはよう」
 もぞもぞ。布団から出たくない気持ちと、着替えなくちゃ学校に行けないという感情が胸の内でうずまく。起きなきゃ、ダメだよね。私にやすらぎを与えてくれる布を取ると、すぐにでも洗面台に向かった。
 水が冷たくて、少しだけ鳥肌が。タオルで顔をふいたら、いつもどおり右手にある歯ブラシを……あれ、違う。いつもは左手側にあるヘアスプレーが、私の手の中にある。置き場所変えたのかな? よくわからないけど、とりあえず歯をみがいて、軽く髪を整えて、私はいつもどおりにリビングへ階段をかけ下りていった。
「おはよ〜、今日のご飯は?」
「今日はいつもどおりよ。ご飯に鮭、漬物にきんぴらごぼう、味噌汁。それがどうかしたの?」
「……ううん。なんでもない。いただきま〜す」
 いつもどおり、のはずなのに。いつもは、和食じゃなくて洋食。ご飯じゃなくてパンがでて、私は毎朝なんのジャムを付けるか迷っていたのに。今日は違う。変なの。ドッキリでも仕掛けてるのかな?
「可奈、おはよう。今日はお前の好きな俳優のドラマがやるらしいな」
「お父さんほんと? 録画しておいてよ!」
「しかたないなあ。来週からはちゃんと自分でするんだぞ」
「はあ、い」
 一瞬気づかなかったけど、お父さんはテレビなんて見ない。ご飯を食べるときはニュースでもなんでもみちゃダメだって、いつも怒ってたのに。新聞片手にご飯を食べていて、よっぽどそっちのほうが行儀が悪いのにってお母さんと話したのに。今日はテレビを見ている。私の好きな俳優を知っている。録画のやり方がわかっている。
「可奈? もうすぐ時間じゃないの?」
「あ、ほんとだ。ごちそうさまでした」
「可奈、いってらっしゃい」
「うん。いってきます!」
 変なの。今日のお母さんとお父さんはいつもとちがう。なんだか世界が反対になったみたい。おかしな感じ。

 スクールバッグを背負って帰り道を歩いた。学校も、朝のお母さんとお父さんみたいに変な感じがした。いつもどおりのはずなのに、なんだか違う感じがする。先生だっていつもは寝癖がついているのに、今日はぴっちりきっちりワックスで整えられていたし、友達の歩美ちゃんは黄色はハチが寄ってくるからキライだって言ってたのに、リボンは綺麗な黄色だった。胸の奥というか、どうしても手が届かない場所がすごくかゆい気分。普通にしてると全然昨日とおなじなのに、ちょっとしたところに目を向ければ、少しだけ違う。みんないつもとおなじ行動をしているのに、なんだか違う……気がする。

 とぼとぼと下を向きながら進んでいたら、どうやら駅前まで付いていたようだ。よかった、改札の前に気づけて。スクールバッグから定期を取り出す。ううん、ピッて通るのは大人っぽい。あっ、事務所近くの駅までお金が足りない……ちょっと精算機でお金払うのって恥ずかしく感じるんだよね。絶対志保ちゃんに見られたらバカにされる! でももう改札通ったからどうしようもないんだけど。あー、今日はどんなレッスンするんだろう。歌のレッスンだったらいいな!

こんな時間は、学生ばかりだから、ちょっとだけウキウキする。放課後に遊びに行く高校生の女の子たちがきらきらとした唇を動かす。私もステージに上がる時はあんな感じなのかな……。はやく次のライブがしたい! きれいな衣装を着て、ちょっとだけ背伸びをしたメイクをしてもらって……すっごくすっごくドキドキする。はやく事務所につかないかな!

 劇場のみんなに会えると思うと毎日楽しくて嬉しくて幸せな気持ちになるんだけど、この気持ちを歌にするのが一番楽しい。だけど、外で歌うのは流石に恥ずかしいって静香ちゃんに怒られたから、ルンルン気分でスキップ! スキップ! たるき亭が見えてくると、いったん止める。この前静香ちゃんに見られて二時間ぐらい正座することになったんだよね……。って、あれ? 今日はたるき亭が見えない。もしかして通り過ぎちゃった!? あずささんみたいに迷子になっちゃったのかな?

 あれ、あれれ、あれれれ? いくらさがしても事務所が見当たらない……そ、そうだ! こういうときは頼れる志保ちゃんに電話! ってあれ! 電話帳に志保ちゃんの名前がない。ううん、志保ちゃん以外のシアターのみんなのもない! どうして……!?
「お、おかあさん!」
 真っ先に目についたお母さんの連絡先に電話をかける。
『もう、どうしたの可奈。そんなに切羽詰った声出して』
 せっぱつまったってなんだかわかんないけど、とりあえず今は相談相談。
「志保ちゃんの電話番号がなくてね、他のみんなのもなくて……間違えて消しちゃったかもしれないから……」
『志保ちゃんって、新しいお友達? 可奈のお友達の電話番号なんて幼馴染の歩美ちゃんぐらいしかもってないわよ?』
「あ、あたらしい友達って……志保ちゃん先週も家に遊びに来たよ! お母さん、その時に連絡先交換してたよね? それにプロデューサーさんのも持ってたと思うし……」
『何言ってるのよ、可奈ったら。先週は家でごろごろするって言って、週末も何処にも出かけなかったじゃない。それにプロデューサーって、新しい遊び? お母さんをからかうのもいい加減にしないさいよね。それじゃあ、切るわよ』
「えっ!? ちょ、ちょっとまって!!!!」
 ピー、ピー、ピーって、スマホからは寂しい音が流れてくる。
「電話……切れちゃった……どうしよう」
 とぼとぼと足取りは重く、駅に向かっていた。とりあえず家に帰って作戦を立て直そう。それしか今はできないよね。うんうん。

 ちょっとだけ、聞き慣れた音。それでも、今日一日、ずっと耳にしなかった響き。温かなメロディーに優しい声の歌がのって、私はそのまま音の元へひかれていった。
 可愛らしい女の人がひとり、弾き語りをしている。足元には開けっ放しのギターケースがあって、その中は空っぽだった。こんなに上手なのに……まだ歌いはじめたばかり、なのかな。誰も足を止めていないから、なんだか彼女の前に行きづらい。本当は目の前でちゃんと聞きたいのに。はやく誰か気づいてくれないかな〜私がここから動けないよ。あっ! 誰だかわかんないけど、男の人がお姉さんの前で止まった! よし、これで私もお姉さんの目の前で素敵な歌が聞ける!
「ふんふふんふふ〜ん♪」
 さっきまでの気持ちはどこへやら、私の気分は急上昇! なんてったって、こんなに歌が上手な人に駅前で会えるなんて思ってもみなかったんだもん!

 ビリビリって、雷みたいに男の人の大きな声が駅前に響く。急いでいる大人の人たちはみんなお姉さんと男の人を無視したまま歩いている。歌の上手なお姉さんは諦めたような表情をしたまま、男の人の悪口を受け止めていた。私はけっこう学校で怒られることはあるけど、あんな風に怒られたことも、あんな風に周りの人が怒られたこともないから、本当にびっくりしてしまった。鼻歌は止まったままだけれど、お姉さんに近づこうとしていた脚は自然と動いて、いつの間にかお姉さんの手を掴んでいた。

「はっ、はひっ、お、おねえさん、だ、だいじょうぶですか……」
 時々みんなと一緒にパフェを食べたり、ケーキを食べたりしているファミレスに、何も考えずにきていた。事務所がいつもの場所にないから、もしかしてと思ったけど、ファミレスはいつもと同じ所にあったから安心。
「あ、ありがとう……助けてもらったのはじめてだから、びっくりしちゃって……なんでも頼んでいいよ、お礼におごるから」
「そんな! 私が勝手に連れてきちゃっただけですから、気にしないでください!」
「そしたら、私の歌を聞いてくれたお礼にってことでどう?」
「へっ!? 知ってたんですか!」
「立ち止まってくれる人なんてほとんどいないからね。ちょっと顔見えてたし」
「そ、そうなんですか……」
「お腹すいてるかわからないし、パフェにしておくね。チョコといちごどっちがいい?」
「あ、いちごで……っていいですよそんな! もうしわけないです!」
「いちごパフェとティラミスで。あとドリンクバーもお願いします」
「まっ、まってください!」
「はい。お願いします」
「あっお金! 払いますから!」
「お礼だって言ってるでしょ。遠慮しないの」
「で、でも……」
 なんだかもやもやしてお姉さんの顔を盗み見ていると、ウェイターさんの明るい声が。お姉さんの頼んだいちごパフェとティラミスは、私の気持ちも関係なしにテーブルに運ばれたのだった。
「それじゃあ飲み物取ってくるから、好きに食べてて」

「そ、それにしても、さっきは大変でしたね」
「まあ慣れっこだし」
「でも! お姉さんの歌はとっても綺麗ですごく聞いていて幸せになれました! ……そんなに、悪口を言う人が多いんですか?」
「しかたのないことだって、私は思ってるよ。だって最近法律が変わったばかりだし。それでも、私は歌が好きだからずっと歌ってるんだけどね」
 そういって、お姉さんは少しだけメロンソーダを飲んだ。私に持ってきてくれたのはオレンジジュース。炭酸は苦手だからコーラとかじゃなくてよかった。それにしても、法律が変わったばかり、っていったいどういうことなんだろう。だって今まで私ずっと好きなように歌ってたけど、そんな難しいことを考えたことなかったんだもん。
「法律が変わったって……? どういうことなんですか?」
「そのまんまだよ。知らないの? ええっと、名前聞いてなかったね」
「可奈です! 矢吹可奈!」
「私の名前はみょうじなまえ。それで、話の続きだけど、可奈ちゃんはニュースとか見ないの? 最近のことだからみんな知ってると思うけど、歌を歌ってもいいって法律が変わったじゃない」
「歌の、法律……?」
「うん。ニュースで結構やってたと思うよ。否定的なことを言う人が多かったけど」
「どういう法律なんですか?」
「簡単に言うと歌を歌っちゃダメっていう」
「歌を歌っちゃいけないんですか…?!」
 なまえさんの言葉に、私はすごくびっくりした。私にとって歌を歌っちゃダメな時は授業中と、集会中と、誰かが真剣な話をしているときだけだから、法律でしばられちゃうなんて、夢の世界みたいな話だとしか思えない。歌を歌っちゃいけないって、どんな感じなんだろう。歌は私が息をするのと同じくらい当たり前のことで、大好きなことだから、なくなっちゃうっていうのが考えられない。
「まあ。法律で改訂されたけど、今までずっと音だけの音楽しか世界になかったから、あんまり良くない印象を持ってる人のほうが多いかな。私はずっと前に外国の歌を聞いて、すごく素敵だなって感じてこういうことをしてるんだけど」
「う、嘘……じゃ、ないんですよ、ね……」
「可奈ちゃんは知らなかったの? もしかしてお家の人が歌が好きだったり?」
 なまえさんは不思議な顔をして、私を見つめる。
「……なんて説明したらいいのか、わからないんですけど、私は歌がすっごく好きで、今までずっと歌詞のない曲も、歌詞のある歌も両方普通に街中で流れたり、テレビで歌ったり……してたんです。だから、歌が法律で禁止されちゃうなんて、想像もつかなくて……」
「それって、私と可奈ちゃんが生きてる世界が違ったりしたの、かな?」
 ほんの少し時が止まった。私となまえさんの目があって、周囲の音が聞こえなくなる。なまえさんが言っていることが分かったとき、きっと私は世界の終わりみたいな顔をしてたのかもしれない。
「せせせせせ世界が、違う!?」
「だって私、そんな日本知らないもの。歌だとしても、言葉っていうのはとても大切で、娯楽に容易に使ってはいけないって小さい頃から刷り込まれてきたんだから。おかげで古い友達には白い目で見られているの」
 ……不思議な気分。そんな世界を私は知らないから。
「でも、こうして私に声をかけてくれて、なおかつ歌を好きな子と会えたことはとても嬉しいから、やっぱり好きでよかったなって思うな」
「わ、私も嬉しいです! こんなに素敵に歌うなまえさんと出会えて!」

 それから少し、歌の話をした。どんなのが好きだとか、この世界と私の世界の歌の話。でも、歌が普通にあった世界と、今いる世界が違うっていうのが、あまりにも大きなことで私はまだ受け入れらない。それでも、なまえさんが音楽が大好きなことが伝わって、なんだか私も嬉しくなった。

「もうこんな時間だ。可奈ちゃんはまだ中学生だったよね。御両親は心配しない?」
「へっ!?」
  時計を見れば、もう6時過ぎ。いつもは遅い時間になる時はお母さんに連絡してるんだけど、今日は話が盛り上がってなにもしてないから、もしかしたら心配してるかも……。
「多分心配してるよね、それじゃあ解散にしようか。親御さんになにか聞かれた時のために、一応連絡先、渡しておくね」
 さらさら〜ってなんてことのないように紙ナプキンに連絡先を書いていくなまえさん。アイドルからサインを貰う方の気持ちってこんな感じなのかな?
「あっお金、いくらですか!」
「もう。さっき言ったよね、奢りだよって。お姉さんに甘えておきな」
「あ、ありがとうございます! またお話してください!」
 とっさに開きかけてたお財布から百円を渡す。気づいてなかったけど、お財布の中にはこれ以外入ってなかった。多分定期にはまだお金あると思うけど、なまえさんがおごってくれるって言ってくれてよかった……なんて。えへへへ……。
「こ、これ……」
「私の世界? では駅とかで歌ってる人に興味とか持った人がお金を渡すんです! これから頑張ってねって気持ちを込めて! だから、これは私からの気持ちです!」
「わ、私、前に見たことがあるの……海外の映画だったけど……あ、ありがとう可奈ちゃん。すごく、すごく嬉しい……」
 私が渡した百円玉をきらきらした目でみつめるなまえさん。そ、そんなに嬉しいのかな〜! わたせてよかった!
「えへへっ! 私も頑張るんで、なまえさんも頑張ってください!」
「うん……ほんとにありがとう……」
「なな、なんで泣いてるんですか〜!!! 泣かないでください!」
「ううっ本当にありがとう……頑張るね……!」

 それからお会計でなまえさんがお金を払って、二人で一緒に駅まで行った。私の住んでる所の駅とは真逆の方になまえさんのお家はあるらしくて、ホームで別れちゃったんだけど。家についたら、お母さんとお父さんが想像以上に心配していて、ふたりとも玄関先で待っていた。いつも事務所から帰ってくる時間はこれくらいだから、なんだか変な気分。


「可奈〜! 起きなさ〜い」
 パチリと目を覚ますと、いつの間にか朝になっていた。ドアをノックするお母さんはいつも通りで、目覚まし時計を止めていたことさえ忘れている私もいつも通り。
「おはよ……」
 洗面台においてある歯ブラシの位置もいつも通りだし、お父さんはムッとした顔で新聞を読んでいる。テーブルに並んでいるのはパンだし、今日はイチゴジャムを付けようと私はいつも通りに迷って決めた。
「可奈、昨日志保ちゃんから電話がきたのよ。今日は体調でも悪いんですかって。レッスン行かなかったの?」
「え、し、しほちゃんから電話……?」
 もしかして、昨日のって全部、夢だったり?
 そう思った瞬間、私の手は制服のポケットに。くしゃりと手のひらで小さくなったそれは、確かに昨日なまえさんからもらった連絡先の書いてある紙ナプキンだった。