生まれながらの神様


受付で彼の名前を告げると、露骨に嫌な顔をされた。
でもそれはまばたきほどの、ほんの一瞬のことで、看護師はすぐに穏やかな表情を持ち直し、角部屋の個室を案内してくれた。
入院して間も無く、大部屋から個室に移されたのだという。

ありがとうございます、と一礼して、矢印が書かれた階段に向かう。視界の端で、さっきの人が早速同僚らしき隣の人物に耳打ちする姿が見えた。

目的の部屋の前に立ち、ひとつ深呼吸をしてから扉を開ける。部屋の主はこちらに背を向けたまま、ベッドに横になっていた。


「飛段」


振り向いた顔の額には大きめのガーゼが貼ってあり、私の姿を捉えると気怠そうに身体を起こした。
そばに近づき、適当に椅子を引っ張ってきて座る。


「わざわざ見舞いに来るたァ、お前も暇な奴だな」
「飛段がいないと退屈なの」
「フハッ。だろーな」


病院着から、白く骨張った肩がはだけて揺れる。
目のやり場に困ってしまって、咄嗟にすっと視線を斜め下に落とした。クリーム色の壁を一瞥した後、また戻す。


「もう、大丈夫なの?」
「見りゃわかんだろ。さっさと退院させろってんだよ」


人づてに飛段が里の灯台から飛び降りたと聞いたときは、一瞬で目の前が真っ暗になった。
その場で崩れ落ちないように、精一杯背筋を伸ばして立っているのがやっとで。

ところが、なんと彼は生きていた。
それどころか、大きな怪我も後遺症もなく、渋々入院させられている。
にわかには信じられない話だけど、実際、目の前で飛段は生きている。
あちこち包帯は巻かれているものの、さっきから違和感なく話せているし、相変わらずの傍若無人な態度は、最後に彼を見た時と少しも変わっていない。
奇跡としか言いようがない。


「クソの掃き溜め以下だぜこんなトコ」


どすん、と飛段が拳を振り下ろすと、掛け布団が形通りに丸く窪む。
ベッドにピンと張られたシーツはシワひとつなく、1人で使うには広すぎる部屋は隅々まで掃除が行き届いている。

それでも、飛段にとってはこの里のどんな景色も灰色に見えるんだろう。
透き通ったガラス窓の外は、今日も曇っている。
霞をぼんやりと眺めていると、不意に「なまえ」と呼ばれた。


「お前、里の外見たことあるか」
「…ないなぁ」


覚えのない記憶を巡らせてみても、やはり生まれてこのかた、里の外を見たことも、そもそもこの里を出たことすらなかった。


「俺もねェ。あそこからも見えなかったぜ」


飛段が指している『あそこ』が、飛び降りた灯台のことだとすぐにわかった。
私も登ったことはある。どこまでも鬱蒼とした緑が広がるばかりで、遥か遠くに霜の国がうっすら見えるような気がしただけだった。 

地図で見る湯の国は小国だけど、それ以上に私たちは小さい。


「外はどんなんだろーなァ…」
「ここより危険だろうね」


私も飛段も、まだ国外に出るような任務は経験がない。
この国ではそんな機会自体少ないということを差し引いても、飛段はともかく、私に任されることはないだろうけど。

私たちは先の大戦の終わり際に生まれて、物心ついたときには今と同じ平和な毎日が繰り返されていた。それはもう、飽き飽きするほど。


「ぬるま湯に比べりゃずっとマシだ」


おもむろに飛段がベッドから出て窓を開ける。湿度の高い空気が流れ込み、ほわあ、と硫黄の香りが鼻腔をくすぐった。

もう嗅ぎ慣れてるけど、里中どこにいても付いてくるこの匂いが、私はあんまり好きじゃない。
「あー、くせェー」って、飛段も同じことを言う。自分で開けたくせに。


「なんで…飛び降りなんてしたの」
「知らねェ。なんとなく」


自分のことなのに、まるで他人事みたいに言う。
チチチ…と二羽の野鳥が低空飛行で通り過ぎた。


「けど、すげー気持ちよかったんだよなァ…
あぁ生きてる〜ッ!って感じがしたっつーか」


今でもアン時の感覚思い出すとたまらねえ。

目を瞑って恍惚とした表情の飛段を見て、何だかムッとした。


「私は死んだかと思ったよ」
「あァ、目が覚めて絶望したぜ。結局このままダラダラ死んでくしかねーのかってな」


飛段が薄く目を開いた。
色水のように透き通った瞳はため息が出るほど美しいのに、そこには生気がない。

いつの日だったか、里の外れで見た一匹の魚を思い出した。真っ白な腹を天に向け、川面でゆれる鱗が悲しいくらい綺麗だった、名前も知らない魚。


「お願いだから…私の見えないところで死なないでよ、飛段」


一報を耳にした時の、身体中の体温と血液が下がっていく感覚が蘇る。
背中に冷たい汗が流れて、もう彼はどこにもいないんだと思うと、苦しくて息が上手く吸えなかった。
それでもあの時は涙なんか一滴も出なかったのに、今になってようやく目の淵に熱いものが迫り上がってくる。


「じゃあなまえ、俺と一緒に死ぬかァ?」


それが引っ込む間もなく、いきなり手を掴まれた。ぼやけた飛段の顔がすぐ近くにあって、筋肉質な腕が腰に回される。
堪えきれず両目から雫がこぼれ落ちて、クリアになった視界に映ったのは、窓の桟にかかった白い素足。刹那、抗えないほど強い力で引っ張られて視界がぐらりと傾いた。

身体が浮く。
ヒュッ、と息を吸った。

ツンと冷えた指先を手の中に折り込んで、思わず飛段の首元に顔を寄せる。うっすらと、自分のとは違う汗の匂いがする。ぎゅ、と腰を引き寄せられた。
物凄いスピードで流れていく背景とは対照的に、心臓の鼓動は規則正しく打つ。生温い風が頬を撫でていく。確かに、真っ逆さまに落下しているのに、不思議と怖い気持ちはなかった。

あぁ、生きてる。
今、どんな瞬間より、生きていると感じる。

さっきの飛段の声が、頭の中で響いた。


が、突如として目の前が濁り、広がった小さな泡に全身を包まれた。
耳を塞がれたように音がくぐもって、肺の中に一気にあたたかい水が流れ込む。苦しい、


「ご、ごほっ、ごほっっっ!!」


酸素を求めて顔を上げると、もう一度がぶりと口元の水を飲んでしまった。
深い湯気の向こうで同じように咳き込む声がする。
思いっきり水に打ちつけたせいで、皮膚の表面がジンジンと痛い。
身体中の血液がドクドクと巡り、少しずつ耳鳴りが遠のいていく。


「おい、なまえ、いるかァー?」
「い、いるっ、けど!」


呼吸を整えながら、なんとか声を上げる。
顔中滴り続ける水滴を払う間に、ゆっくりと目の前の湯気が晴れていく。前髪を下ろした姿を見るのは、かなり久しぶりだった。


「な、なにするのっ…!!」
「あーあー、うっかり生きちまって。悪運のつえー奴」


意味がわからない。
あたたかな湯に浸かり、腕で水面を、脚で水中をかいていると、だんだん頭が熱くなってくる。


「私、死にたいなんて言ってない!」
「なに、違ったワケ?顔に書いてあったけどなァ〜」


デタラメ言わないで、と手元の水を思いっきり叩いたら、ニヤついた無防備な顔面に直撃した。
なにしやがる!と鋭く睨みつけたその視線はすぐに逸れ、舌打ちする。

あ、とそこで私もようやく今の状況に気づく。
ここは病院敷地内の温泉で、傷病者が傷を癒す治療場所なのだ。患部を湯に浸していた患者や、付き添いの看護師が何人かいて、彼らは皆一様に腰を抜かして呆然とこちらを見ている。
ややあって、あたりが騒がしくなり始めた。


「おい、早く出ろ!」
「う、うん!」


先にとび出した飛段に続いて、湯から上がる。
濡れた地面に足を滑らせそうになりながらも、一目散にその場を後にする。

水をたっぷり吸った衣服を時々絞りながら彼の背中を追いかけ、どうにか塀をよじ登って外に出ることができた。これでも一応忍者の端くれというべきか、修行してて良かった。


「2回も飛び降りなんてヤバすぎ」
「それを許しちまってる時点でどうかと思うぜ、どこもかしこも」


走るのをやめて振り返っても、病院はもう見えない。
あーあ、強引に逃げ出してきちゃった。
少しの後悔が胸に浮かんだけど、当の飛段は妙にスッキリした顔をしていて、それを見ていたら私もあっさりと気持ちが晴れてきた。

脚にまとわりつく包帯を乱雑に取っ払い、風に手放す彼に向かって声をかける。


「ねえ、飛段」


いつか本当にこの里を出ていく時、その時はもう二度と帰らないことも知ってる。
落ちていくとき、死ぬことよりもはるかに怖いのは、飛段がこの世界のどこにもいなくなることだった。

一緒に生きて、なんて言えないけど、一緒に死ぬか、って言ってくれて、


「ありがとね」
「はァ?なにが」


飛段は私を見下ろしながら、怪訝そうに片眉を上げた。
「つーか肉食いてー」と灰色の空を仰いだその背中に一瞬、あるはずのないものが見えた気がして、あわてて目を擦った。




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