一気にあおったグラスをテーブルに置くと、ガンッ、と思ったよりも大きな音が出てしまった。
しまった、と思ったけど、隣にいた東が後ろを振り返って小さく頭を下げると、背中に刺さっていた視線は気まずそうに逃げていく。


「随分と荒れてんな、今回は」
「…思ったよりダメージ受けてる」


最近忙しいという彼氏、いや今となっては元彼氏に、晩ごはんを作りに行こうと、仕事帰りにサプライズで家に立ち寄った。
玄関で真っ先に目に入ったのは、見知らぬ真っ赤なハイヒール。薄汚れたスニーカーともつれあうように、共に脱ぎ散らかされていた。
恐る恐るその先のドアを開けると、あられも無い姿の彼、その下には知らない女が組み敷かれていた。
その直後、私たちはほぼ同時に口を開いたけど、何を言ったか、もしくは言われたかは覚えていない。合鍵もスーパーの袋も投げつけて、走って家を出た。

あてもなく駅まで来たところで、東とばったり出くわした。
東は私の顔を見るなり何も聞かずに、飲み行くか、とだけ言った。
私はただ黙ってついて行き、暖簾をくぐった先で東が適当に頼んだ料理やお酒に口をつけるうち、今に至る。


「なんで毎回こんなことになっちゃうかな〜…」
「なまえにも問題あんじゃねえのか」


東は、突っ伏した私に当たらないようにグラスを傍にどけた後、再び煙草を唇に寄せた。


「え、私が悪いの?」
「男に尽くしすぎだ」


それは自覚ある。
好きな相手には何でもしてあげたくなってしまうのが私の性格。
突然真夜中に呼び出されたって、料理の味付けにケチつけられたって、会うたびにお金を貸して欲しいと強請られたって、私に出来ることなら何でもと思うし、実際そうしてきた。それが愛だと思ってたから。
こんなこと、間違ってるのかもしれないけど。
というか、間違ってたからこんな目に合ってるのか…。


「気づいてるくせに目逸らそうとすんのも、甘めえんだよ」
「う…」


浮気されるのは、今回が初めてじゃない。
だから、東が言うように何となく"そんな空気"には敏感な方だと思う。
でも、それを認めたくなくて、まだ決定的じゃないうちは、あの手この手で嫌な予感に気づかないふりをしてしまう。

その結果、最後はいつも空回り。
今までは強引に別れを切り出されてきたけど、今回はついに決定的瞬間を目の当たりにしてしまった。
思い出して、頭が痛い。


「東の言う通りだよ。私、恋愛向いてないみたい」
「そうは言ってねえが…相手を選べ、って話をしてる」
「じゃあ、良い人紹介してよ。東が選んだ人なら間違い無いからさ」


「お前な…」と、東が眉間の皺を一層深くする。
これは心底呆れて怒ってる顔だ。

冗談だよ、半分は。
そう言いかけて、東の好物は何だったかと、目の前のお品書きに手を伸ばすと、突然ぐいっと手首を掴まれた。


「?!」


その先に視線を移すと、東の顔は怒ってるというより、なぜか苦しそうに見えた。
彼らしくない、突発的な行動の真意が読めなくて、ぎょっとしつつも何か理由があるはずと答えを待つ。
…何にせよ、おっかないことに変わりはないんだけど。


「俺にしろよ」


低い声で、でもしっかりと発せられた言葉に思考が停止した。
反射的に聞き返すより先に、東が続ける。


「もううんざりなんだよ、好きな奴が他の男のせいで傷ついてんのは」
「……す、すきなやつ、 って…」


口にした途端、ぶわっと顔に熱が集中するのがわかった。
耳に飛び込んできた言葉をただおうむ返しするしかなく、この状況に頭が追いつかない。


「お前のことだよ。なまえにだって俺しかいねえだろうが」


何で。
東が、 私を?
一体、いつから?

手首から伝わる熱が、頭に浮かんだ言葉を口にする間もなく、どんどん奪っていく。
東は黙って私を見つめている。


「…酔ってる?」
「それ以上ふざけたこと抜かすとはっ倒すぞ」
「すっ…すいません…」


そういえば東は今日全然飲んでなかったな。
まだ一杯目のグラスも、綺麗な取り皿にも、今更気がついた。

掴まれていた手がパッと解放される。


「そろそろ出るぞ」
「ちょっと!待って、」


まだ半分以上残った煙草を灰皿に押し付けて立ち上がった東を制止しようとするも、すたすたと出て行ってしまう。椅子にかけた上着を引っ掴んで、ぬるくなったお冷を一口含んだ。
レジの前まで来た時、店員さんに深々と頭を下げられて、この場は済ませてくれたのだと知る。

先にお店の外に出た東が通りに向かって手を挙げると、すぐに空車のタクシーがこっちにやって来るのが見えた。
ここは神室町、今夜は華金だというのに、何でこんな時に限って簡単に捕まっちゃうかな!


「…ひがしっ、」


彼の袖を掴むより早く、目の前でタクシーが停車した。
東はすかさず運転席に回って、ここから会話は聞こえないけど、多分きっと私の最寄駅を伝えてくれている。賑やかなはずの街の喧騒はどこか遠くに感じて、ゆっくりと点滅を繰り返す赤いテールランプを見つめていた。

そもそも東は人をたぶらかすような冗談を言うガラじゃない。

私が泣き始めるとめんどくさそうに頭を撫でてくれて、愚痴になると自分まで額に青筋を立てながら、私が好きな甘いお酒をグラスいっぱいに注いでくれる。
今度こそは、と言えば、「なまえも懲りねえな」と普段は下がってる口元を少しだけ緩めるのだ。
こんなにも鮮明に思い出せることに、自分でも驚いた。


「気をつけて帰れよ」


戻ってきた東とほぼ同時に、後部座席のドアが開く。
乗り込む時に頭をぶつけないように上部を手で覆ってくれるのは、前職からの癖だと知っているけれど。


「…帰りたくない」 


目を見てはっきりと訴えると、東は「あぁ?」と小さく呟いて眉をぴくりとさせた。
さっき掴まれた手首が、まだ熱い。たくさん飲んだはずなのに、いつの間にか喉が渇いている。


「言い逃げなんてずるいよ。私の頭の中、もう東でいっぱいなのに」


あんなこと言われて、このまま大人しく帰れるわけない。
果たしてこれが『そう』なのか、今までのとはまるで違うからわからないけど、さっきから彼のひとつひとつの動作に、表情の僅かな動きにすら、目が離せないでいる。


「ちゃんと最後まで責任とってよ」


東は一瞬目を見開いた後、「あー…、クソ」と頭を掻いた。
乱れた髪から覗く耳が少しだけ赤いのだって、きっと見間違いじゃないはず。


「弱ってるところに付け込もうとしてんだぞ。流されてんじゃねえよ」
「東になら…いいかなって」


そういうとこが甘めえんだ、と、溜息をつかれる。
でも、失恋するたびに毎回私に付き合ってくれる東だって、大概甘いと思う。


「お客さん、乗るの、乗らないの」
「すまねえ、やっぱ行き先変更で」


痺れを切らした運転手にそう告げた後、おら奥行け、と私の肩に触れる。その手つきはやっぱり優しくて、声もさっきよりちょっと弾んでいる気がする。
なんて、自惚れだろうか。

かく言う私も、頬が緩んでるのを隠せてない。
狭いよぉ、なんていかにも嬉しそうな声が出てしまう。

ドアを閉めて、タクシーがじんわりと動き出すと、私たちはどちらからともなく手を握った。




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