きららかに恋


ふと横を通りかかったついでに、証明写真機のわずかな鏡に近づく。
前髪は今朝入念にセットしたカールがまだ残っているし、目尻のアイラインも滲んでいない。リップも少し前に塗り直したから大丈夫。
2,3秒でチェックを終えてから、よしっ、と小さく気合を入れた。

少し重たいガラス戸を開けて、目的地のビルの中に入る。階段を一段ずつ登って2階にある事務所へ。


「お邪魔しまーす」


いつもより少しすました声でゆっくりと扉を開けると、「おぉ、よく来たな」と真っ先に気がついたのは海藤さん。続いて、その奥にいた八神さんが「いらっしゃい、なまえちゃん」と、週刊誌から顔を上げた。
軽く会釈して、部屋の中を一通り見渡す。
かの人の姿が見えないことに、思わず肩を落としてしまった。


「んなガッカリした顔すんなよ」
「午後が空きになっちゃったんで、寄ってみたんですけどね…。あ、これよかったら」


煙草を灰皿に押し付けた海藤さんに、来る途中で買ったお土産の箱を差し出す。
ありがとな、と受け取ったものの、箱を開けて、こりゃあ…と顔をしかめた。
椅子から立ち上がった八神さんも覗き込む。


「俺たちの分まで、悪いね」
「俺ぁいいや。食い切れる自信がねえ」


箱の中身は、口溶けなめらかなクリームと甘酸っぱいジャムがたっぷり詰まった、今巷でバズってるふわふわドーナツが4つ。外側にはたっぷり砂糖がまぶしてある。


「杉浦さんの分、ちゃんと残しといてくださいね!」


海藤さんから箱を預かった八神さんに釘を刺すと、わかってるって、と苦笑いされた。

ここにいる八神さんと海藤さんも含め、杉浦さんは探偵のお仕事をしているので、スケジュールは不規則でいつも会えるとは限らない。
個人的な連絡先なんてとても訊ける勇気はないので、知り合った時に教えてもらった八神探偵事務所が、彼との唯一の接点。


『困ったことがあれば、いつでもおいで』


当時私は高校生で、学校帰りに制服を改造し、覚えたての化粧をしては神室町でよく遊んでいた。
ある時少々遊びが過ぎて、ちょっとしたトラブルに巻き込まれたところを、杉浦さんが助けてくれたことがきっかけ。

以来私はすっかり心を奪われてしまい、卒業すら危ぶまれる中、大学進学へと大幅に進路変更。
猛勉強と無遅刻無欠席を続け、それでも足りずに補習も追加した末、今年の春に晴れてキャンパスデビューを果たした。


「なまえちゃんも健気だねえ。頼まれりゃ俺から杉浦の奴に言ってやるのに」
「絶対、だめです!!」


即座に拒否すると、海藤さんはへいへい、と腕組みして椅子に座り直した。

私としては、今の関係が心地良くもある。
想いを伝えれば優しい杉浦さんはきっと困るだろうし、私もここに来づらくなる。
いずれはとも思うけど、今はその時じゃない。
そんな理由で、いつでも来ていいよ、という彼らの言葉に甘えさせてもらっている。


「でも杉浦さんお仕事中なら、私は帰りますね…」 
「どうせ午後から暇なんだろ?ここで待ってりゃいいじゃねえか」
「だってまだご飯も食べてないし…」
「と言うより、そろそろ戻ってくるんじゃないかな」


ほら、と八神さんがスマホを取り出して私たちに画面を見せる。
そこには、妙に貫禄のあるまだら模様の猫と、片手で抱えた杉浦さんの自撮り写真が映し出されていた。


「お、そのドラ猫やっと捕まったか!」
「飼い主に返しに行ってから戻るってさ」
「かわいいの渋滞が起きてる…っ!」


不機嫌そうに腕に収まる猫が心から羨ましい。
杉浦さんのことだから、おおよそ人が行けないところまで一生懸命追いかけたのだろう。
髪の毛が少し乱れてるけど、それすらちょっと色気を感じてしまうからずるい。

一生懸命両目に焼き付けていると、階段を小気味良く登ってくる音がした。
まもなくしてドアノブがガチャっと回る。


「ただ今戻りましたよーっと」
「お、噂をすりゃあ何とやら」
「なに、2人で僕の噂してたの?…って、なまえちゃん!」


来てたんだね、と爽やかスマイルをくれる杉浦さんに、はいっ、と思わず猫撫で声が出てしまう。
八神さんと海藤さんが揃ってニヤニヤしているのには、気づかないふり。


「あ!これって、」


杉浦さんはすぐに机上のドーナツの箱に気がついた。
既に開きかけの口を広げて中身を確認すると、私の方にくるっと視線を戻す。


「もしかしてなまえちゃんが持ってきてくれたの?」
「杉浦さん、気になってるけど1人じゃお店入りにくいって言ってたので…」
「覚えててくれたんだ。ありがとね」


覚えてますとも。
今日の講義の内容は忘れても、杉浦さんと話した内容を忘れるはずがない。

座って食べようか、とひとつ手渡してくれたドーナツを受け取り、ソファに並んで体を沈める。

いただきまーす、と片手でかぶりつく横顔をしっかり見届けてから、いつもよりずっと小さく開いた口でひとかじり。
途端、口の中でシャリシャリとした砂糖とふわふわの生地が混ざり合う。
まだ全然中身には辿りつかないけど、なるほど確かに美味しい。


「もう大学には慣れた?」
「はい!仲良い子も何人かできて、毎日楽しいです」


それは良かった、と杉浦さんが微笑む。
元々ちょっとタレてる目元が、笑うととびきり優しくなるところも、たまらなく好きだなぁと思う。


「でも、なんだかどんどんなまえちゃんが遠くにいっちゃうみたいで寂しいかも…なんて」
「そんなこと…っ!私はいつでも杉浦さんのそばにいますから!!」


杉浦さんは一瞬目を丸くして、ドーナツを持ってない方の手で襟足を掻いた。


「嬉しいこと言ってくれるねえ、なぁ杉浦?」
「あ、海藤さんってば!」


ふと声の先を見ると、海藤さんがちゃっかりドーナツを貪っていた。さっきはいらないって言ったのに。
それに、


「口の周り砂糖まみれですよ!もう〜」
「あ?」


顔の周りをぐるりと囲うあごひげまで、白い砂糖がたっぷり付いている。よく見るとジャムやクリームまで。

ドーナツと一緒につけてくれた紙ナプキンを手に取り、ひとつは自分の食べかけの下に敷く。もう一枚は海藤さんの口元に。
いいって、と拭おうとする手を押しのけて何度か唇を往復すると、ある程度綺麗になった。


「なんだよ、食いづれえなあ」
「海藤さんがヘタクソなんですよ。杉浦さんはお上手に食べてるのに…」


振り返ると、杉浦さんはドーナツを手にしたまま少し俯き気味で、表情は影になっていてよく見えない。


「?すぎうらさ…」


不安に思い声をかけようとしたものの、すぐに元通り視線が交錯する。
その表情がいつもの柔らかいもので安堵するとともに、形の良い唇が開いた。


「そういえば大学合格のお祝い、まだしてなかったよね」


合格の報告をしに事務所に来た時、そんな話が一度浮上した。
結局、仕事の依頼が立て込んでいたり、私も春休み中は忙しかったりで、なかなか全員の予定が合わず、落ち着いてからにしようということになったけど。


「ご飯行こうよ。僕がご馳走するからさ」
「えっマジで」


すかさず反応したのは八神さんで、いいの?杉浦、と問いかける。

あの時は口約束かと思ったけど、まさか杉浦さんがその話を覚えていて、金欠の八神さんや最年長の海藤さんに代わってご馳走してくれるというので、ものすごく驚いた。
嬉しさと恐縮で、胸が高鳴る。


「嬉しいです!じゃあみなさんの予定を…」
「いや、ふたりで」


杉浦さんの言葉に、しん、と一瞬その場が静まる。

…….ふたり?

思わずそのままオウム返しに繰り返すと、杉浦さんはさも当たり前のように頷く。


「僕となまえちゃんと、ふたりでがいいんだけど」


声音は変わらず優しいけど、さっきまでより明らかに強めの語気や真っ直ぐ射抜くような視線から、決して有無を言わせまいとする強い意志を感じる。
八神さんと海藤さんも察したのか、どちらも椅子に深く腰掛けたまま、いつもの軽口ひとつ聞こえてこない。


「そうだ。八神さん、ペン借りてもいい?」
「あ、あぁ」


はっとした様子の八神さんが投げたサインペンを、杉浦さんは器用にキャッチする。
それから余っている紙ナプキンをひとつ取ると、ドーナツを口に咥えながらサラサラと何かを書き始めた。

ものの2、3秒でキュッ、とキャップを閉める。
書き終えた紙ナプキンを細い指で摘んでひらひらと乾かしてから、はい、と渡されたそこには、11桁の数字。まさか。


「なまえちゃんの都合がついたら教えて。あと食べたいものも考えといてね」


思わず凝視していた手元の数字から顔を上げる。コクコクと何度も首を縦に振るので精一杯。
それを見た杉浦さんは満足そうに笑うと、ドーナツの残りを口いっぱいに頬張った。



〻 



帰宅後、ポケットの中から丁寧に折りたたんだ紙ナプキンを取り出して開く。番号はすっかり覚えてしまったけど、もう一度確かめながら数字をタップする。紙の上にわずかに残る砂糖のザラついた感触を指でなぞりながら、コール音を待った。

音が途切れた瞬間、いきなり「なまえちゃん?」と甘く鼓膜を震わせた声に、スマホを落としそうになった。
電話の向こうで杉浦さんはくすくすと笑っている。


「びっくりした?」
「しますよ!なんで私の番号…」
「八神さんが知ってたよ」
「…あ」


事務所にお邪魔する以上、一応主人である八神さんに断りを入れるのが筋と思い、随分前に連絡先を交換したんだった。
それでも今では、連絡なしに直接押しかけてしまうことが多くなってしまったけど。


「僕に用事があるくせして八神さんと連絡取ってるの、なんか面白くないなーって」


電話口から聞こえる少し拗ねたような声に、動揺してしまう。
きっと冗談なのに、杉浦さんは「困らせちゃったかな」と優しく続けるだけだった。





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