どうやら、日本史の授業後らしい。
黒板には一番上までビッシリと白い文字が埋め尽くされていて、しかもあの先生って筆圧まで濃いから、なかなか消せない。
小柄な女子が精一杯爪先立ちをしても、ピョン、と一瞬ジャンプしても、わずかに掠めるだけ。
そんな時、斜め上から別の長い腕が伸びてきて、高いところもサッと消し去る。
「手伝うよ」
「ありがとう、花形くん」
彼の前では誰もが上目遣いになってしまう。あくまで不可抗力ではある。
けれど、微笑まれた本人は眼鏡の奥の目の色ひとつ変えずに、淡々と手を動かして元通りの目に優しいグリーン一色に戻してしまった。
「花形ぁ〜!俺まだ写してる途中だったんだよぉ〜」
「あぁ、悪いな。俺のノート貸してやるから」
「マジで?!ありがと〜!!花形のノートわかりやすいんだよなぁ」
手を合わせて心底有り難そうに拝む男子に、言葉通りノートを手渡す。
教科書より先生がまとめた板書より、わかりやすいともっぱらの評判だ。
「花形!昼休み、学園祭のことで話し合いたいんだけど、お前も出てくれないか?昼メシ食べながらでいいからさ」
「あー…、確認する」
呼び止められたクラスメートに応えて、教室の入り口へと踵を返した彼と目が合った。「あっ」と口を開いた後、こちらに向かって歩いて来る。
「なんか、忙しいところごめんね」
「いや、気にするな。それでみょうじ、今日の昼なんだが…」
「聞いてたよ、大丈夫。私も今日はクラスの子と食べるね」
「あぁ…悪い。そうしてくれると助かる」
少し眉を下げて、申し訳なさそうな顔をする。謙虚で律儀な性格に、かえってこっちが恐縮してしまうこともあったけど、最近は素直に受け取れるようになってきた。
「いいよ、また明日ね」と軽く手を振って教室をあとにする。
ひとつ挟んだ隣の教室に私が入るまで、見届けてくれる。あの花形透が。
それだけで特別だって思わなきゃ、バチが当たりそう。
「あれ、今日花形はー?」
「学祭の話し合いによばれてる」
「相変わらず人気者だねえ」
机を囲んで昼食をとる友人たちの輪に加わるやいなや、口々に理由を訊かれる。
翔陽バスケ部のスター・花形透と私が付き合っていることは、友人間で何かと話題に上る。
「でも、クラスも違うし、朝も帰りも別々でしょ?昼休みしかチャンスないのに」
「仕方ないよ、花形の一分一秒は高いの」
花形は私に、自分と同じように早起きや帰りが遅くなることを良しとしない。
部活外もバスケ部の人たちとミーティングしてることが多いし、1人の時間も大切にしたいはず。
そのため、昼休みだけは一緒に過ごすことになっている。それも、今日みたいに予定があれば毎日とはいかないけれど。
「なんか……慎ましいを通り越して無欲すぎ」
「アンタら、ほんとに付き合ってるんだよね?」
「つっ…、付き合ってるよ!」
不満げな友人たちに詰め寄られて、思わずたじろいでしまう。事実なのに、自分で言ってて惨めな気分になってきた。
「だって、花形のことはみんな好きだし、私が独り占めしちゃダメでしょ…」
「なまえにはその権利があるの!」
ピシ!と割り箸で顔を指された。
だって花形はいつも周りのことがよく見えていて、クールそうだけど困っているとさり気なく手を差し伸べてくれて、しかもそれが全然押し付けがましくなくて。
そんな彼のこと、慕わない理由がない。だから花形の近くには、男女問わずいつも人が集まっている。
「でもよー、やっぱ花形は花形自身のもんだろう」
輪の外からやや低い声が割り込んできた。その先にいたのはこれまたバスケ部のスター。
「藤真はなまえから彼女の特権を奪う気?」
「花形のことは、アイツ自身が自分で決めるってことだよ。誰に優しくしようが、誰と一緒にいようが、信じてどーんと構えてやれるのが彼女の特権ってやつじゃないのか」
藤真は頬杖をつきながら、チラリと私の方に視線を移した。
「わかってると思うけど、見境ない男じゃないしさ。みょうじ、もっと自信持てよ」
叱咤されるのかと思ったけど、藤真なりに励ましてくれてるのかもしれない。
やっぱり、友人であり、チームメイトであり、監督である彼の言葉には説得力がある。周りに左右されない、ブレないメンタルの強さが羨ましい。
「花形はそのつもりなくても、なんていうか、された側は期待しちゃうっていうかね」
「藤真はドライすぎるから〜」
「そうか?」とキョトン顔を浮かべる藤真に、「無自覚こわ〜!」と友人たちが顔を見合わせて笑った。藤真ほどになると、相手に気を持たせない世渡り術が自然と身についているのかも。
対して花形は、『本人にそのつもりなくても、相手が期待しちゃう』タイプらしい。妙に納得してしまった。
「あ、ねぇ今日放課後、学祭の衣装合わせするから!予定空けといてね」
「はーい」
「え、俺も?」
「当たり前よ!藤真は絶対参加だから!」
クラスの実行委員から回ってきた伝達事項にも、生返事を返すしかなかった。
〻
「結構可愛いね、これ!」
「ちょっとウエストきついかも…」
「ね、スカートの丈ってこれで大丈夫?」
放課後、教室内はいつもと違う風景に浮き足立っている。
パフスリーブのブラウスに、腰でリボンを結んだエプロン、制服より少し短いフレアスカート。こんな衣装を身に纏っていると、ここが学校ということを忘れそうになる。
「やっぱり藤真、サマになるね〜!」
「早速宣伝チラシに使おう」
「やるからには出展部門売上1位、目指すぞ!」
シャツにネクタイ、ベストでバッチリきめた藤真の姿は、確かにいつも以上にカッコよく見える。
早速、廊下を歩く女子生徒たちが足を止めて、開け放たれた窓や扉から覗き込み、小さな歓声を上げている。
「あ、花形!」
ふと、藤真が教室の外を通りかかった人物を呼び止めた。
窓の方へ近づくと、黄色い声はより一層大きくなる。
「どうしたんだ、その格好」
「学園祭で喫茶店をやるんだ。衣装合わせをやってるから部活に少し遅れると伝えておいてくれないか」
「あぁ、わかった」
藤真が端的に用件を伝え、花形がそれを了承して、それで済むはずだった。
「おい、みょうじ!花形来てるぞ」
大人しく背中で聞いていたのに、突然声をかけられて、ビクゥ!と肩が震えた。
向き合っていた友人がニヤニヤした表情で、行ってきなよ、と顎をしゃくる。
一度、鏡で今の姿を確認してからにしてもらいたかったのに…。意を決して呼ばれた方に向かった。
「お、お疲れ〜…」
改めてどう言葉をかけていいかわからず、とりあえずぎこちなく手を振る。
花形は黙ったままで、両目をわずかに見開いて私の姿を眺めた。次いで一歩、窓越しに距離を詰めてくる。
「みょうじも当日それ、着るのか」
「え、あ…うん。その予定」
そうか……、と顎に手をやり小さく呟く。表情はいつも通り落ち着いている。
「オレが嫌って言ったら、考え直してくれるか?」
だからこそ、その言葉に思わず耳を疑った。
大抵のことは許容してくれる花形が、こんな風にハッキリと拒否の意思を示したことなんて、今までなかったから。
「花形、こういうの嫌い?」
「嫌いじゃない。だが、皆の前ではその格好はしてほしくないな」
「…ごめん」
「いや違うんだ、その……」
花形は気まずそうに視線を逸らし言い淀んだ。何かを躊躇っているような、はっきりとしない素振りは珍しい。
それでもまたすぐに私の方へ顔を戻すと、
「正直、妬けるんだよ」
驚いた私が聞き返すより先に、ぶっ、と隣にいた藤真が吹き出した。花形に睨まれて、「悪い悪い、」と心にもない謝罪を口にする。
彼が肩を震わせたまま教室の奥へと戻っていったのを確認してから、花形が私をさらに窓の近くへと呼び寄せた。
「こんな我儘言って、幻滅したよな」
「…ううん、ちっとも」
良かった、と小さく息を漏らして口元を緩める姿を見て、胸の奥がキュウと疼く。私だって花形のこんな顔、他の誰にも見せたくないなぁなんて思っていたら。
「あとそれ、よく似合ってる。可愛い」
ついでに破壊力抜群のやつを投下されて、後ろから呼ばれた声にもしばらく振り向けなかった。
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