悪辣と白百合


日付が変わったばかりの、深夜0:06。
神室町のとある風俗店で、男性客と暴力団構成員の男が喧嘩になり、客が意識不明の重体。
現場に向かう途中、搬送の救急車とすれ違った。

駆けつけていた警官の報告通り、構成員の男は既に拘束されていた。こちらを睨みつける顔には数箇所の生傷と、拳には血がベッタリと付着している。
署へと向かう車に乗り込むのを確認し、店の従業員の方に向き直る。


「——では、こちらのお店には普段から暴力団が出入りしているということですか?」
「用心棒代わりですよ。客同士のトラブルも多いですから」
「いわゆるケツ持ちですね。金銭の要求にも応じていたと」


ここの店長らしい男性は、腕を組みつつ渋々といった様子で聴取に応じている。先の尖った革靴が落ち着きなくコツコツと地面を叩く。


「トラブルなら、我々が応じます。それとも何か、警察を頼れない理由でもありますか」


店の奥から覗く、数人の女の子たちに目を向ける。
その身体つきは薄い洋服越しにも分かるほど未成熟で、顔立ちにはまだ幼さが感じられた。

視線に気がついた店長は「ハァァ〜〜ッ」と大きくため息を吐き、先ほどよりも不満の色を濃くした顔つきでこちらを見下ろした。


「アンタら警察が何してくれんだよ?窃盗団も半グレもヤクザも、取り逃がして好き放題させてんのはそっちだろーが!」
「それは…」
「俺らだって被害に遭いたくないわけ。この前だってまた共礼会のヤクザがやられてたろ」


先日、3人目の死体が上がったのはこの近くだった。
不気味で残忍なこの連続事件の犯人について、警察はまだ尻尾も掴めていない。


「まぁでも、アンタみたいな下っ端に何言っても無駄だろうけど」


上から下まで品定めするように視線を動かして吐き捨てた言葉に、思わず親指を握り込んで拳を固めた時、


「彼女は我々組対の優秀な警察官です。ご安心ください」


柔和でいて、その場の空気を切り裂くような低い声に、振り返るのと名前を呼ぶのは同時だった。


「黒岩さん」
「お疲れ様、みょうじ刑事」


「あ、アンタは…」と驚いた表情で口を開く店長に、黒岩さんは「おや、ご存知ですか」と目を細めた。


「同じく神室署組織犯罪対策課の黒岩と申します。こちらを我々の立寄所にしますから、面倒事の際は私の名前を出していただければ」
「いや、そんな…わざわざ結構ですよ……」
「遠慮なさらず。……ただ、その前にこの店の営業実態について、署でお訊きしたいことはありますが」


店長はすっかり萎縮してしまい、顔は青ざめている。「この方を署までお連れしろ」という黒岩さんの指示に、傍にいた桜庭さんが素早く動いた。


「お忙しいところすみません…」
「いや、丁度一段落ついたところだ。様子を見に来ただけのつもりだったが、少々出しゃばりすぎたな」
「お気遣いありがとうございます。お陰で助かりました」


黒岩さんは開かれたままの車のドアに手をかけ、後部座席に乗り込んだ。
見送るつもりでその場に立っていると、中から声をかけられる。


「署に戻るんだろ?乗って行け」
「あっ…、はい!」


既に大方の現場検証を終え、野次馬も引き始めている。近くの警官に後を引き継ぐことにした。







「WこっちWの仕事には慣れたか?」


進行方向を見つめたまま、黒岩さんが尋ねる。
煌びやかな繁華街を抜けた通りから視線を外し、「はい、少しずつ」と返した。


「今回の異動、君には無理を言ったと思っている」
「とんでもないです!自分でも希望したことですから」


異動辞令が出たのは2ヶ月前のこと。
神室町は他の地域と比べても犯罪件数がずば抜けて多い。中でも、暴力団や半グレといった類を相手にする組対は昼夜問わず激務に追われ、人員が足りていない状況であることは、私も以前からよく知っていた。

多少腕っ節が立つという理由で黒岩さん直々に打診に来られた時は、とても驚いた。
神室署の顔とも言える人物からとなれば、私個人としても当時の上司としても断る理由はなく、その場の二つ返事で部署異動が決定した。


「頼りにしてるぞ」


フッ、と口の端を僅かに緩めてこちらを見やる仕草に、思わず心臓が高鳴る。
けれども同時に、この感情もせっかくいただいた言葉も持て余してしまう。
先程、店長の男に浴びせられた雑言が蘇る。


「俺の言ってることが信用ならないって顔だな」
「あ、いやっそんなつもりは…!」


ただ……と続けて、言い淀む。弱気なことを口走れば、黒岩さんは失望するのではないか。
恐れが頭をよぎったが、黙ってこちらに視線を投げたままの相手に取り繕う言葉も出て来ず、時既に遅い気もした。


「私は、街や組織の役に立てているでしょうか……」


自分の耳で聞いても情けない物言いだった。
組対に配属されたといっても、新人女刑事の身分は外からも内からも風当たりが強い。
それでも任された以上はここで踏ん張ると決めているし、懸命に食らいついて行くつもりだけれど。
時々少し、揺らぎそうになる。

尊敬する上司からの激励に自信を持って応えられない自らの非力さを恥じ、苦く噛み締めた。
黒岩さんは顔色を変えず、淡々と言葉を発する。


「暴力団や犯罪を素早く一網打尽にするのは難しい。複雑な事象や不特定多数の人間が絡んでいるからな」
「…はい」
「だからこそ、我々も一丸となって幅広く捜査にあたっている。その成果のひとつひとつは必ず大きな結果に繋がっていく。君も間違いなくその一端を担っているんだ」


そのことを深く自覚し、自負しろ。

いつもと変わらない、静かな声色だった。
それでも、車内の空気がピンと張り引き締まったような気がした。さっきまで靄がかかっていた私の心中の方は、言うまでもない。


「お言葉、胸に刻みます」


運転手を務めていた警官までもが、キッと目元に力を入れてハンドルを握り直した。
それに、と黒岩さんが続ける。


「ウチは手練れを揃えてる。みょうじもよく知ってるだろ?」
「はい、存じております」
「俺は無能な奴を下につけたりしないさ。…一部、例外は居るがな」


ほどなくして、私たちは神室署に到着した。
車から降りて部署に戻ろうとした時、黒岩さんが別方向へと歩き出したことに気がつく。


「報告書をまとめたら、会議室に来てくれ。例のヤクザ殺しの件で、容疑者逮捕に動く」
「ついに犯人が現れたんですか?!」
「詳細は追って報告する。全体招集をかけてるんだが、綾部とだけ連絡がつかなくてな」


どうやら電波の届かない所に居るらしい、と鼻を鳴らしながら、目は恐ろしいほど冷えきった色をしている。

「では、後ほど」と曲がり角で別れるやいなや、急いでアドレス帳の『あ行』をスクロールし通話ボタンを押した。お願いです、出てください。




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