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5時間目の数学は教室全体がまどろみに包まれていた。
昼下がりの穏やかな陽気に加え、坂本先生のゆる〜い雰囲気がそうさせている気がする。アイマスクを下ろして大いびきをかく沖田くんを起こすこともしない。


「あの時見た海はまっこと美しかったぜよ…揺れはきつかったけんど……」


現に今もチョーク片手に、グラフの解説からクルーズ旅行の話にすり替わっている。
教科書の内側に求人誌を挟んだ長谷川くんが「その話もっと詳しくお願いしま〜す」なんて言うせいで、授業はますます脱線していく。


「お、もうこんな時間か。この前のテストを返すぞー」


話がひと段落ついたところで先生が紙束を取り出すと、教室内がざわつき始めた。
先日の初回授業で行われた実力テスト。順番に名前を呼ばれて返却された生徒たちの反応は様々。


「小浦ー」
「はい」


私もまた受け取ろうとした瞬間、先生がふっと眉を下げて少し困ったような笑みを浮かべた。
仕草の意図が分からず、とりあえず軽く微笑み返してみる。


「もうちっくと、頑張りや」


ぴら、と私にだけ見えるようにめくられた用紙のカドには赤ペンで『8点』とあった。


は、8点…?

衝撃を受け止めきれないまま、よろよろと席に戻る。
元々数学は苦手だし今回も自信なかったけど、まさか自己最低点を叩き出してしまうとは。選択問題が2問正解、あとはお情けの部分点がほんの少し。それ以外はほとんど空欄のためズラーっと下までペケが並んでいた。


「アハハハ!ゴリ、オマエ9点ってマジアルかァ?!」
「そういうチャイナこそたったの10点じゃねーか!」
「私は2ケタアル。この1点差は大きいネ!」
「そういうのを目糞鼻糞と言うんだ。見苦しい争いはやめろ」
「そういうオメーは12点なの見えてんぞバカツラ!」


いつも通りの他愛無いやりとりが今は鋭く胸に突き刺さる。
この中で私がビリだと判明してしまった以上、みんなのように無邪気に笑い合うこともできない。


「文系の平均点は70点。このクラスの最高得点は土方の92点じゃ!」


拍手!と称えられた土方くんは「…別に」とそっぽを向いたが、その横顔はどこか嬉しそう。


「すげーや土方さん。俺にも教えてくだせェよ、バレねーカンニング法」
「してねーよ!!」


軽口を叩く沖田くんのテスト用紙がちらりと見えた、ズバリ70点。授業中寝ていてもきっちり平均点はとってくるあたり、相変わらず要領が良い。


「まぁ、今回はおまんらの実力を見るためのテストやったがじゃ。定期テストまでに復習しとくこと。以上!」


チャイムが鳴るより少し早く授業を終え、クラスはいつもの騒がしさを取り戻す。
何度見ても目の前の結果は変わらない。落ち込んではいるけどもう半分諦めてもいる。


「慶様」


突然背後から話しかけられ、ギャッ!と悲鳴のような声が出た。声の主は斜め後ろの席に座るたまちゃんだった。


「驚かせてしまってすみません。少し元気がないように見えましたので…」
「えっ。そそそんなことないよ!」
「8点、あまりお気になさらず」


見えたの…?と小声で尋ねる。たまちゃんの顔色は少しも変わらないものの、やや伏せられた視線は肯定の意を表していた。


「視力が良いものでつい…。お詫びに私の点数もお見せします」
「きゅ、91点…!すごいね……」
「所々間違えておかないと、土方様のようにカンニングを疑われますので」


見せてくれたテスト用紙は見事にマルばかり。元々理数系が得意なたまちゃんにとっては朝飯前だったに違いない。


「いいなー、たまちゃんは数学得意で」
「宜しければ坂本先生の補習を受けてみてはいかがですか?」
「え、坂本先生の?」
「理数クラスの知人が言うには、分かりやすいと評判ですよ」


坂本先生が補習をしているなんて知らなかった。正直、真剣に勉強を教えている姿なんて想像つかないけど…。


「週に一回、自習ベースで行っているそうです。わからないことがあれば直接訊いてみるのが得策かと」
「……たしかに」


ボロボロの結果を知られてる上で参加するのは少し気まずいけど、たまちゃんのアドバイスはごもっとも。
聞けば今日がちょうど開催日らしく、早速時間と場所をテスト用紙の裏に控えておいた。











放課後、教えてもらった教室に来たはいいものの…
周りはおそらく同級生とはいえど知らない人たちばかり。さっきから難しそうな単語が飛び交ってるし、ある程度参加メンバーは固まってるみたいだ。

一番後ろの隅っこの席に座ると、「待たせてすまんのー」といつもの調子で坂本先生が入ってきた。


「おっ、小浦」


早速私を見つけては、少し驚いたように手を上げた。
何人かがこちらを振り返り、初めて私の存在に気がついたような顔をしている。


「来てくれて嬉しいぜよ。わからんことがあったら遠慮せんとなんでも訊きや!」
「どうも…」


小さく会釈を交わすと、先生は教室全体へと向き直る。


「ほいたら、質問があれば受け付けるきに。各々好きにしてえいぞー」


その一言で生徒たちが動き出す。
分厚い参考書を広げたり、ノートに黙々とペンを走らせたり、机を寄せ合って問題集片手に話し込んだり…
そして坂本先生の前にはあっという間に列ができている。


…私も、何かやらなきゃ。

やや圧倒されて、カバンからノートと筆箱に教科書、それから例のテスト用紙を取り出した。教科書から関係ありそうなページを探す。


「……なるほど!やっと理解できました!」
「やっぱ坂本先生の教え方が一番わかりやすーい」
「おまんらが優秀やきに。わしは何もしちょらん」
「先生ありがと〜!」


先生に質問した生徒たちが嬉々として席に戻っていく。その後も坂本先生の周りには次から次へと生徒たちが集まる。

教卓から身を乗り出してひとりひとりに教える先生は、私たちのクラスで授業をやってる時とはまるで違う。こんな真剣に生き生きと数学の話をしてる姿は見たことがない。

……なんか楽しそうだなぁ。



それからしばらく1人で自習を続け、どのくらいか経った頃。
うつらうつらとしていると突然手元に大きな影が差した。


「順調か?」


ハッとして顔を上げると、目の前に坂本先生が立っていた。
座っている私との身長差でいつもよりも大きく見える。

よっこらせ、と前の席の椅子を引き、向き合うような形で座った。


「ん〜あんまり……」
「気持ちよさそーに船漕いじょったのう」


アッハッハッ、と笑う先生を前に咄嗟にノートを隠しても無意味と諦めた。計算式は途中から細長いミミズになっている。

一呼吸おいて先生はサングラスを押し上げ、机の上のテスト用紙にぴたりと指をつけた。


「見てえいが?」
「…はい、どうぞ」


結果なんて知ってるはずなのに。
心の中で悪態をつきつつ居た堪れない気持ちでいると、一通り目を通し終わった先生はシャツの胸ポケットから赤ペンを取り出し、用紙を再度私の方に向けた。


「まず最初の計算問題を落とさんかったら、確実に点は取れる。後半の問題もそのまま流用しとるき、もう少し点はあげれたのう」
「えっ、あぁ……」
「ここは公式を使うがじゃ。こういうの覚えちょるか?」


スラスラと余白に書きこまれた式を見てもいまいちピンと来なかった。
私に見やすいように反対からも書けるなんて、先生意外と器用だなぁ。


「問2の小問1と3、形が同じじゃろ?見ながら当てはめてみると…」
「…………あ、」


公式と問題を行き来するペンに導かれながらひとつずつ計算を進めると、頭の中でバラバラだった点が細い線になり繋がっていく感覚がした。


「こういうことだったんだ…」
「数が大きなってもビビらんでえい。こっちも解いてみ」


はい、とシャーペンを握り、先生が書いてくれた公式を見ながら問題に取り掛かる。さっきより数式が長くなってもひとつずつ当てはめていけばいいから……


「……こう、ですか?」
「正解ぜよ!ようできたな!」


導き出した答えは、くるんと大きな赤マルで囲まれた。
顔を上げたすぐ先にあった坂本先生の顔は満面の笑みで、なぜかとても嬉しそうで。サングラス越しの目は優しく弧を描いていた。


「小浦は筋がええのう!」
「教えてもらった通りにやっただけですから…」


褒めてもらえるのは嬉しいけど、ここまで大袈裟に喜ばれるとちょっと恥ずかしくもなってくる。


「それでえい。まっさらな状態から始めて、真似しながら具体的な解き方を身につける。そのうちに抽象的な構造も理解できるようになるがじゃ」
「でもこの調子じゃ、だいぶ時間かかっちゃいますね」
「わしがいくらでも付き合うき」


はっきりと、間髪入れずに返ってきた答えに面食らってしまう。勉強の話だってわかってるけど。


「坂本先生〜、質問いいっすか」


声をかけられた先生は「ちょお待ち!」と返事をしつつ私の教科書を手に取った。後ろの方のページを開いて、グイグイと手のひらを押し付ける。


「まずは反復して慣れることが重要ぜよ。ちなみにさっきやったがはここな」


差し出されたそこには『3年間の総復習』とのタイトルで演習問題が載っており、一年生の単元に星印を付けられる。先は長い。


「まだこんなに……」
「そがぁに心配せんでも、小浦ならすぐできるようになるちや!」


思わず不安気な顔を浮かべた私に、先生が励ますように肩をポンと叩く。

不思議と先生の言葉には嘘っぽさや混じり気を感じない。心から言ってる感じがして、むずがゆい。


「わしが保証するぜよ」
「…ありがとうございます」


席を立った先生は呼ばれた生徒の元へ向かい、どれどれとノートを覗き込んだ。ここから話の内容までは聞こえないけど、険しかった生徒の表情が段々とほどけていく。
やがて閃いたようにペンを走らせる姿を見て、先生が柔らかく微笑んだ。


あんな風に、さっき私のことも見てくれてたのかな……

自分事みたいに嬉しそうにはにかんだ坂本先生の、同級生より少しだけ皺を刻んだ顔を思い出す。

その時どこからともなく吹き抜けた優しい風は、教室の中か、それとも。
教科書にギッチリ付けられた折り目に手を添えたまましばらく目を離せないでいた。




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