過去から一枚引いてみて

 その人は全体的にほっそりとしていて、ふとした時に折れてしまいそう、そんな危うさがあった。足が悪いのに細くて少し高めのヒールのパンプスを履いて、そのくせ人にあまり頼らない頑固さも。伏せられてばかりの瞳はいつも遠くばかりを見ていて、俺を憔悴させ、彼女を儚ませた。


 彼女に出会ったのは俺が高校3年生の夏。結構遅い時間、部活を終えた俺たちの前を彼女が歩いていた。杖をついて、少し危なっかしげに歩いていた彼女のバッグを後ろから追い越したバイクが掻っ攫った。
 その衝撃で彼女は転倒。バイクはすぐに離れていく。俺たちはすぐに彼女の傍に寄って無事かどうかを確かめた。地面を見ていた彼女が俺を見上げた。女の上目遣いなど、高身長のせいで見慣れていたが、彼女のどこか遠くを見る目にどきりとした。

「大丈夫ですか?」
「ええ、大丈夫。心配してくれてありがとう」

 彼女は大坪と木村に支えてもらいながら立ち上がり、少し遠くに転がっていた杖は高尾が持ってきた。俺はバイクのナンバーをペンで手の甲にメモして、緑間は警察に電話をした。立ち上がった彼女の足はストッキングが破れ、少しそれに血が滲んでいた。思い切りアスファルトに打ち付けたのだから、当然だろう。
 事件に関わってしまった以上、俺たちも警察が来るであろう彼女に付き添っていたほうが良いだろう。彼女の手当てをすべく、俺たちはすぐ近くの秀徳に戻った。どの道警察から学校に連絡が行くだろうし。
 保健室はもう開いていないので、高尾が緑間を連れ立って先に職員室にまだ居るはずの監督のもとに行った。大坪と木村は現場で待機。俺は足の悪い彼女とゆっくりと歩いた。

「ごめんなさい。こんな時間なのに、帰るのが遅くなってしまうわ」
「気にしないでください。見過ごせませんし、男なんで遅く帰っても心配されませんし。大体いつもこんなもんなんで」

 会話はそれだけだった。秀徳は伝統的な、ような古い校舎だ。だから玄関にスロープなんて気の利いたものはないし、靴を脱ぐためのベンチや手すりなんてものもなかった。彼女は俺に頼らず、一人片手で器用にパンプスのストラップを外した。その時、踵が意外に高くて細いものだと気付いた。
 靴下とストッキング。夜の校舎にひたひた歩く音と、彼女の杖の音が反響した。一階の保健室前には既に監督と一年コンビが待っていた。

「さやか?」
「仁亮さん?」

 まさあき。一瞬考えて、監督の名前が中谷仁亮だと思い出した。下の名前で呼び合う仲ならば、深い仲なのだろうか。ちらりと彼女、さやかさんの左手の薬指を確認したが、指輪はなかった。
 お知り合いっすか?興味津々な高尾が聞く。お前は勇者か。俺はちょっと修羅場的な雰囲気を察して言い出せねぇよ。

「…いもうとだ」
「妹!?監督妹いたんすね!こんなわっかいし、美人さんの!」
「私は、義妹だから」

 さやかさんの言葉はどこか冷たくて、トゲトゲしている。それで話題を終わらせてしまうような、そんな突き放す雰囲気だった。
 監督はさやかさんをベッドに座らせると、カーテンを閉める。ちらりと俺たちを見遣ってから、保健室の戸棚を漁っていて、なにか温かいものでも淹れようとしているのだと分かった。

「で、ひったくりだったか?あいつも災難だなぁ」
「バイクのナンバーは控えてるのだから、すぐに見つかるはずなのだよ」

 閉められたカーテンの向こうで、布が擦れる音がする。破れてしまったストッキングを脱いでいるのだろうけど、少し刺激的だった。
 しばらくしてさやかさんが出てきて、杖をついてこちらへやって来て椅子に座る。監督が床に膝をついてさやかさんの怪我を確認していた。

「範囲が広いな。ガーゼを当てて、包帯かテーピングか」
「消毒だけで良いわ。大した傷じゃないもの」

 監督は何も言わずに消毒をしてガーゼを当て、包帯を巻いた。さやかさんは少し不満そうだったが、監督と同じように何も言わなかった。
 静かな保健室で、さやかさんはマグカップの中で湯気を立てるコーヒーをちびちびと飲んだ。ブラック、大人だと思った。

 少し経って警察がやって来て、俺たちとさやかさんから事情を聞いた。さやかさんの名字は中谷だった。義妹と言っていたし、監督の男兄弟に嫁いだのだろうか。あれ、指輪。まあ、しない人もいるか。
 事情聴取が終わって、被害届も出した。彼女は唯一手元に残ったスマートフォンを操作して、クレジットカード等 悪用されてしまうようなものを全て止めてもらっていた。

「うちに来れば良い」
「でも、突然だし。奥さんやお嬢さんに悪いわ」
「でもお前、財布もなくて、家の鍵もなくて。どうするつもりだ?」
「……わかったわ」

 そうして監督は俺たちに気をつけて帰るよう言い残して、彼女を助手席に乗せて自宅へ車を走らせた。
 次にさやかさんに会ったのはその週の末だった。ナンバーを完璧に控えていた事もあって、すぐにカバンは見つかった。財布の中の現金は使い込まれ、そしてポーチに入っていたアクセサリーは売り払われていたが、それは犯人の負担できちんとさやかさんの手元に戻ってきたそうだ。わざわざ俺たちにその報告をしに、秀徳までまた来てくれた。

「これ、つまらないものだけど。たくさんあるからみんなで分けてね」
「当然のことをしたまでなのに、すまないね」
「いいのよ。大切なモノを失わずに済んだから」

 さやかさんの差し入れは大きなクーラーボックスに入れられていて、開けて俺たちは感動した。だって、ハーゲンダッツ(多分ドンキとかで三種セット箱入りになってるやつ)がみっちり入っていたのだから。さやかさんはきっと監督の家にお世話になっている間に部員の数まで把握していたのだろう。たっぷりあるそれは全員に行き渡るほどあった。
 俺とさやかさんの出会いはひったくり。第一印象は、危なっかしくて静かな大人の人。この時の俺は自分の事で精一杯で、この事件のことだって生活を彩るちょっとしたイベント。その程度にしか捉えていなくて、すぐに記憶の中で色褪せてしまった。それがもう一度芽吹いて色付くのは、春になってから。

あとがき


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