ピリオドの右を思う

 ウィンターカップを終えて抜け殻になる暇もなく、俺たちを待っていたのは受験戦争だった。勉強勉強、元々頭は悪い方ではないし、ひたすら赤本を解きまくって過去の傾向を知り、自分の弱い箇所を補強していった。そうして見事決めた第一志望。ちなみに先生や両親に受けろ受けろと急かされるようにして記念受験したT大は流石に落ちた。
 春からバスケのサークルや部活には入らず、桐皇の今吉に誘われてストバスを始めた。全員キャンパスが近いとは言え、そんなに会える訳でもないので合間にバイトを始めようかと思った。某サイトで近場のバイトを検索しながら歩いていると、杖をついた華奢なその人が口の大きなカバンからファイルを落として、書類をバラまいた瞬間を見てしまった。彼女の後ろ姿を俺は知っていた。
 スマホをポケットにしまって前に回り込むとやっぱりさやかさんだった。今日は風が強いから、若干離れた所に行ってしまった書類を優先して拾う。書類はたくさんの絵が描かれていて、それらは全て家具だった。インテリアデザイナーなのかな、と思いつつ足の悪いさやかさんが屈んで書類を拾っているのを手伝う。最後にさやかさんに手を差し出すと、彼女は右手で俺の手を握って立ち上がった。

「すみません、ありがとうございます」
「あ、いえ……。さやかさん怪我とかしてないですか?」
「え…」

 儚げな瞳に僅かに驚愕の色が差した。すぐにハッとして、俺は秀徳高校で、バスケ部で、以前ひったくりに遭った…。まで言ってさやかはああ、と納得した。
 大人っぽい、落ち着いていてナチュラルな色の口紅で彩られた唇が弧を描いた。さやかさんの笑顔は以前も見たことがある筈だった。だけど、その時より、今この瞬間。柔らかくてほんのちょっとあたたかいそれに、俺の鼓動は不自然に刻まれる。

「あの時の…。ごめんなさいね、すぐに気が付かなくて。制服じゃないと随分大人びて見えるし…」
「別に良いんです、あの時しかお会いしてませんし。俺も正直名前まで出てきてビックリしてます」

 制服云々は親戚やら近所の人にもよく言われるし、気付かなかった言い訳と社交辞令だろう。しかしそれを分かっていながら大人っぽいと自己解釈してしまう俺は酷く愚かだ。きっとこの時すでに俺は恋に落ちていたのだろう。

「改めまして、中谷さやかです。今日はちょっと時間がないのだけれど、もし良かったら今度お礼させてね」

 時間がない、と腕時計に目を落とすさやかさん。握ったら折れてしまいそうなほど細い手首に、よく合う華奢な腕時計がつけられていた。下を向いてばかりの人間は嫌いだが、さやかさんの伏し目がちな瞳は危うさと色香を孕んでいて本能的に好きだと思う。
 名刺を渡され、熱の欠片もない冷たい表情にほんの少し春の暖かさが伝染したようで、"絶対"に連絡してね。とさやかさんは相変わらず杖をついて何処かへ行ってしまった。
 原田デザイン事務所 とあるその名刺にはさやかさんの名前が漢字表記とローマ字表記で記され、携帯の番号があった。
 電話か、少し気まずいなと思った頃に自分が往来のど真ん中で突っ立ったままだという事に気が付いて端に寄る。当初開いていたバイト募集の画面を消してさっそくアドレス帳に登録してみる。

「あーくそ、マジかよ」

 どうやら俺は彼女に惹かれつつあるらしい。

あとがき


ALICE+