遙か先のロマンチック

 ガンマ一号は今、苦境に追い詰められていた。
 先程までは、なんて事はない平穏な時間が流れていたはずだ。一号は恋人である○○とのんびりと二人仲良く並んで座り、これまたなんて事のない内容のドラマを観ていた。ラブストーリーですらないものである。
 それが一号の気づかない内に、何だか艶っぽい雰囲気になってしまい、更には何故だか気づけば、己の腕の中には瞼を緩く伏せてしおらしく縮こまる彼女が収まっていた。
 俗世に疎いと評されている流石の一号でもわかる。これは、キスを強請られているのだと。二人の関係をより深く進めるチャンスなのだと。
 彼女はどうかはわからないが、一号にとってはファーストキスである。そうでなくとも、彼女に不格好な姿を晒すわけにはいかない。つまり、何があろうと失敗はできないのである。そう決意して彼女の肩に手を添えて、名前を呟きながらゆっくりと唇を彼女のそれへと寄せる。そのまま順調に一定の距離まで近づいた時、一号ははた、と動きを止めた。 
 明らかに口周りのセンサーが、これ以上接近しては———ましてや接触するなど!———極めて危険だと、異常な反応を示している。
 だがしかし、彼女の瞼は完全に閉じきって、一号の唇が落ちてくるのを今か今かと待ち構えている。この状態でずっともだもだと悩んでいるわけにもいかない。彼女が不審に思う前に、何か行動を起こさなくては。
 この人造人間、ガンマ一号は思い切りの良すぎる男だった。防衛反応の警告など、見なかったフリをして、ええいままよ! と少しの勢いをつけて彼女に口付けると、ふにゅり、とした心地よい感覚を覚えたその瞬間、それとは別に受けた予想以上の衝撃に、一号はその唇に吸い付かれているかのようにして、しばらくの間硬直してしまった。
 実際にはものの数秒であったが、ほぼパニック状態に陥っている一号にとってその時間は悠久に等しかった。
 油の切れたブリキのおもちゃのように言うことを聞かない両腕を何とか動かし、彼女を引っぺがすとそのまま俯き、遅れて通達されてきた諸々のデータを処理する。発声ユニットから漏れ出てしまった情けない呻き声と共に。
「っ……ぅ、ぐ…………」
「え、なに、えっ……? ど、どうしたの……」
 困惑する彼女の声は、一号には届いていなかった。それほどまでに凄まじいほどの電気信号だった。初めて触れた唇の柔らかさはさることながら、あの電気信号は聞き及んでいたキスの心地よさとは違ったものだったように思える。これを恋人をもつ者たちは平然と日常的に交わしているとは、にわかには信じられないことだ。こんなことを、これから、定期的に? そこまで考えて、一号は無意識のうちに躯体が震えているのを感じていた。 
「……り…………だ……………」
「え? ごめん、何て?」
「すまない失礼する‼︎」
「わ、えっ——ちょ、ちょっと一号⁈」
 この部屋にはベランダに通じる大きな窓がある。それも、ソファの真横に。彼女が静止するのにも耳を貸さず、一号は開いていたその大きな窓から勢いよく飛び出して、彼女の部屋から脱出した。こんな事はヒーローとして、いや人として最低な事だとわかってはいるのに、今は彼女と同じ空間に存在することすら難しかった。
「な、なにぃ〜……?」
 たった一人部屋に置いてけぼりにされた彼女は呆気に取られた。いい雰囲気だったはずだ。キスをするまでは、確実に。しかしそう思っているのは自分だけなのか。今すぐに確認をしたくとも、その相手は脇目も振らずに飛び去ってしまった為、どうにもならないが。一号のあの様子では、もしかしたら今日はもう帰ってこないかもしれない。そう考えて、彼女は一人寂しく失意の中ソファに蹲るほかなかった。


 
「……っ……○○」
 一号が彼女の部屋へ帰ってきたのは、それから一時間もしない程経った頃だった。気まずそうに目を伏せて、いつもの毅然さはひっそりと鳴りを潜めている。
「お、帰ってきた。頭は冷えた?」
 思っていたよりも早い帰還に、一号が気負ってしまわないよう、彼女は勤めて何も気にしていない風を装って、一号に手招きした。ソファが一号の重みを受け止めて、少しだけ彼女が一号側に傾いた。 
「突然逃げてすまない。自分の感情を優先して貴方の好意を無碍にしてしまった」
「いいよ、思ったよりすぐ帰ってきたし」
「本当に……すまない。謝って済む話ではないが、理由を聞いてもらえるだろうか」
「もちろん。話してみて」
 その懇願を断る理由は彼女に無かった。一号は緊張した面持ちで、しっかりと彼女を見据えると、ゆっくりと話し始める。
「さっきのは、私にとって初めてのキスだ」
「あら、そうなの。ごちそうさまでした。思ってた感じと違った?」
「違うと言えば違うが、貴方に非があったわけでは無い事を先に伝えておきたい」
「うん。ん、うん?」
「その、愛しい相手と交わすキスは癒しを得られるだとか、安心感を得られると聞いていたのだが、それだけでは無かった」
「なんか改まって面と向かって言われると照れちゃうな。それで?」
「ここからが本題だ」 
 一号が言うにはこうである。ガンマシリーズは鮫をモチーフにデザインされている。それ故、鮫の生態に備わっているものの大体は自身にも備わっていること。口元に搭載されたロレンチーニ器官のせいで、どれほど微量な電流でも感知できてしまうこと。つまりは人間から発せられるちょっとした電磁波にも反応してしまうこと。その反応でただのキスでは起こらないであろう、凄まじいほどの衝撃を受けること。警告を無視して続行したキスが想像以上に刺激的だったこと。そしてこのロレンチーニ器官を模したセンサーは意図的に切れるものではないこと。一号も改造してまでセンサーを除去することを望んでいないこと。
 ここまで一息に説明した一号は、一度目を伏せて彼女の手を取ると、再び彼女にしっかりと目を向けて、言い淀む事のないように慎重に口を開いた。
「——だから、練習をさせてほしい」
「え、れっ、練習……? キスの?」
「ああ。何度か練習すれば、いくらセンサーが過剰に反応しようと多少は慣れるはずだ」
「…………いいけど、練習ってことは本番もあるの?」
「……? 本番、とは」
「練習って本番で失敗しない為にするものでしょ? 私としかしないのに練習も本番もないんじゃないの?」
「……た、確かに…………」
 彼女の尤もな指摘に、一号は思ってもみなかった、とでもいうように目を見開いた。ガンマにとって生活の主軸である戦闘の基本は訓練、実践、対策の繰り返しである。日常生活でさえ、このサイクルを応用すれば、生活していく上で問題が起こることはないと一号は思っている。なのでまさか練習が存在しない営みがあるとは思いもしなかった。
 どうしたものか、と悩む一号を傍目に、その突飛な提案を聞いた彼女は、内心ほっと胸を撫で下ろした。こちらに非があったわけではないとは言っていたが、字面通り受け取るわけにもいかず、何か自分が至らなかったのでは、と思い悩んでいたからである。そうと分かれば、行動に移すのは早かった。 
「じゃあ練習と本番を兼ね備えているってことで」
 キスに浮かれるはずだった可愛い恋人を一人残して飛び去った罰である。彼女は戸惑う一号に構うことなく、その腕を掴み返してそちらへと体を乗り上げた。
「っ、いや、まってく、う——」
 少し意地悪そうな微笑みを湛えた口元が、戸惑っている内にずい、と迫ってくる。あ、と言う暇もなく、それは一号のそこに重なった。二度目ともあれば多少の覚悟はできていたが、それでもセンサーは危険≠フ一言を示し続けている。唇から全身に余剰電力が吹き込まれたかのように駆け巡り、CPUでの処理が全て遅延してしまうような感覚。あと数秒でも長くこの状態が続けば、ショートしてしまうのではないかと思うほどの、恐ろしいまでの刺激。ここまで感じるのに唇が触れ合って、たった零コンマ二秒のことである。
 やはりいきなり本番に挑むのは無謀だったのではないか。一号はそう考えて彼女の腕を掴んで離そうとした。のだが。
 ボヤけていたピントを合わせてみると、彼女の目元が微かに赤く腫れていることに気づいてしまい、一号は何も言えなくなり、彼女の気が済むまでこの暴力的なまでの刺激に耐える覚悟を決めるのだった。