ハデにやられたなぁ、とぬるいシャワーを頭からかぶりながら、独りごちた。浴室の鏡にうつる自身の至るところに、無数に咲かされた歯形は、見た目の鮮烈さとは裏腹に、痛みはあまり感じられなかった。彼が情事の際に噛むのだ、思いっきり。ひどいときには歯形の周りがうっ血して、痣のようになってしまうものもあった。初めて噛み跡だらけになった己を見た時は、それはもうぎょっとした。自分でも気づけないところまで噛まれては、日常生活に支障が出る。首筋の噛み跡を友人に指摘されたときには、顔から火が出るほどに恥ずかしかった。仏の顔も三度まで。今度こそしっかりと灸を据える必要がありそうだ。
「一号」
つとめて優しく、ほんの少しの怒りも声音から滲ませないように、私は声を掛けた。ベッドの上で正座した状態で待機していたであろう、一号の肩がびくりと震える。前回、前々回も彼はこうして私がシャワーを浴び終わるのを、身なりをきちんと整えて待っていた。そしてこの世の終わりだとでも言うような顔で本当に申し訳なさそうに謝るのだ。すまない、やりすぎた――と。その度にやんわりと、悪いと思うのなら、見えるところはやめてくれ、と注意した。情を交わした相手である。本当は私だってこんなこと言いたくはない。しかし今日こそは、心を鬼にして言わねばなるまい。私が息を吸うと同時に一号が口を開く。
「何度も、すまない……」
出た。正直言って、謝罪の言葉はもう聞き飽きた。反省している一号には悪いが、どれだけ心の底から反省しようとも、それが行動に表れなければ意味がないのだ。
「せめて見えるとこはやめてねって、言ったよね」
ゆっくりと彼の隣に腰を下ろすと、安物のスプリングが控えめな悲鳴を上げる。
「本当にすまない、抑えなければと、思ってはいるんだが……」
本当に思ってはいるんだろうな、ということは彼の沈んだ表情から伺える。けれど実際問題、私の全身はそれはもう、悲惨な状態なのだ。
「次噛んだら、しばらくシないよ」
服を選ぶのも大変だし、人に指摘されるのだって恥ずかしいんだからね――こんなことを言って、効果があるとは思っていないが、一応釘を刺す。
「……わかった」
約束する。まっすぐに視線を交え、はっきりと約束を口にした。その肩は落ちたままであったが。しょうのない人。ふ、と息を吐き出し、しょげ込んでしまった彼を抱きしめた。
あの日から数回ほど致したが、今の今まで、ただの一度も噛んでこない。なんだ、やればできるじゃないか、と初めの頃は思っていた。思っていたのだが――。
回数を重ねるごとに、違和感というか、明らかに加減されていることがわかってきたのだ。恐らく、噛まないようにという、交わした約束を守ろうとそちらに意識が向いているのだろう。そうなってくるとまったく満足していないわけではないが、少々物足りなくなってきた。我ながら自分勝手な女である。相手には我慢を強いておいて、自分を満足させろなどと。なにより最中の、彼の必死に固く口を噤む姿をみていると、なんだか申し訳なくなってきた。傷ひとつない自分の体を洗い流しながら、少しくらい譲歩してみようかな、と考えた。
「ね、一号」
シャワーを浴び終えた私は、早速一号に提案しようと声を掛けた。珍しく彼はいまだシーツに包まり、ボーっと天井を眺めていた。錆びついてしまったかのように、緩慢にその首が私の方を向く。
「……なんだ」
「あのね、私、自分の都合だけ考えて、一号に無理させちゃったかなって思って」
ベッドの縁に腰掛け、言葉を選ぶ。
「それでね、ちょっとだけなら、また……噛んでも、いいよ――」
聞くが早いか、気づけば私の両手首はやや乱れたシーツへと縫いつけられていた。
「頼む、逃げないでくれ」
綺麗に生え揃えられた歯の隙間から、藤紫の舌がてらりと覗く。敵機直上、急降下。あぁ、言わなければよかったかもしれない。