――春。CC内の休憩室にて。
「死にたい――」
テーブルを挟んだ向かいに座る彼女の口から、殆ど聞こえないような音量でふわりと飛び出たその言葉とともに、息が漏れる。
その意味を認識した瞬間に、弾かれたように彼女の顔を見るが、その表情は至っていつも通りで、聞き間違えたのかと思ってしまうほどの平穏さだった。
ボクの視線に気づいたのか、顔を上げた彼女が口を開く。
「二号さん、どうかしました?」
「今、死にたいって」
彼女の顔が強張る。視線はうろうろと彷徨い、その手元は握ったり開いたり、落ち着きがない。
言い訳を考えあぐねているようだった。
「…………気のせいでは?」
しばらく経ってようやく出た返答は、あまりにもお粗末なものだった。
口の端だけを無理やり引き上げて、ニコリと笑う彼女は、何かを恐れているようにも見える。
「そのとぼけ方は流石に無理があるよ」
「なら、聞かなかったことにしてくれませんか」
よっぽど聞かれたくなかったことらしい。その割には滑るように口から漏れてたけど。
「それは無理。ヒーローとして困ってる人を放ってはおけないな」
「別に、困ってることがあるわけじゃないんです」
「それに、今の発言は個人的に聞き捨てならないし」
微かに首を傾げ、「個人的?」と納得がいかない様子の彼女は、とっても可愛らしい。
「ボクが、キミの生きる理由になるよ」
「……なんですかそれ。励ますにしても冗談が過ぎますよ」
怒っただろうか。
一世一代の告白だったのに、普段の行動がおちゃらけすぎているのか、本気と捉えてもらえなかったようだ。
「冗談じゃないよ。本当にキミのことが好きなんだ」
「私なんかのどこがいいんですか」
「まずは誰にでも優しい所だろ、ご飯を食べてる時の幸せそうな表情や、普段仕事中はしっかりしてるのに変なとこで抜けてるとことかあと――」
「わ〜!わかりましたわかりました。降参です」
両手を軽く挙げて、まいったのジェスチャーをする彼女の顔は、真っ赤に染まっている。照れてる顔初めて見たな。
ひとまず、ボクがどれだけ彼女の長所を知っているかと言うことは、伝わったようだ。
んん、と照れを振り払うように咳払いした彼女が提案する。
「なら、まずはお友達から始めましょう」
「ボクらって友達ですらなかったんだ」
「ただの同僚のつもりでしたけど」
「ちぇ〜〜、まぁいいか」
ボクは友人のつもりだったのでちょっとショックだったけど、ただの同僚から友人へと昇格したのだ。
その先へだって、きっとなれる。その確信がなぜだかあった。
「今日からお友達として、よろしく!」
ボクの差し出した右手を、躊躇いながらも弱々しく握るその手は驚くほどに小さい。
これから二人で、死にたいだなんて思う隙もないほど、楽しい思い出を一緒に作っていきたいな。
――夏。薄明。
セミはもうほとんど土に還ったのだろう。
数日前まであれほど騒がしかったのに、今はもう微かな声しか聞こえてこない。
暑いから外に出たくない、という筋金入りのインドア派な彼女を無理やり海へと連れ出した。
海とは言っても、もう遊泳期間も終わっている時期だし、夕暮れ時なので、海には入らずに一緒に砂浜を歩けたらいいなぁと思っていたんだけど……。
「海なんて数年ぶりに来ました」
憎々しげに発せられたそれは、まるで地を這うようで、心底耐えられないといった感情が滲み出ていた。
季節外れの黄昏の海には、ボクたち以外人っ子一人いなかった。
「そんなに嫌だったんだ。ごめんよ」
「ここに来るまでに気づいてください!」
人の話をちゃんと聞かない人はこうです!そう言ってサンダルを脱ぎ捨てた彼女は一直線に波まで走り、たっぷりと手に拵えた海をこちらに放り投げた。
避けることも当然できたけど、面白そうなのでわざと顔からそれを被った。
海水が本当にしょっぱいということは、この時初めて知った。
「やったな!」
急いでブーツとグローブを脱いで、波へと足をつける。夕日に照らされたそれは、群青にオレンジを溶かしたような不思議な色をしていた。
彼女にならって、手の中に海をつくってそれを彼女に優しく投げつけた。
「ぎゃっ!!やめて!濡れたくない!」
「もう遅いよ!」
「そっちがその気ならこっちだって……!」
彼女は大人しそうな顔をして、意外と負けず嫌いだ。
ばしゃばしゃと飛沫を上げて、こちらをずぶ濡れにせんと、しっかりとボクを見据える今の彼女は、シャチよりも獰猛だ。
どれほどそうしていただろうか。
以前より日が沈むのがめっきり早くなってきた。
辺りはすっかり夜に呑まれて、月光と点々と佇む街灯だけがぼんやりと光る。
「はぁ……私何やってるんだろ」
「あはは!お互いびしょびしょだ!」
「もうっ、ハンカチしかないのに……」
服の裾や袖を絞りながら文句を垂れる彼女は、そう言いながらも少し楽しげだ。
彼女はどの季節であろうとずっと長袖を着ている。ボクが言うのもなんだけど、夏に長袖なんか着てるから暑いんじゃないか?
「仕掛けてきたのは〇〇のほうだろ」
「二号さんが無理やり連れて来なかったら、こうはなりませんでしたよ」
「けど、楽しかったろ?」
「うっ、まあ……それなりに」
図星。彼女はどんな感情でも隠してしまうきらいがある。感情を表に出すのに慣れていないのかも知れない。
「なら無理にでも連れてきてよかった」
「はぁ……ほら、頭拭いてあげますから、屈んでください」
自身をあらかた拭き終わった彼女が、ハンカチを絞って今度はボクを軽く拭いてくれた。
その穏やかな労りはひどく心地よい。
ボクのお世話もそこそこに、彼女が口を開く。
「この間の、恋人になってくれって話ですけど」
「ああ、考えてくれたの?」
「いいですよ。なりましょうか、恋人同士に」
「えっ、うそ!!えっ!!ほんと?!」
「そんなに驚かなくても」
「え、本当に?なんだって急に」
これまで何度も告白を重ねてきたが、ことごとく断られていた。なので、今回も断られちゃうかも、と内心弱気になっていたのだ。
「だって、何回断っても懲りずにまた申し込んでくるじゃないですか」
流石にもう、降参です。そういって両手を挙げて、まいったのジェスチャーをする彼女の顔は微笑みをたたえ、ほんのりと赤い。
「やっっった〜〜〜〜ッ!!」
「わ!ちょっと!!」
嬉しさのあまり抱きあげると、せっかく拭いたのに!と文句が返ってきた。
服が濡れようと、構うもんか。
ようやく今までの行動が最高の形で実を結んだのだ。
そんなこと、気にしている場合ではない。
「ボクを選んでくれてありがとう!」
絶対に後悔はさせないし、とびっきり幸せにする!
ボクのその言葉に、月明かりに照らされた彼女の瞳が、すこしだけ揺れた気がした。
――秋。紅葉が色づき始める頃。
「私、子供の頃お姫様に憧れてて」
「童話なんかに出てくるお姫様?」
彼女の部屋には沢山の絵本がある。子どもの頃から今まで集めているらしくて、ちょっとした本屋みたいだ。
置いてある絵本はどれもこれもお姫様がでてくる話で、ボクにとっては正直どれも同じように見えたけど。
「そう、絵本読んだことありますか?」
よかったら貸しますよ、なんてはにかむ彼女はついこの間まで死にたがっていたとは思えない。
絵本なんて読まなくても、ネットで検索すれば童話の内容を知ることはできた。けれど彼女の好きなものを共有したくて、「今キミが読んで聞かせてよ」と強請った。
ちょっと考えたのちに「いいですよ」と特にお気に入りだという絵本を選りすぐって読み聞かせてくれた。
彼女の語り口は少したどたどしく、けれど何度も読み返したことが窺えるはっきりとしたものだった。
ゆっくりと彼女の指が続きをめくる。熟読したせいか、端が擦り切れてあまりいい状態とは言えないページがしなる。
――そうして王子様とお姫様はいつまでも幸せに暮らしましたとさ。めでたしめでたし。
「月並みな感想でしょうけど、王子様のキスで目覚めるシーンがとってもロマンチックだなぁって」
もういい大人なのに、未だにいいなぁって思ってしまうんです。
そういう彼女は言ったあとに恥ずかしくなったのか、絵本を盾にして顔を隠してしまった。
常日頃から可愛いけど、照れているときの彼女は特段に可愛い。
恋人同士になってからというもの、今まで知らなかった彼女の色んな表情、仕草、好きなものなどがどんどんログとしてボクの中にたまっていく。
この感情が幸せってやつなんだろうなぁと身に沁みた。
照れ屋のその顔が見たいな。そう思い手首を掴んで絵本をずらすと、それは案外すんなりと下ろされた。
「なら、ボクが毎朝そうやって起こしてあげる」
「……その時を楽しみにしてますね」
初めて見た照れた顔と同じくらい真っ赤な顔で、そう答える彼女が愛おしくて堪らない。
起きてるけど、今キスしてもいい?
ボクのその問いに、彼女は返事の代わりに静かに瞼を閉じた。
――冬。終わりの季節。
〇〇が救急搬送された。
外部での任務を終えた頃、一号から届いたその簡素な通信は青天の霹靂であった。
彼女は今日は休みで家にいるはずだ。それが、どうして。
ここから彼女の運ばれた病院までしばらくかかる。
頼む、どうか無事でいてくれ。
そう祈ってボクは最大出力で病院まで飛び立った。
病室に入ると、部屋の中央に置かれたベッドに寝かされた彼女を、今までに見たことがない程の暗い表情で見守る一号がいた。
彼女は沢山の管で繋がれていて、自力での呼吸もままならないようだった。
「一号、〇〇は――」
「低酸素脳症で、未だ意識不明だ」
「低酸素脳症って……なんで……」
彼女はこれといった持病もなかったはずだ。それが突然救急搬送されるなんて、原因が推測できなかった。
「私が発見したときには、既に心肺停止状態だった」
どうしても今日中に直接確認しなければならない重要事項があり、ブルマ博士に代わって一号が社員寮にある彼女の部屋を訪ねた。休日はいつもどこにも出掛けず部屋にいると聞いていたが応答がない。
たまたま出かけているのかとも思ったが、部屋の中に微かな生体反応を見つけ、不審に思いドアノブをひねると鍵がかかっていない。
なにかあったに違いないと部屋へと断行すると、首を吊っている彼女を見つけたと――
「なら、一号が助けてくれたのか」
首吊り。自死。どうして。昨日までボクの隣であんなに楽しそうに笑っていたのに?
「この状態は助けたと、言えるのだろうか……」
「まだ心臓が動いているのなら、望みはあるだろ」
死んじゃったらもうどうしようもないし、そう言いかけて喉がひきつり、口にするのをやめた。
口にしてしまったら、本当にそうなってしまいそうで恐ろしかった。
「そうだな。そう、願おう」
それはなにかに縋るような祈りの言葉であった。
一号もボクと同じように彼女には世話になっている。その心中は言葉には表れずとも十分に察せられた。
「あぁ、そうだこれを。遺書、のようなものだと思うが」
ふと思い出したかのように一号が言う。
そういって差し出された便箋は、彼女のお気に入りのものだった。
可愛らしくデフォルメされ、煌びやかなドレスを着たお姫様の描かれたそれは、遺書を包むにしてはあまりに役不足だった。
「彼女のそばに落ちていた。お前宛のものだ」
「……ありがとう」
「お前はしばらく彼女のそばにいるといい」
そう言って一号は病室からでていった。相変わらず気の利いたことの一つも言えない相棒の、その優しさがいやに沁みる。
初めて感じる無力感に、堪らずベッドのそばの椅子に腰掛けた。
彼女の手首には血管と平行になるように、無数の傷跡が残されている。随分と昔についたようなものから、まだ瘡蓋になったばかりのものまで、何度も何度もそこを自身で傷つけたことが窺えた。
知らなかった。その腕はいつも白衣を纏っていたから。
首にクッキリと残る鬱血痕は、彼女の覚悟の表れであった。
知ったふりをしていただけで、ボクは彼女のことをまったく理解できちゃいなかった。
恋人としても、ヒーローとしても、ボクは彼女を助けることができなかった。
そうだ、手紙にはなんと書いてあるのだろう。ボクだけに宛てたものと言うことは、恨み言でも書いてあるのだろうか。これを読めば、彼女が自死を選んだ理由がわかるかもしれない。震える指先で封を開ける。紙面には几帳面な彼女らしい、整った文字が並んでいる。
二号へ
こうやって貴方に手紙を書くのは初めてですね。
貴方がこの手紙を読んでいるということは、私は無事(死ぬのに無事というのもおかしな話ですが)死ぬことができたということなのでしょう。
きっと貴方は納得できないと思うけど、私が死ぬことにした理由をこの手紙に記します。
私は、希死念慮に苛まれながらも、今まで生きてきました。
これといって生きる理由もないけれど、同じように死ぬ理由もないからなんとなく生きている。そんな状態です。
けれど死ぬ理由なんかないくせに、わけもなく死にたい。そんな思いが常にこの身に付きまとっているのです
それは日に日に大きくなり、二号が私の生きる理由になると言ってくれたあの日、ついに溢れてしまったのです。
あの日をきっかけに貴方は私への好意を隠さなくなりましたね。
初めは、正直うっとうしかった。
いつ衝動的に死んでしまうかもわからないのに、他人を愛している余裕なんてないのに。
そんな私の生きる理由になるだなんて、いくらヘド博士の傑作と言えど、自信過剰にもほどがある。そう思っていた。
なのに貴方はずけずけと私の心に土足で踏み込んで、あっというまにそれを掌握してしまった。
嬉しかった。どうしようもない死にたがりの私のことを、好きだと言って抱きしめて、愛しているとキスをくれて。
二号が一緒にいてくれるなら、ちょっとでも生きてみようかな、なんて考えたりもして。
私にとって二号は、確かにスーパーヒーローでした。
けれど、やっぱりダメでした。
愛されれば愛されるほど、ひどく息がしづらいのです。これ以上幸せになってはいけないと、そう思ってしまう。
それは二号のせいではなく、私の性質のせいです。
なのでどうか気に病まないで。そういう風に生まれてしまった、私が悪いのです。
私はおとぎ話のお姫様にはなれない。
本当にごめんなさい。
貴方から与えてもらってばかりで、何も返すことができなかった私を恨んでほしい。
そしてお願いです、身勝手な私を許さないでほしい。
私は、自分自身の生来の心の弱さのために死ぬことにしたのです。
最後になったけど、こんな私を愛してくれてありがとう。大好き。
あんまり無茶しないでね。
エイジ784 十一月二十一日 〇〇
彼女の思った通り、ボクはこの独白を読んでも納得できなかった。彼女はどんな気持ちで、この独白をしたためたのだろう。きっと、苦しかったのだろう。はやく楽になりたかったのだろう。それは、理解はできても共感はできないものだった。
涙は出ない。この機械仕掛けの体が涙を流すことが出来たのなら、どれほど楽だったろう。
思うがままにこの胸中の淀みとともに一緒に流せてしまえたら――
「キミはいつ目覚めるのさ。お姫様」
返事はない。人工呼吸器のおかげで、キミにキスをおくることもできやしない。
死にたがりのお姫様は、ただ静かに眠り続けるのみであった。