※嘔吐描写

「う゛っっ、ぐ、うぇ」
 びちゃびちゃと彼女の足元を濡らしたそれは、幸いなことに固形物はなく液体だけであった。朝食をカフェオレだけで済ませていて助かった、吐いてることに変わりはないけど。そう思いながら喉に張り付く不快感に彼女は顔を顰めた。
 玄関口でガンマ一号を出迎えると挨拶もそこそこに、その場で強く抱きしめられすぐさま唇が重ねられた。
 数週間ぶりの逢瀬である。求められて彼女も嫌な気はしなかった。そこまでは、まだよかった。
 彼女のものよりも随分と長い舌を無理やりねじ込まれ、思わず体が強張る。過去何度もえずくからやめてくれと頼んだのに、それで舌根を強く撫ぜられこの惨状。
 出迎えて数十秒間での出来事である。
「大丈夫か」
「はっ、うぅ、だいじょぶ……」
 どの口が言うのか。あんたの舌使いのせいだぞ、とは言えなかった。息も整わないうちに、またも唇を寄せられたからである。何をするつもりか、と彼女は慌てて彼から顔を背けた。
「ぅ、まてまてまて何してんの」
「?続きをしようとしているが」
「今の私の状態わかる?ゲロ吐いたんだよ、足元とか口とか汚れてるよね?」
「後で片付ければいいだろう」
「あ、ちょっ、んぶ」
 ふざけんなよマジで。そんな文句のひとかけらを溢すことも許されず、再び唇が合わさった。
 正気の沙汰じゃない。ゲロってすぐの女にキスするなんて。その思いも音になることはなかった。
 口内に残った胃液を温い舌先でかき混ぜられ、再度強烈な吐き気が彼女を襲う。
 つぱ、と唇が離されると同時に俯いて、さらさらとした液体を吐き出した。
「げぇ……っ!ぅぐ……ぁ……こほっ、うぅぅ……」
 本日二度目の嘔吐である。もう彼女の胃の中には吐き出せるものが何もない。故にその場に蹲ってぐるぐると胸で渦巻く吐き気に耐えるしかなかった。
 ありもしない食物を吐き出そうと、収縮して痛む胃が恨めしい。
 彼女の背に彼の手が触れ、優しく呼吸に合わせて上下される。ぜえぜえと肩で息をし、何度かそれを繰り返しようやく落ち着いた頃、同じように彼女の横にしゃがみ込み黙ったままの一号を睨みつけた。
「…………あのさぁ〜〜〜〜!!!!」
「すまない」
「とりあえずで謝るのはやめて!」
 一号のそれは、血圧の急上昇の確認、声の抑揚、過去の彼女の情緒に関する記録などから、彼女の怒りを推測して発した形だけの謝罪である。実際に彼女が怒っている理由は一号には完全には理解できていなかった。造られてこの方嘔吐したことがなく、その苦痛がわからないからである。
 彼女があまりにも簡単に吐いてしまうので、大袈裟に騒いでいるのではとさえ思っている。
 一号はタイミングよく彼女が嘔吐する寸前に唇を離している。誰がどう見ても確信犯であったが、こうして故意に吐かされる度に嘔吐感に俯き喘ぐ彼女は気がつかない。
 彼女は一号がキスに夢中になっているだけだと思っていた。そんなわけないのに。
「ほんっといい加減にして。人間は舌の根元押されたら吐いちゃうの。吐いたら喉は痛いし口の中は酸っぱいしなにより最悪な気分になるから」
「善処しよう」
「善処じゃなくって、もう絶対舌を押さないって約束して」
「約束……」
「約束できないならもう一号とはキスしない」
「えっ」
「なんでそんな意外そうなの……キスするたびに吐きたくないもん当たり前でしょ」
 一号は嘔吐した直後の、彼女の表情が堪らなく好きだった。
 彼女が初めて嘔吐したときの録画ログをいまだにこっそりと繰り返し再生しているほどだ。
 その表情が、彼女の見せるどの表情よりも愛らしいとさえ思っている。
 嫌がっていることはわかってはいたが、悪いと思いつつもついつい舌根を撫でることを止められなかった。罪悪感よりも加虐心が勝つのだ。いつもいつも。
 何度もやめてくれと言われている。いい加減己を律しなくては。がしかし、破られるかもしれない約束はするべきではないとも思っていた。彼の性質上交した約束を違えることは許されなかったが、うっかり無意識にそうしてしまうのではと不安だった。
 煮え切らない彼の態度に辟易しきった彼女が凄む。
「このままだと条件反射でキスしただけで吐いちゃいそう。いやでしょそんな私」
「私はどんな貴方でも愛すとヘド博士に誓っているし、嘔吐している貴方も愛おしいので、気にする必要はないと思うが……」
「そういう話じゃないし私が嫌なの!というかやっぱり悪いと思ってないじゃん!」
「…………すまなかった」
「適当な謝罪いらないから!ほんとにお願いだからさぁ」
 蹲って大人しくしていたおかげか、怒りでアドレナリンが分泌されたおかげか、そのどちらかわからないが気分は大分ましになっていた。彼の手を取り小指同士を無理やり絡ませた。
「はい指切り!もう一号は舌で私の舌を押さえません!絶対だよ!」
「……わかった。約束しよう」
「じゃあもうさっさと部屋上がってテレビでも見てて!ここ片付けたいから」
「手伝おう」
「結構です!早うお上がり!」
 思わずお国言葉が出てしまうくらいには、彼女は疲れきっていた。
 早く口をゆすぎたい。服も着替えたい。すぐさま片付けてダラダラしたい。折角の休日。折角のお家デートなのだ。レンタルしてきたスーパーヒーロー映画が待っているのだ。あと元凶の一号も。さっさと全部済ませてしまおう。
 そう考えて彼女はまずは着替えるために脱衣所へと向かったのだった。


 やってしまった、と一号はひどく動揺した。
 夜もすっかり更けた頃。
 にこにこと部屋着を脱ぎながら、ベッドシーツを新調したのだと言う彼女に、これから無茶苦茶になるのに、とは言わなかった。
 下着姿の彼女に一号はじくりと自身のコアが熱を持つのを意識する。
 情欲の赴くままに彼女を組み敷き、キスを落とした。
 ずるりと彼女の隙間に舌を滑らせて、その柔らかさに没頭する。してしまった。そうしている内にほぼ無意識に舌根の近くを舌先で撫ぜた瞬間に、今朝交したばかりの約束のことを思い出した。まずいと思い唇を離した頃には、彼女はこみ上げる嘔吐感と必死に戦っているところだった。
「お゛ぇ……こほっ、あ゛……ぅ」
「すまないっ!その、つい」
 ダメだった。彼女は吐き気を催した瞬間四つん這いになり、吐瀉物で溺れないように吐き出した。
 枕元に盛大にぶちまけられたそれは、ついさっき彼女自身で拵えた夕飯であった。
 原型をとどめていないシーフードグラタンにキャベツと人参のスープ。付け合せの焼き野菜のマリネ。二人で美味しいねと言い合いながら完食した夕飯だ。
 その饐えた臭いに彼女はひどく裏切られた気持ちになった。何度もやめてくれといったのに。今朝約束したばっかりなのに。もう彼女は我慢の限界だった。
「つい……なに?」
「あ……」
「もうしないって、今朝約束したよね」
 ーーねぇ、一号。
 続けられた声音は普段と変わらぬ調子のはずなのに、今の一号にはひどく無機質に感じられた。
 呼吸を整えた彼女はゆらりと起き上がり、罪の意識からか正座している彼に膝立ちで跨った。
「口、あけて」
 彼女の有無を言わさない物言いに一号は従わざるを得なかった。
 これは要望ではなく”命令”だと瞬時に理解した。
「なに、を……」
「噛んじゃダメだよ」
 すっかり据わってしまった彼女の瞳からは感情が読みとれない。
 彼女の心は凪いでいた。怒りが堪忍袋の容量を大幅にオーバーし、逆に冷静になれていた。一種のトランス状態のようなものである。
 口で言ってもわからないのなら体にわからせるしかない、そう判断した。
 彼の体の構造は全くわからなかったが、食べられるのだから吐くことも可能だろう。
 少し心苦しくはあるが、自分と同じ苦しみを与えれば彼も理解してくれるはずだ。
 そう願っての行動だった。
 ゲロまみれのシーツは、もうどうなったっていい。マットレスは……重曹や漂白剤でどうにかしよう。
 後処理のことは軽く考えて彼女は一号の顎をしっかりと掴み、反対の手の人差し指と中指を無防備な口に差し入れた。
「ぐっっっ?!ぅ、ふっ……」
 彼女の柔い指先がしっかりと藤紫の舌根を捉える。
 開けっ放しになって飲み込めなかったよだれが、一号の口端から溢れ零れて彼女の手を濡らす。
「悪いけど、覚悟して」
 その言葉とともに、彼女の指が舌根からその真上までかけてぐるりと一周強く撫で付けた。
「う゛っ?!く、ぐ……っ!」
「わ、あっ」
 一号のくぐもった呻きが発せられると同時に、痛いくらい手首を掴まれ急いで指が引き抜かれ、軽く肩を押されると体を支え切れずに尻餅をついた。
「〜〜っっ!ぁ、ぐっ……ぅあ、〇〇……」
 びしゃびしゃと数時間前にご馳走になったばかりの夕飯を撒き散らし、一号は初めての嘔吐感に喘いだ。
 喉の閉塞感と焼けるような痛み、続けて感じる口内に広がる刺激臭と自分の意志とは関係なく吐き出され続ける吐瀉物。
 彼女の苦しみはまさに痛いほどよくわかった。
 一号の隣に寄り添い、彼の背中をさすりながら彼女が言う。
「私の辛さわかった?ほんとに苦しいんだからもう二度と――」
 しないで。一号の顔を覗き込みそう言いかけて彼女は言葉を失った。
 何だその顔は。血色良く上気した頬。膜の張った今にも溶け落ちてしまいそうな瞳。開かれたままの口からはだらだらとよだれや消化液が垂れ流しになっている。
 もしや、悦んでいるのか。無理やり吐かされて。そんなはずない。苦しいはずだ。嫌なはずだ。自分の感じた苦痛を共感してくれるはずだ。
 恐らく造られて初めての嘔吐であろう。
 次々あふれ出る推測は一つの考えへと集約される。
 その表情を受け入れた瞬間、彼女は納得した。
 ああ、私もこの顔をしていたのか、と。
 彼女とて悦んでいたわけではない。苦痛しか感じていなかった。
 だが確かに一号のその苦痛に歪む表情を不覚にもかわいいとーーずっと眺めていたいとーーそう思ってしまった。
 お互いもうどうしようもないところまできてしまった。
 嘔吐フェチカップル爆誕の瞬間である。
 彼は先ほど「つい」と言った。なら今までわざとこの表情を引きずり出されていたと言うことか。それは憶測でしかないが、彼と同様に恋人の嘔吐後の表情に特別な念を抱いてしまった以上、彼女に彼を糾弾する意思はなかった。
 吐き出されたばかりの吐瀉物を呆然と眺める一号に、彼女は今しがた覚えたばかりの高揚感を誤魔化すようにキスをした。
 正気の沙汰じゃないと思っていたその行為は、彼の愛おしさの前では些事であった。
 彼女の舌では、彼の舌根まで届きそうになかった。
 彼が私にするように、彼にも同じようにしてやりたかったのに。ああ、口惜しいーー。そんな彼女の溜飲は丸ごと全部、彼の揺蕩う瞳によって下げられたのだった。


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